2012年07月22日

戦国自衛隊1549

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戦国自衛隊1549

監督 : 手塚昌明
出演 : 江口洋介  鈴木京香  生瀬勝久  嶋 大輔  綾瀬はるか  北村一輝  伊武雅刀  鹿賀丈史

ここのところ、邦画がつづいています。
先日の「日本映画も大変なんです」を書いたせいか、もっと観てみようという気にもなっているんですが、「だったらもっと他にあるだろう」と言いたくなる人もいるかも知れません。

たしかにこの作品、観た人たちからことごとく「ひどい」と脅されていたため、手が出せずにいたんですね。
それでも「角川グループ60週年記念作品」ですよ? 遅まきながらですが、やっぱり押さえておかないと。

「日本映画も大変なんです」でもちょっと書いた、アスミック・エース主催のワークショップに参加した際、この作品のプロデューサーである角川の黒井和男さんと名刺交換させていただいたことがあるんです。その時、「戦国自衛隊のリメイクをやっててねえ」とおっしゃってまして、内心「なんですと!!!」と興奮したのを覚えています。

1979年版の「戦国自衛隊」は、半村 良のSF小説を原作としており、演習中に戦国時代にタイムスリップしてしまった一個中隊が、生き残りを賭けて武田信玄と戦争、破滅に至るまでを描いています。

主演が千葉真一さんで、まあとにかく、むせかえるようなエネルギーに満ちた作品です。当時の製作であった角川春樹氏の意向かどうかわかりませんが、(まあ、あの頃の角川映画はみんなその風潮がありましたが)青春群像劇というスタイルで作られ、当時としてはがんばったアクション映画。今見るとちょっと泥臭く、冗長な面もあるんですが、当時はものすごい衝撃を感じました。

で、この平成版「戦国自衛隊1549」ですが、リメイクというよりかはスピンオフのような感じです。前作とはなんのつながりもなく、オリジナルストーリーとなっています。
この作品は興行的には大成功で、海外配給もされたと聞いています(ほんとかどうかは未確認です)。


自衛隊における磁場実験の事故で、「第3実験中隊」が戦国時代へとタイムスリップしてしまう。二年後、元自衛官だった鹿島(江口洋介)をオブザーバーに迎えた「ロメオ隊」が、事故を再現して実験中隊の救出に向かう。しかし、実験中隊の指揮官であった的場(鹿賀丈史)は、織田信長を討ち、自らを信長と称して尾張を平定し、斎藤道三をも従えていた。さらに日本の歴史を変えるべく、プラズマ装置の電池を起爆剤とした富士山噴火による、関東一帯のジェノサイドを起こそうとしている。
それを阻止せんとするロメオ隊と、実験中隊率いる信長軍が衝突する。


まず、この製作側の上手いところは、そのマーケティング。保守的といえば保守的になってしまうのですが、主要ターゲットが明らかに「中高生・もしくはファミリー層」です。実際、映画館に詰めかけたはその層でした。これによって動員の滑り出しも好調でした。
前作はレイプシーンがあったりし、女性の股間にぼかしが入るといった場面すらあったのとは対照的です。

戦国時代にタイムスリップした自衛隊が死闘を繰り広げる、といったような内容を、その手の層向けに製作する、という考えはなにげにコロンブスの卵です。これをもっと大人向けの作品として配給するとなると、ハードルが高くなります。間違いなく、予算ももっとかかりますし、動員的にもリスクが跳ね上がります。穿った見方をすれば、それを回避したとも見えます。


実際、この作品は大人の目の鑑賞に耐えられるものにはなっていません。
もちろん、それを目指してなかったわけですから、仕方ないんですが。

つまり、この作品が位置するところは、「ゴジラvs◯◯」みたいな、あのあたりだということです。(ちなみに監督の手塚さんは平成ゴジラ監督の雄です)
ところが、「角川グループ60週年記念作品」を冠するというのもあり、「おっ、やっと日本映画も本気になったか」とか思っちゃった人たちも多かったわけです。特に前作で興奮した世代はまさか「ここまでお子様向け」とは思ってないので、そんなつもりでいくと、ずっこけてしまうわけです。


しかし、製作側のこの選択と戦略は、商業的には正解だったのは間違いありません。だけど僕から言わせれば、「大勝負を避けた」という感が拭えません。

興業で勝って、作品で負けたという感じです。「角川グループ60週年記念作品」でありながら、後年に残るものにはなっていないのは明らかです。
この作品に出演した俳優(もしくはスタッフ)のうち一人でも、誰かの代表作になるなどということもなく、なにかの手本にもならず、誰かの尊敬や愛を受けることも、今後おそらくないでしょう。

まあさておき、ですからそこそこ目の肥えた映画ファンたちがこの作品をつかまえて「ひどかった」というのは、少々的はずれなのかも知れません。
「ウルトラマン◯◯大決戦」みたいな劇場作品をオッサンが観に行って、「子供だましだ」なんて息巻いてても、「はいはいw」なわけで。


そんなわけで、やはりもういいオッサンの僕がこれについてあれこれレビューするのもなんなんですが、せっかくですのでいくらか進めましょう。

俳優の芝居は全体的にやはりマンガじみていて、誰もがアニメの吹き替えのようなしゃべりで進んでいきます。そんな中、嶋 大輔さんが良かった。余計な力の入ってない演技で、その時に必要なものを大事にして演じてる感じでした。

テーマは「未来は人々の希望」というもの。なんでこんなにはっきり僕が言えるかというと、劇中にキャラクターがはっきりセリフで言っちゃうからなんですが・・・・ただ、この手合いのことを戦国時代の人間に説得力持たせて言わせるのは、ちょっとやはり大変なんだなと思いました。

これは中世が舞台なわけですが、それを信じられる絵にはなかなかなっておらず、戦国時代の人間も、平成の人間がカツラかぶってるようにしか見えません。最近、白土三平の「カムイ外伝」とかたまに読み進めてるんですが、第二部からのあの説得力はすごいですね。あの時代へ連れて行かれます。
そんなたった一人の作家がペンとケント紙だけで構築している世界に、何百人というスタッフと10億円をかけた作品が絵作りですでに負けているのです。

ああ、いかん、そうだ、こういうことを言ってはいけない映画でした。あれでよかったのかも知れませんね。
黒澤や小林正樹みたいな絵になっちゃいかんわけです。そういう映画じゃないわけです。うん。


いいことも書きましょう。


前作との大きな違いに、自衛隊が全面協力しているという点があります。おそらく、これまでにもっとも自衛隊が協力しまくった映画ではないかなと思います。本物の兵器車両がこれでもかと贅沢に使われており、ヒューイコブラや90式戦車があれほど肉薄して駆けまわるシーンは、ちょっとレアです。
レアといえば、OH-1偵察ヘリの飛行シーンも貴重です。これは日本製の高性能第三世代偵察ヘリで、噂でしか聞いてなかったので興味深く見ました。
うーん、マニアックですいません。

他には・・・まあ、こんなところかな。



「戦国時代」、というと、こう、浪漫あふれるというか、戦国武将たちの熱い群雄割拠に胸踊らせる人もいると思いますし、だからこそ映画や大河ドラマの背景になったりもするんでしょうけど・・・・実は僕はあまりそういうふうには見れてないんですね。
天邪鬼なのかも知れませんが、なんかこう、冷めて見てしまいます。というのも、戦国時代ってのは調べれば調べるほど、知れば知るほど、「どうしようもない時代」だったなという印象になるわけです。

大河とか、どの戦国武将も「この世の平安のため云々・・・」って言いますがね、でも本質的には暴力団の抗争となんら変わらないわけでしょう。もう構造からして。僕からしたら、戦国時代の大名なんてヤクザの親分と変わりませんもの。

たとえばヤクザの世界では、彫り物を体に入れたりしますね。あれってのはまあ、いろいろ意味もあるのですが、シンプルに言うと「この世界で生きていく覚悟」の表れでもあって、「この世界を離れませんよ。裏切りませんよ」という証でもあるわけです。なんでこういうのが重要視されるかというと、あの世界というのは古くから社会的には弱者の領域、危うい世界だったわけで、それだからこそ結束しなければ成り立たないわけです。
だから簡単に抜けられたり、裏切られたりしちゃ身がもたないので、互いの「覚悟」、己を「覚悟」を体現化し、盃を固めてその約束としたり、互いを親兄弟とまで呼ぶようなシステムにもなっていく。

戦国武将の世界も遠からずで、一人でも裏切り者出ちゃうと大変な世界。
月代といって、武士が額から頭のてっぺんまで剃り上げますでしょう。あれは、ああすると兜がすべりにくくなるというのと、蒸れなくてすむという単なる知恵だったのが、それを戦のない日常でも剃ることによって「日頃から、いつでも戦に出る覚悟がある」という表れとなり、そこから「主君への忠義の証」という認識へと昇華して、武士のたしなみとなったんですね。

ですから、乱暴な話、彫り物も月代も似たような精神構造で成り立っているとも言えます。「義」や「仁義」を重んじるのもおなじです。なにかあれば腹切るだの、指詰めるだのってのも、おんなじです。
それは危うい世界であり、ちょっとしたことが命に直結するからでして、明日の飯がかかっているからなんです。


飯、といえば、いつだったか面白い研究内容をネットで見たことがありました。
それは、「なぜ戦国時代が到来したのか」という疑問に、新しい見解を投げかけるものでした。この疑問に関しては、専門家に問えば「えー、まず応仁の乱がありましてェー・・・云々」とかになるのかも知れませんが、しかし「なぜこんな限られた国内の中で、あそこまで長いこと揉めなきゃならんかったのか」というのは、なかなか専門家も説明がつきません。

実は調べてみると、あの頃の地球は世界規模で寒冷化の時期に入ったらしいのです。これは、屋久杉の年輪などから証拠が出てくるそうなんですが、これによって、世界が慢性的な食料不足に陥っていた、というのです。
日本各地に豪族がいたわけですが、みんな食べるのにも苦労していたと。たとえば上杉謙信は関東管領という身でありながら、秋入りになるとしばしば近隣の領地へ食料強奪に行っています。

ということは・・・え? 要は、戦国時代ってのは生き残りをかけた食料強奪戦だったの??
いやまあ、そこまで単純ではないとは思いますが、根深い原因としては横たわっていたのかも知れませんね。でなきゃ、さすがにあそこまで死人出してやらんでしょう? まかりなりにも朝廷がいて、どうしてあれだけみんなが上洛だの天下だの目指さなきゃならないの。
武士の給料が「◯人扶持」って米で支払われ、大名の勢力を「◯万石」などと、その領地で取れる米の石高で表しちゃったりするようになるというのも、なんか説得力が出てきます。

まあ、真偽のほどはわかりませんが、なんにしろ今や時代小説や大河ドラマがやたらとあの頃をドラマチックにしてしまったため、こういう見方はちょっとドライすぎるかも知れませんねw


やはり現代人にとって、歴史とは浪漫のあるものであって欲しいわけですが・・・この「戦国自衛隊1549」、この際だからその浪漫ともっと本気で戯れてほしかったですね。


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2012年07月20日

ギターを持った渡り鳥

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ギターを持った渡り鳥

監督 : 齋藤武市
出演 : 小林 旭  浅丘ルリ子  宍戸 錠  金子信雄


Huluにおいて、何を観ようかだいぶ迷うようになってきた。というのも、「面白そうでハズレなさそう」というものは大体とっくの昔に観てるからで、ずいぶん食指の動かないものばかりになってきた。ここしばらくこのブログで紹介している映画も、もしレンタル屋へ行ってたら借りてないだろうなというものも多い。やはりさすがにこの手のインターネットサービスではラインナップに限界があるのかも知れない。

まあ愚痴はさておいて、やってまいりました「ギターを持った渡り鳥」。

主演の小林 旭は、僕の母が青春時代に熱狂したというアイドルである。そらもう、雑誌だろうがなんだろうが、彼の顔写真はなんでも切り抜いて大事にしていたという。顔を見る度に卒倒しそうになったというからおだやかでない。

うら若き日の母を、そこまで骨抜きにした小林 旭。どんなだったんだろうと、後学のためも含めて(なんと邪な理由だろうか)、鑑賞に踏み切ってみることに。

いわゆる当時のアイドル映画なわけでして、今でいう「ガンツ」とか? あんな感じ?  ちがう?  最近のよくわかんないごめん。


さておき、この作品はご存知の方もある通り大ヒットして、「渡り鳥シリーズ」として人気を博します。「無国籍アクション」なる言葉を生み出したのもこれ。あの、快傑ズバッドの早川 健のモデルにもなっているというからには・・・期待できます。

そう、良い意味でツッコミどころ満載の、ツーンと鼻にくるような、バタくさい娯楽作を期待しておりました。

ところが・・・・なんて物静かな、おとなしい映画なんでしょう。これは第一作だからでしょうか?


ギターを抱えた流しの男、滝 伸次が函館の街へたどりつく。夜の街で買った喧嘩の腕と気概を見込まれ、街を牛耳る秋津の世話になることに。しかしそこへ殺し屋ジョージが合流してきたため、元刑事という素性があらわになり、キナ臭い方向に。
秋津の娘の由紀との微妙な男女関係も交えながら、滝は秋津の悪事に対抗していく。


たぶん、「無国籍アクション」という恥知らずなキャッチフレーズは、もっと先のシリーズで構築されたのだろうと思う。
ライバルとなる、宍戸 錠演じるジョージも妙にこざっぱりとしておとなしく、「エースのジョー」に進化するにはまだ時間が必要な感じだった。

ストーリーはあってないような類のものであまり抑揚もなく、とりたてて書くこともありません。


まあとにかく、肝心の小林 旭さん。
「おお、やっぱり若いころはイケメンだったのね〜」とか絶対思わせてくれると思っていたのだけど、最初のアップであれ?


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小学校んときにうんこもらした守谷くんじゃん!というのが第一印象。まあそんなのはだれも知らないのでいいんですが、個人的には微妙です。

うーん。


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やっぱり微妙だなあ。



こんなはずじゃなかったんだがなあ。
横顔とかはね、なんかこう、シャープでいいんですよ。だけど、前向くとなあ。好みの問題なのかなあこれ。
当時はこういう感じがウケたんでしょうか。

この作品は、今で言うメディアミックスものであり、タイトルと同名の主題歌のリリースも抱きあわせであった。
そしてもちろん、小林 旭は劇中でなにかとあると歌っているのだが・・・・実は歌唱力も微妙なんです。
その上、演技力も微妙・・・・ちょっと待ってくれ!!

別にここにきて、先人たちを笑いものにしようという気は毛頭ないんですよ。せっかくだから楽しもうと、前向きに映画を鑑賞していました。
でも、グッとくるところがひとつもないんですよ!

往年の小林 旭センセにですね、「平成のヒツジ野郎ども、よく見な。男ってのはこういうもんよ」ってな具合に横っツラはたいてくれるもんだと、膝を折って鑑賞せんばかりの気持ちでいましたのに。

当時これが大ヒットして、若き乙女たちの心を掴んだのはなんだったんでしょうかね。
というわけで分析してみましたところ、

・ワルぶってる
・女にストイック

このふたつのキーワードが炙りだされました\(⌒▽⌒)/ヤッタネ

基本的に、石原裕次郎なんかもそうですけど、不良役なんだよね。ポケットに手つっこんで斜に構えて、なにかとあると喧嘩、みたいな。
主人公の滝も、冒頭から30分もしないうちに、3回もドタバタをやっております。

つまりは、まわりの男性に見られない特徴 = 特別感。非日常性。あーんど、こだわり持って生きてる風。
しかし、もし日本中の男性がみんなこんなだったら大変なわけで、たぶん日本は滅亡していたでしょう。

だけどここからが大事。炙りだされたキーワードは「ワル」ではなく、「ワルぶってる」となっています。
そう、女性はほんとの「ワル」はいやなんです。ずるいですね。そもそもほんとの「ワル」ってのは、そのワルぶってる小林 旭に叩きのめされる連中なわけで。

滝の、「元刑事」という素性がわかった時、僕は「なんだ、ワルぶってるだけかこいつ!」と思ったのですが、女性はそういうところがツボなのかも知れません。
つまり、安心できるワル。ずるいですね〜〜〜いやらしいですね〜〜〜〜

「ワルっぽい」のがいいわけだ。酒を渋くあおったり、煙草をくわえたり、時には喧嘩、なんてのはいいけども、パチンコに通ったりフーゾクいったりとかだめなわけです。ずるいな! ずるいな!

また、こういうワルってのは、私生活に関しては不器用に描かれます。はい、母性本能ねらいキタ〜。


ふたつめのキーワード、「女にストイック」。

浅丘ルリ子演ずる、お嬢様との微妙な関係があるんですが、最後にこの二人は結ばれません。
浅丘ルリ子を置いて、滝は函館を去ります。

まあー、ここで落ち着いちゃってねんごろになっちまうと、シリーズになりませんからね。
さておき、「よかった〜ルリ子のものにならなくて〜(女子たちの心の声)」ということであります。

石原裕次郎なんかの場合は、むしろ一人の女を追っかけるパターンです。「いやでもおれのものにするぜ」的な。
こういう場合、観ている女子は、その追っかけられ、アゴをつかまれ、無理やりキスを奪われるヒロインに自分を重ねます。
「イヤよイヤよも好きのうち」という女の深い部分をツンツンさせられます。

しかしこの渡り鳥は、手が届かない(渡り鳥ですから)ゆえに、素直にキャーキャー言いやすい対象として構築されています。
手が届かないといえば、滝は二年前に亡くなった女が忘れられずにいます。ちゃんと「ホレた女に一途」という、「浮気はしないよ」的な要素も埋め込まれています。


つーかまあ、そういうこと? 母よ。
え、ちがう? まあなんだっていーやもう。


秋津、というワルの親玉を金子信雄さんが演じているのですが、この頃はまだ髪の毛もちゃんとあり、芸風もさっぱりとしています。
親玉といってもよくあるようなギャングのボス系ではなく、街の実力者的な、清潔感のあるワル。さっぱりとはしていても、「とんでもないタヌキ」ぶりのルーツは垣間見え、のちのちの「仁義なき戦い」の金子さんへ通ずる遺伝子が感じられます。

殺し屋ジョージの宍戸さんは、悪役をやるために頬にシリコンを入れるという・・・・のちの「ゴッドファーザー」のマーロン・ブランドなんかまだまだ甘いと言わしめる所業をしています。この頬なかったら相当イケメンだろうなと思いますね。小林 旭に勝てるですね。

また、野呂圭介さんが出ています。僕らの世代からしたら、「どっきりカメラ」の赤ヘルの人なんですが、そういや「どっきりカメラ」の司会は宍戸さんだったよなw

浅丘ルリ子さんは、初々しかったですが、「まだまだこれから」の頃。というか、浅丘さん演ずる由紀はキャラクターとしてあまり掘り下げられておらず、浅丘さんほどの才能の人が演ずるにはちと、物足りない役だったかも知れません。



また余談なんですが、作品の性質上、拳銃でバーンバーンみたいなのもあります。で、びっくりしたのが劇中で使われてる拳銃が、本物だということ。
劇用のピストルを「プロップ・ガン」といいますが、日本の場合はモデルガンをベースに作られます。しかし当時はそんなモデルガンなんて市場はまだ成熟してませんから、こうやって本物が「特別な計らい」で使われることもありました。しかしこの黒光りな質感はすごいですね。
でもさすがにいつまでも本物ってわけにもまいりません。これは日活の作品なんですが、日活の拳銃といえば「日活コルト」。劇用の電気着火式ピストルで、これが日活で開発されてからは、こういう作品ではみんなこのコルトを握っていました。
そういう意味ではレアな作品ですねえ。


まあ、いろいろ言いたいこと書いてきましたが、これは先のシリーズ作品の方が楽しめるのかも知れませんね。
この作品は栄えある第一弾なのでしょうけれど、覇気のあまり感じられない、「ご清潔な、活劇らしく振舞っている映画」という感じです。
いくら殴りあっても痛みも汗臭さもなく、血はインクみたいだし、衣装が汚れないように気遣ってるようなアクション。


もしこれで当時の人達が胸躍ったのなら、それは「どんだけ純粋なのw」ということで、そう、今の僕らはずいぶんとナニかに侵食されてしまっているのかも知れません。



posted by ORICHALCON at 22:00| Comment(281) | TrackBack(0) | Cinema

2012年07月19日

日本映画も大変なんです

今日は長いですよ。ご注意。(あ、いつもか)

ずいぶん遠ざかっていたmixiなんですが、メッセージが届いていたために久しぶりにアクセスしました。

んで、mixiで自分の入っている「映画愛好会」というコミュがあるんですが、そこにこんなトピが。


邦画があまりにお粗末(ク〇=〇ソ)過ぎて、邦画(邦画作る人)ってやる気あるんでしょうか?


どうも、邦画って
@監督の自己陶酔系
Aセンスの押し売り
Bテレビがただ映画館に

このどれかに該当する感じがします

今の邦画ってどうなってるんですか??
やる気あるんですか?
業界通の方教えて下さい




ネット内のものと言えど、mixi、さらにその中のコミュニティという限定されたものだから、内容については以上にとどめておきます。

ともあれ面白いね。いいトピだね。タイトルが過激なとこも良いw
で、300件くらい書き込みがあって、またこれがやや荒れ気味なときもあったりすんだけど、トピ主さんもアグレッシブな人で納得いかない書き込みには遠慮なく噛み付くのねw
そんなトピ主に対してまた批判する人もいたりすんのだけど、こういうのはおとなしくなりすぎてもつまらないしね。ただ、どこに向かっているのかはみんなはっきりしてないとどんどん横道にいっちゃう。

「日本映画アカデミー賞ってどうなんだ」って話にまでなってる。たしかにあれもなにかこう、映画ファンにとってあまりグッとくるものじゃないですからね。


さておき、僕は業界通でもないし、またそのトピに書き込みまでしてmixiへのアクセスで行き来もあまりしたくないので、黙ってはいるんですが、言いたいことはいっぱいあります。それならあそこのトピよりも、せっかくのこのブログのネタにした方がいいんじゃないかとも思ったので、今日はこれをテーマに書きます。



まあ、この「邦画だめだねえ」はいつ頃からか日本の映画好きの間では永遠のテーマで、時にはとても盛り上がります。

「映画愛好会」というコミュに入るからには、映画というコンテンツに対していろいろと、多かれ少なかれ思い入れや愛着があると思うのですが、そういう人達がああやって「どうしたら日本映画は元気になれるのか」みたいなやりとりは大いにやるべきですよね。まず誰かが言ったり考えたりしなくっちゃはじまらないんだから。
あのコミュにいる人が将来日本の映画業界に身を置くことだってあり得る。もう置いてる人もいるかもとも思いますけど。



「邦画が全体的にダメ」ってのは、これ、大体の人は「なんとなく」同意できるものです。
「いいものもありますよ」と言う人もいて、そして確かにそうなんだけども、でも、そこはかとない「ダメ感」は「まあ、たしかにね」とある程度理解いただけるものでしょう。

トピ内では、洋画が対比にされていることが多いのですが、洋画に関して言いますと世界まるごとだとあれなんで、ここではわかりやすくアメリカを例に話しましょう。

アメリカでは、年間約500〜700本が商業用として製作されています。
で、「クソ」といったら、大体そのうちの半分以上は「ひどい」ものばかりなんですよ。半分どころか、もっと多いと感じる人もいるかも知れません(こういうのは主観ですからねぇ)。たとえば劇場用に慣れてると、Vシネみたいなのは見劣りしますが、まさにそのVシネみたいなのがいっぱい製作されています。
スティーヴン・セガール作品とか「物足りない」と言う人いますけど、それを言ったらあれでもまだマシで、「だまされた」レベルのすらあるわけです。

さすがに日本の配給はそんなの買いませんから、僕らは知りもしないわけです。成功した(もしくは成功が見込まれる)作品という、ほんとにピラミッドのてっぺん、氷山の一角が輸入されているにすぎません。

つまり僕らは「アメリカの作品でもかなり本気のやつ」ばかりを知ることになる。
アメリカだけでもこうなわけですから、こうなると日本人の視点から見て「ダメな印象の邦画全体」と「いいとこどりの洋画」という対比は、邦画にとって不利かも知れません。


でもこれ言っちゃうとおしまいなので、じゃあ、そのいいとこどり同士でも考えた場合、邦画はどうなのか、ということになった時に、たとえば「日本アカデミー賞ってどうなの」と考える人もいるでしょう。トピが実際そういう方向になっています。

日アカについては、トピでもいろいろ書かれてましたが、「邦画全体のダメ感」と日アカはあまり関係性を僕は感じていません。これはたとえばアメリカ映画産業とオスカーに関してもそうです。

その証拠に、こういう映画産業やその作品の質などの話をする時、「賞や、映画表彰式典」のことを持ち出すと、かえって収拾つかなくなることがあります。日アカだろうとオスカーだろうと、単なる主観の統計や、業界のお約束事の結果なので、今日の僕は言いたいこともあるけれどもちょっとこれについては触れずにおいておきます。


で、アメリカで年間500〜600本と言いましたが、対して邦画は大体300〜400前後で、世界的に見るとかなりの映画製作大国です。
「そんなに作ってるっけ?」と感じる人もいるかもですが、それは、まともな宣伝費をかけられる作品はせいぜい100いきませんので、それ以外は誰も知らないのです。


この宣伝費について、日本映画業界をさらにダメにしてしまっているシステムがあるのですが、それはあとで書きます。


まずなぜ「邦画はダメっぽい」のか、それは邦画に限らず、「ダメっぽい映画」というのは「プロデューサーがダメ」だということです。

実は僕らが考えてるほど、監督は映画という事業の重要要素ではありません。いや、もちろん大事です。これ以上ない生命線なんですが、その生命線をも握ってるのがプロデューサーです。
映画製作のプロジェクトというのは、プロデューサーにはじまってプロデューサーに終わります。企業で言えば、プロデューサーは創業者・社長であって、監督は撮影・編集における最終決定権を一時的に与えられた現場監督にあたります。
つまり年間何本映画が作られるか、というのは、年間何人のプロデューサーがどのくらい活動しているか、ということになります。

どんなにすごい監督でも、それを発掘するのはプロデューサーの仕事です。作品に恵まれない監督というのは、イコール、プロデューサーに恵まれない、ということになります。
コッポラや黒澤がたとえどんなにすごかったにしても、彼らをすごい人にしたプロデューサーが必ずいるわけです。
ひどい映画を観たとき、僕らは「この監督だめだな」と思ったりしますが、ほんとにダメなのはプロデューサーだと思ってもいいわけです。

で、製作本数の多い国(日本もそのひとつですが)というのは、メジャー製作会社やスタジオに属さない「独立系プロデューサー」が多い傾向があるとも言えます。その多くは野心家です。


ただ、海外と日本の風潮の違いは、このプロデューサーの存在が重要視されていない、という点です。


いくら映画好きでも、プロデューサーの仕事のすべてを理解している人は少ないでしょう。想像を絶するものがあり、映画の「え」の字、芸術の「げ」の字もないような仕事も山積みです。そして、それらすべてをきちんと教えてくれる環境がない、もしくは遅れているというのが日本の特徴です。

プロデューサーが育つ環境がないのです。といいますか、育てる余裕がないのです。

これじゃいかんということで、かつては、アスミック・エースや角川、東北大学でプロデューサー養成ワークショップみたいなのもありましたし(僕はこれに参加したことがあります)、日本映画エンジェル大賞などもありました。
シナリオ大賞とか短編映画大賞みたいなのはありますが、このエンジェル大賞はプロ・アマ・インデペンデントを問わず、プロデューサーを対象とし、そのプレゼンを審査することによって企画開発力・企画実現力などに対して賞を決めるというもので、大賞は企画準備金として投資を受けられます。(これが「エンジェル(投資家)」という意味になっています)

これで実現した作品もいくつかあるのですが、大賞の中でも期待されていた「ミッドナイトイーグル」は、結局大賞を受賞した人ではないところへ企画が流れてしまい、なにかこう、突き抜けない、毒にも薬にもならないものなってしまった、というハナシもあります。


しかし、エンジェル大賞も長続きしていませんし、日本のプロデューサーの卵にとってはまだ冬がつづいています。

たとえばちょっと昔の話になってしまいますが、日本で有名なプロデューサーの一人、奥山和由さん。この人は見る人によって功罪わかれると思うんですが、北野 武はこの人いなかったらまず映画撮ってなかったでしょう。

プロデューサーというのはいろいろ失敗するもんなんですが、日本映画界はこの人の育成に失敗してしまいました。松竹はこの人を親子そろって追い出しちゃったりしたでしょう。奥山氏はこれで一気に失脚します。もちろん、今もがんばってらっしゃいますけど。ともかく、バブルということもあったかもですが、海外にコネを持つまでになるプロデューサーなんて、日本じゃまずなかなか発生しませんから、どんな理由があるにせよ、こういう人は手綱にぎって育てないと。明らかにあれは松竹の、いわば日本映画産業の保身的姿勢の表れだなとも思います。


で、この「プロデューサー」と「その仕事内容」に目を向けるということは、映画を「ビジネスコンテンツ」としてきちんと捉えるということになってきます。


世界的に見て驚く事実のひとつに、「日本の銀行は映画製作に融資しない」というのがあります。
かつて、外資映画に融資した少ない例や、みずほの映画ファンドなんてのもありますが、基本的に銀行が映画製作に貸し出しするというのは皆無です。萩原健一が「竜馬を斬った男」の製作費のために銀行に借金したと聞いて(製作費の一部とは思いますが)、へえ、と思ったりしましたが、それくらいのバジェットになると、まず銀行は見向きもしません。

これはもちろん、「映画はリスクがでかすぎる」ということなんでしょうが、別の見方をすれば、「日本映画産業は、産業として認められていない」証拠ということになります。

そしてやっぱりその原因は、回収の成功率が低いからなんですが、回収するのはプロデューサーの仕事です。というか、これのためにいると言っても過言ではありません。プロデューサーのゴール、最終到達地点です。


つまり極端に言えば、プロデューサーの向上は、産業としての向上ということにもなります。


しかし、この回収の成功という意味では、映画産業に革命的なことが起こりました。

テレビ局の介入です。先述した「宣伝費の問題システム」の件がこれになります。

映画というのは、面白いくらい「宣伝費」と「回収率」が比例します。でもこれは映画に限らないことは誰にでもわかるでしょう。
宮崎アニメがいくらヒットしたと言っても、その裏では徳間書店が目の飛び出るような宣伝費を投下しているわけです。

回収が振るわなかったプロデューサーの次の作品は、質の低下を招きます。なぜかは考えてみれば一目瞭然です。回収できないプロデューサーにはもう、誰もなかなか投資しないからです。
で、そのプロデューサーが手がける作品のバジェットがどんどん下がり、保守的なビジネスとなっていきます。

で、回収に欠かせない命綱、宣伝費ですが、これで一番お高いのがTVスポットです。数億くらい平気で飛びます。そのかわり、効果は絶大です。
TVスポットが打てる製作プロジェクトというのは、ほんの一握りで、日本だったら全体の80%以上は「TVでの宣伝なんてとんでもない」という状態です。日本では制作費3億で大作、5億越えなら超大作みたいな風潮ですから、そこからまた宣伝費なんて大変です。

単館レベルの作品でもたまに「絶賛上映中!」とTVで見たりしますが、それはよほど口コミなどで人が入った幸運な例で、上映前に打てていたわけではありません。TVスポットを打てるところまで人が入ったということで、ここで弾みをつけようという勝負に出ているようなものです。

で、TV局の介入というのは、製作にTV局が加わることによって、このTVスポット代がタダ同然みたいになるということです。これがどんなにでかいことか、おわかりになるでしょう。

TV局製作の作品といえば、「踊る大捜査線(劇場版)」がパイオニアです。

たとえ「踊る大捜査線(劇場版)」を観たことない人でも、僕らのほとんどの人があの青島刑事の「事件は会議室で起こってるんじゃない!」という場面を知っていますね。これだけでも、どれだけTVスポットが打たれまくったかがわかりますし、またその認知効果が絶大かということもよくわかります。
とにかくフジは、ことあるごとにあのスポットを流しました。

あれだけの量のTVスポットを打つなんてことは、普通の日本の映画製作では不可能です。
しかしTV局はいくらでもできる。しかも、そのスポット枠を独占できる。つまり、同時期に上映される競合作品のスポットは受注しない(放送しない)、という戦法も取れるのです。で、実際、そうなったわけで、これは関係者から問題視されました。

これによって、回収リスクが激減し、また実際に回収したので、今ではTV局が製作委員会に名を連ねることは珍しくなくなってきました。


そんなの、TV局の噛んだ映画の一人勝ちじゃないか、と思う人もいると思いますが、実際にそのとおりで、実はこの「映画製作にTV局が介入する」ということは、アメリカなどでは独占禁止法で禁止されています。なぜなら、上に書いたようなことが起こるからですが。


つまり、禁じ手なわけですが、それによって特に独立プロや、そのプロデューサーたちはますます勝ち目がなく、活躍が制限されているというわけなんです。


「でもさ、その禁じ手で市場を独占しているTV局介入作品や、大手製作会社のメジャー作品ですら、どれも満足のいくものとは言えないじゃんね?」 と疑問を呈する人もいるでしょう。

回収しているということは、喜んで観ている人もいるわけで、ああいったものに不満を感じる人というのは、単に「製作側のターゲットになっていない人」だったりすることが多いのですが、まあそれはおいといても、質が向上しているかといえば、そうではないと僕も感じています。


原因はいろいろあって、挙げればキリがないんですが、大きな原因のひとつに、日本特有のブロック・ブッキング・システムというのがあります。これは映画通の人なら、知っている人もいるでしょう。
これはよく「悪習」と言われたりもするのですが、日本の配給メカニズムは、このブロック・ブッキング・システムに支配された領域があります。

特に大手(東宝系・東映系)のはじめとする全国の封切り館は、ほとんどがこのブロック・ブッキング・システムです。これはなにかというと、簡単に言えば約一年先までの上映スケジュールが組まれているということで、それは作品の内容まで決まっています。

これは劇場にとってもヘンなシステムで、どんなに人が入っても、上映期間を過ぎたらスケジュールにそって次の作品を掛けなきゃならず、ロングランができません。また逆にどんなに人が入らなくても上映期間中は掛けなきゃなりません。

普通、配給・上映というのはフリー・ブッキングなわけで、配給がその都度、劇場を押さえなきゃなりません。そして劇場側も、掛ける作品を選ぶことができます。シネコンというのは基本、フリー・ブッキング制です。

なのになぜこんなことするかというと、このやり方だとチケットの販売や宣伝がしやすく、また配給が劇場を押さえるのに苦労しなくてすむ、というのがあります。

しかし、このシステムの一番のデメリットは、「スケジュールを埋めるための作品を作り続けなくてはならない」というのがあります。作り続けないと穴が空いてしまうわけです。

つまり、プロデューサーなどが「これでいこう!」と作りたい作品を手がけるというよりか、「なんか作らないとまずい。おい、なんかないか」ということになります。

この例ひとつとっても、邦画全体の質が上がっていくわけがない、とは思いませんか。

プロデューサーなんてのは大変ですから、好きでないと務まりません。
彼らがなんでそんな地獄みたいなとこへ首突っ込むのかというと、それはやっぱり映画は「夢」があるからです。これなしでどうしてできましょうか。そしてその「夢」と「ビジネス」を成立させなければなりません。

でもいくらビジネスといっても、「やりたくもない」作品では情熱がわきません。

海外でも評価された、「おくりびと」という作品がありますが、あれは本木雅弘がプロデュース的作業もしています。本木さんが原作を読んで、「これを映画化したい」と思い、行動をはじめてから実現まで12年。相当大変だったと聞いています。

この作品、国内外含め、受賞した内容もすごいものがありますが、やっぱり良い作品というのは必ず作り手の情熱がありますよね。これは工業製品ですらそうです。


この情熱を活かすことができなくっているという悪循環が、邦画界の一番の痛手なんではないでしょうか。

しかしこう言うと、「でも情熱をかけて作れてる人だっているだろう。だけど、そういうのに限ってひとりよがり」という意見も出てきますでしょう。
でもそんなのはどこの世界だってそうなのです。音楽だろうが演劇だろうが、そういうのはたくさんあります。
でもそこで采配をとるのがプロデューサーであるわけで、いい脚本を開発し、いい監督を選択してどのようにやらせるか、ということになります。「情熱」をどう開花させるか、なわけです。

だから僕ら映画ファンがもし、邦画の明日を憂いるなら、もっとこの根源的な立場にあるプロデューサーというものにも目を向けてみて、時にはリスペクトし、時にはものも言い、応援するという土壌が育まれるというのもあっていいかなと思います。
ファンが映画を育てる、という言葉があるなら、まさにこの角度は必要だと感じています。


つか、長くなりすぎましたし、なんかラーメンが無性に食べたくなってもきましたので、今日はこのへんで。



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2012年07月18日

フォーチュン・クッキー

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フォーチュン・クッキー

監督 : マーク・S・ウォーターズ
出演 : ジェイミー・リー・カーティス  リンジー・ローハン


今日は隠れた傑作をご紹介します。もしレンタル屋で迷ったらまずこれを!

原題は「Freaky Friday」。このタイトルで「ん?」となった人はなかなかの通です。
これは1976年に放送されたテレビ映画「Freaky Friday」のリメイク。当時の主演は子役で売り出し中のジョディ・フォスターでした。


「親子の中身が入れ替わってしまう」というプロットを最初にやった、元祖の中の元祖です。


本作の母親役は、僕の大好きな女優、ジェイミー・リー・カーティス。娘役がお騒がせアイドルのリンジー・ローハン。
テンポの良い展開で笑って笑ってホロリとさせる、オリジナル版をはるかに超えた、ゴキゲンなコメディとなっています。


往年のホラーファンにとってはマドンナと言っていいジェイミー・リー・カーティス。なにげに演技派です。
「大逆転」でコメディセンスを発揮し、つづけて「ワンダとダイヤと優しいやつら」。コメディ路線でいくのかなと思った矢先、「ブルースティール」でサイコ相手に戦う女巡査というハードな主人公をやってみせ、びっくりさせてくれました。
この人、男臭い(てか、ごつい)顔してるんですが、なにげにナイスバディです。「トゥルーライズ」でシュワルツネッガーの妻を演じた時、どんだけナイスバディかを見せつけてくれました。

久しぶりに見る彼女でしたが・・・さすがにおばさんになってしまいましたねw しかしレスポンスとフットワークの良さは健在です。


さておき、気楽に楽しめる映画ですので、今回は気楽にいきましょう!


母親のテスは博士号を持つ精神カウンセラーで、その著作が出版されるなどそこそこ成功している。夫を亡くしているが、新しいパートナーとの婚約を決めています。対する娘のアンナは高校生。バンドをやっていて、学校でもちょっと教師に目をつけられている問題生徒。思春期の娘のいる家庭によくあることだが、この親子は日頃なかなか咬み合っていません。
そんな二人が、フォーチュン・クッキーの魔法で、ある朝入れ替わってしまいます。


入れ替わる前
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入れ替わり後(アンナは母親のクレジットカードで服から髪から好きにし邦題www)
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もちろんパニクる二人だが、まわりに説明などしようがなく、アンナは仕方なく母親の仕事場であるクリニックへ、テスも学校へ通うはめに。
外見は母親でも、中身は娘なわけで、クリニックではハチャメチャな診療w
母親の方は学校における娘の実態に唖然!

アンナには想いを寄せる青年がいるのだが、アンナの性格の変容がたたって愛想をつかれてしまう。そしてついには母親であるテスに恋してしまう青年・・・中身はアンナですから、「最高にCoolなお母さん!!」となってしまうわけw

アンナはバンドでギターをやっていて(このバンドがまたツインギターでイケてたりするんですが)、大事なバンド・オーディション出場を明日に控えています。テスはギターなんか弾けないわけだから大変です。そして、その時が来てしまいます。

いきなりキスひとつでも拒むようになったテスに不審がる婚約者、突然優等生になったアンナにとまどう教師や友人たち。これらが織りなすドタバタが練られた脚本によってテンポよく展開し、最後にちょっぴりジ〜ンとさせられてしまいます。


テーマは「家族」。アメリカでは知らない人はいないくらい大ヒットしました。


ハリウッド娯楽作の「ご都合主義的」なノリはありますが、それを素直に楽しんじゃおう!というハッピーな作品です。
当時のヒット曲が並ぶ劇中のサントラ(これも売れました)もノリノリですよ!


「少年メリケンサック」のレビューでも触れた、コメディの王道プロット、「装い」と「悟られまいとする」がいかんなく発揮された作品でもあります。

久しぶりにリラックスして楽しめる映画に出会いました。ぜひご覧下さいませ!



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2012年07月16日

ガントレット

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ガントレット

監督 : クリント・イーストウッド
出演 : クリント・イーストウッド  ソンドラ・ロック


"ガントレット"と聞いて、かつてのATARIの名作ゲームを思い浮かべる人は、年齢がある程度バレます。
腕につける甲冑を思い浮かべる人は、やはりRPGゲーム好きか、もしくはよほど物知りかということになります。(こちらはフランス語)

本作を思い浮かべる人は、クリント・イーストウッドのファンか、ゴールデン洋画劇場の世代かも知れませんw


そもそもガントレットとは、刑罰の一種です。

中世に行われたガントレット刑の絵
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基本としては、棍棒など武器を持った者たちが囲むように道をつくり、その間を通らせるというもの。もちろんそれなりの攻撃を受けるが、それでも耐えて通りぬけた者は許された、などとWikipediaにはあるが、腕を縛って通らせて、一方的に殺してしまうというのもあったといいます。

ATARIのゲームは、その内容からこのタイトルが使われているが、実はこの作品もそうなんです。

クライマックスに、武装した無数の警官の銃撃の間を突破するというシーンがあります。もちろん、これがこの作品の目玉でもあります。

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この作品はかつて、ゴールデン洋画劇場でよく定期的に放映されていました。再放映が繰り返されるその理由は、まず単純に面白いというのもありますが、オリジナルが100分というちょうどいい尺と、「二人の男女だけを追うロードムービー」という構成のシンプルさゆえ、編集がしやすい(カットしやすい)のです。お色気要素もあり(放送する側にとっては重要)、そしてなにより最後のクライマックスシーンのインパクトがすごいので、この部分だけでTVスポットによる「つかみはOK!」というのがでかいw


僕は録画したゴールデン洋画劇場版を長く所有していましたが、オリジナルをちゃんと観るのはこれが初めてだということに気がついた。


ストーリーとしては・・・

イーストウッド演じるショックリー刑事は、市警察委員長からの密命により、ラスベガスから証人喚問のため、ガス・マリーの護送をすることになる。ガスを男だとばかり思っていたショックリーだが、ラスベガスの留置場にいたのは若い売春婦だった。「ここから出たら私もあなたも殺される」とわめくガス。ショックリーは救急車による偽装でガスを連れ出すが、ガスの言う通り行く先々で猛攻撃を受ける。しかも攻撃してくるのは警察機構だった。


「一人の刑事が一人の女を守るために移動する」というロードムービーシチュエーションは、シルベスター・スタローンの「コブラ」を思い出させますが、そもそも「コブラ」は、スタローンの憧れるクリント・イーストウッドの代表作「ダーティ・ハリー」シリーズを意識して作られました。劇中にも「ダーティ・ハリー」の出演者がオマージュとして二人も出てくるほど。いわば、「ダーティ・ハリー」と「ガントレット」を合成したような感じなんですかね。(ただし、原作としている小説は別にある)


また、この「ガントレット」と「コブラ」はもうひとつ特異な共通点があります。それは、「主演の俳優が自分のオンナ(妻)と出ている」というもの。「ガントレット」はイーストウッド自身が監督、「コブラ」はスタローンが脚本、つまり発言権があるわけで、「この役は俺のオンナにやらせる」といった展開も可能だったのかも知れないですね。

ただ、「コブラ」のブリジッド・ニールセンが演じた女性は、そのキャラクター構築に失敗が見られるのに対し、「ガントレット」の売春婦ガス・マリーは充分、作品の魅力のひとつとなっています。そう、イーストウッドはソンドラ・ロックの使い方をよく知っている。どうすれば彼女が魅力的に使えるかを心得ている。

「コブラ」の時点でスタローンとブリジッド・ニールセンは結婚したばかり(撮影後に離婚する)。イーストウッドとソンドラ・ロックも、一緒に住み始めてまだ一年そこら。でも「女優の扱い方」も含めた映画人としての力量は、この時点ですでにイーストウッドが先を行っていたのかも知れませんね。


先にも書いたように、非常にシンプルな構成で、現代のブラッカイマー作品あたりに慣れた人たちには物足りないかもしれません。
最近は、携帯電話やインターネットの普及なども手伝って、ストーリー展開が早く、複雑さも見せるようになっている。しかし「ガントレット」の背景である70年代は、公衆電話しかない時代。しかもアリゾナという荒野を行くロードムービーなため、複雑になりようがない。

最近の娯楽作品、特にアクション、サスペンスなどと呼ばれるものはいろいろとプロットやエピソードが詰め込まれるカタチになるため、それを上映時間に収めるためのスピード感溢れるカメラワークや、モンタージュ技術が発展してきました。これは「ダイ・ハード」あたりが転機となっていて、模索・構築されてきた結果、「スピード」の大成功で、ある程度成熟を迎えます。つまり、「そういう感じ」が得意な監督が台頭してきたとも言えるわけで、たとえば「ダイ・ハード」の撮影監督であるヤン・デ・ポンは「スピード」の監督です。
「ダイ・ハード」以前のブラッカイマー作品「ビバリーヒルズ・コップ」の作りが、今見るとダラっとして見えるのは、古典的な監督が娯楽作品を撮っているというのも原因のひとつです。


でも、そういう意味でいえば、クリント・イーストウッドは超がつくほど古典寄りの監督です。だけど、世界で誰よりも成功している監督です。


主人公のショックリーは、早くもやや人生に疲れ始めた刑事。冒頭、ジャック・ダニエルの瓶を落として割ってしまうところから、すでに彼の人間描写が始まっています。

長いこと相棒だった同僚は先に出世していますが、ショックリー自身は生きる目的を失いかけています。
ショックリーが、ガスに「警官になった理由」として、「法を守る警官だけが、生きる目的を持っていると思っていたから」と言うシーンがありますが、ショックリーはガスの護送を通して、その警官というものにも失望させられていきます。

しかし、ガスとの出会いが、このショックリーの人生を救い始めます。


ソンドラ・ロックにとって、最もはまり役と言ってもいいガス・マリー。ソンドラ・ロックは彼女を、脚本レベルを超えて魅力的に演じました。
ガスは、大卒女(当時は今よりもステータス)であり、頭もよく、気の強い売春婦ではありますが、完全なダメ人間ではありません。
大学を出ているのに(前の職業は秘書であったりします)売春婦に身を落としているマリーも、やはり人生を見失っていると言えます。


最初は、ガスは警官であるショックリーを、ショックリーは売春婦であるガスを、それぞれ軽蔑しあっています。
しかし、この二人がお互いにつながる瞬間がやってきます。

ショックリーがバイカーの襲撃を受け、リンチに会うところです。縛られて身動きできないショックリーを暴行する男たちを止めるため、ガスは胸をはだけて自分を犯すように誘います。ガスはこれを成功させるのですが、彼女の服をはぎとってむさぼるのに夢中な男たちの隙をついて、ショックリーも反撃を成功させます。

この危機を脱出したあと、傷だらけのショックリーと服の前を合わせたガスが腰を下ろして一息つく、という絵があるですが、ここで二人は言葉が見つからず、ただ目を合わせます。とてもいいシーンです。


ショックリーは、彼女を証人として届けるという任務を遂行するため、運転席を鉄板で補強したバスを使い、裁判の開かれる市庁へ向かいます。この道中、それを阻止するために市警が総出で「ガントレット」を繰り広げるわけですが、このシーンは今見ても圧巻です。


とても素直な映画です。こねくりまわしたりせず、イヤなものはイヤと言い、好きなものは好きと言う、そんな感じの映画です。


こういったことの地道な積み重ねが、今のクリント・イーストウッドを構築しているのだなと思いました。


さっくりと楽しめる作品ですので、もし未見の方がいましたら、ぜひ。


posted by ORICHALCON at 21:33| Comment(4) | TrackBack(0) | Cinema