2012年07月28日

APPLESEED

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APPLESEED

監督 : 荒牧伸志
声の出演 : 小林 愛 小杉十郎太 松岡由貴 小山茉美


Huluに登場したので鑑賞。
未見と思っていたら、公開時に観ていたことを思い出す(>_<)
しかし内容の記憶があまりなかったため、まったく新鮮に楽しめた。


普段、あまりこの手のものは観に行く頻度がないのだけど、公開時にわざわざ観に行ったのは友だちが「出演」していたからだ。


トゥーンシェイドを使用したCGアニメ作品。トゥーンシェイドとは、コンピュータグラフィックのレンダリング出力において、アニメ調に描画してみせる技術。トゥーンシェイドは人物のみに使用されているが、これによってリアルな人間というよりも、セル画のアニメッぽいタッチになる。


で、友だちが「出演」というのは、アクション女優の秋本つばさちゃんのことで、彼女が主人公のデュナンのモーションキャプチャーをしている。モーションキャプチャーといっても、アクティングパートとアクションパートにわかれていて、つばさちゃんはアクションパートを演じている。

そういう意味では、「主演の一人」といってもよい。



大規模な世界大戦の傷跡の残る未来。クローン人間バイオロイドによって支配されるユートピア都市オリンボスでは、そのバイオロイドの粛清と排除を望む組織が動き出していた。女性戦闘員デュナンは、サイボーグ化したかつての恋人ブリアレオスとともに、このバイオロイドと人間、そして地球の運命をも巡る戦いへと巻き込まれていく。



さっそく冒頭の戦闘シーンから、つばさちゃんの十八番、「側宙」が見られるw これは間違いなく彼女のものだあ。
これは実物を見るともっと圧巻なんだが、さらにこの動きは、古くはそのままコナミの格闘ゲーム「鉄拳シリーズ」の風間準の技にもキャプチャされたという経歴もある。

しかし、デュナンが飛んだり跳ねたりするたびに、「お〜、つばさちゃん・・・」といった目で観てしまうものです。元気かなあ。


基本的に楽しんで観たのだが、惜しい点もいくつかある。もちろん、いい点もある。

戦闘能力が異常に高い女性を主役にもってきてはいるが、単純な勧善懲悪的アクションなどにはなっておらず、デュナンが人を殺す直接的表現は一度きりである。劇中において「明らかな悪」として描かれる者はほぼ存在せず、それぞれの思想や理想の違いによる衝突が軸であり、哲学的に言えばデュナンは人類の葛藤そのものと戦う物語となっている。によって、流血も小規模だし、クライマックスにデュナンが挑む戦いは、人間が自ら作った兵器の暴走を止める、という具合だ。

公開当時のキャッチコピーは、「母になりたい。」
これはとてもよく覚えていた。

都市のいわば元老院にあたるような者たちが、人間への失望から、地球をクローン人間であるバイオロイドに託そうとする。バイオロイドはもともと生殖機能が省かれていたのだが、それを復活させ、逆にウィルスによって人間側の生殖機能を破壊しようとする。これによって人類側はいずれ「緩やかに絶滅」するわけで、これを元老院側は「人類の安楽死」と表現する。
元老院側は、多脚砲台という都市防衛兵器を暴走させ、ウィルスの保管されている都市中心部を破壊させることによってウィルスの拡散を目論む。デュナンのラストの戦いは、いわばこのウィルスタンクの破裂を食い止めるというわけだ。

このシチュエーションにおいて、この「母になりたい」というキャッチコピーは秀逸だと思う。
サイボーグ化してしまった恋人との葛藤も含めると、とてもいいプロットだと思うし、もしこれがもう少し前面に出されていたら、これは作品の質としてはもっと大化けしていたかも知れない。

しかし、この劇中では、直接的にそういうプロットは描かれない。もちろん、そういう発言も、意志表示もデュナンはしない。
これはとてももったいないなと思った。

たぶん、このキャッチコピーは、販促にあたって、あとから配給側がくっつけたものだろうと思う。しかし、見れば見るほど素晴らしいキャッチコピーだ。SFアクションのCG映画にこういうのを持ってくるというのは、なかなかできることじゃない。
これが、企画書の段階でプレミス的なものとして用意されていたなら、脚本もだいぶ変わったと思う。
いや、もしかすると企画の段階で用意されいたのかも知れないが、そうだとしたら「なぜそれをもっと使わないのだ」ということになる。


この作品は、デュナンにはあまり強い感情移入はできない。それは、デュナンの個人的な目的や欲求があいまいだからだ。
デュナンの目的は、あえて見つけるなら「亡き母の遺志を守る」といったものだが、それもかなり後半になってから発動するため、デュナンが戦闘員である以外の目的を持って自分から行動する、という割合がとても低く、これももったいなかったと思う。
恋人のブリアレオスは、彼女にとって重要要素であり、彼の無事を気にかけたり、命を救おうとしたりはするが、「彼との未来」というビジョンを感じ取る表現はあまりない。

もしデュナンの個人的な目的と葛藤がメインプロットとなっていたなら、この作品はあっぱれなものになっていたと思う。そしてそれが、「母になりたい」であったなら、それこそこういう作品に興味を示さないような人々にも充分鑑賞に耐えられるものなっていただろう。


これはいわゆる「SFもの」なのだけど、上に述べたようなことは「SFもの」でハマりやすい弱点で、これは先日の「復活の日」のレビューでも書いたことにも通じる。

SFというカテゴリの大先輩はもともと小説で、このジャンルの成熟は小説が行ったといえる。
「復活の日」のレビューでも書いたように、小説は時間の制限を受ける脚本とは違うため、哲学的な表現が可能な媒体だ。この、哲学がストーリー性を助けるという恩恵のおかげで、「SF小説」というジャンルは大いに発達する。

しかし、映画においてのSF哲学は、単に「設定」になってしまうため、それを落としこむのは至難の業になってくる。
実際、この「APPLESEED」でも始まってから20分あたりで、車の移動するというシチュエーションの中で延々とその「背景となる哲学的設定」を説明している。そして、そういう説明のシーンが他にもかなりあるのだ。これはSF好きなら集中できるだろうけど、普通の人からしたら退屈になっていってしまう。

しかし、「それがこの作品の魅力だから」と言われてしまったらそれまででもある。そもそもこういうのが好きな人たちがターゲットなんだ、と。
士郎正宗の原作は読んだことないが、「原作自体がそうなんだ」ということなら、あまりうるさくも言えない。だけど、作る側はどうせ作るんなら、多くの人を楽しませたいと思っているはずだ。そしてそれが商業作品でロードショーなら、さらにということになる。


SFが説明がちになった時、その説明を受け取る対象が必要なわけで、その多くは大抵が主人公となる。そのためにSF作品では主人公が自らの意志をもって物語を作るのではなく、どちらかというと巻き込まれ型として描かれるパターンが多くなってしまうという現象が見られる。「トータル・リコール」「バック・トゥ・ザ・フューチャー」「マトリックス」「ターミネーター」などなどだが、小説ではいくらでも巻き込まれた主人公の心情を表現できるが、映画脚本では行動で心理を表すので、早めにキャラクターへ強い目的を持たせることになる。

たとえば、SF小説を原作としている映画作品の中でも、僕が好きなひとつに「コンタクト」がある。「コンタクト」の主人公のエリーは、最初から「地球外生命体との交信」という目的を持っている。まさにタイトルそのままなのだが、この目的を通してエリーは自分の中の様々な葛藤や問題の解決を得る。


ここまでやれるSF作品というのはあまりない。「A.I」が意外にも成功しなかったのは、解決の要素に納得しにくい人々が多かったせいだ。それはおそらく、ロボットであるディビッドの目的と、解決的事象のバランスに問題があったからだろう。


SF小説(もしくは漫画)を原作として、大いに成功できた映画は意外と少なく、単純な興行収入だけでなく、顧客満足度まで含めるともっと少なくなる。

SF映画で最も成功したのは、皮肉にも「スターウォーズ」であることは、僕らにいろいろと教えてくれる。

この作品は、公開時にはSF小説の大御所と呼ばれる人たちからは大変な不評だった。まず科学的にはちゃめちゃだし、SF的概念にも乏しい荒唐無稽な物語だったからだ。だから未だに、あれを「SFとしては認めない」という人もいる。
しかし、これに最も熱狂したのが、SF(小説も含む)ファンだったというのが面白い。そしてもちろん、ご存知の通り一般の人達をも魅了した。

「スターウォーズ」のSFとしての最大の特徴は、「説明の要らない世界」を背景とし、それによってストーリーに集中させるという作りにしたことだ。
SFものというのは、ある意味「未知」のもの、つまり新しいアイデアや概念、斬新な科学的設定がモノを言う世界とも言えるわけで、そこにあえてこだわらず、「誰もが子供の頃から知ってる、想像できるかぎりの宇宙世界」をそのまま実写化したところに、ファンは鳥肌を立てたわけだ。

先に公開されている「2001年宇宙の旅」が公開当時、意外にもSFファンには不評の声が多かったというのは、小説と映画はやはり明らかに違うものだということを気づかせてくれる。

ただし、小説に近い(いわば哲学寄り)の映画でも、評価されることはある。「2001年宇宙の旅」も、結果的には名作扱いだし、「ブレードランナー」など、興業は失敗でも後々になってカルト的人気を博すものもある。ただ、「ブレードランナー」は構成的には明らかに失敗作なので、後にディレクターズ・カットが作られたりしている。


「APPLESEED」に話を戻せば、「母になりたい。」というプロットをもっと前面にしたならば、このストーリーからすれば、デュナンは最後にもっとなにかを得てラストを迎えることになるわけだ。しかし実際はどちらかというと、「人類とバイオロイドの共存世界の未来」を守ったこと(もしくは任されたこと)と、恋人が無事でよかったというのが「収穫」のように見える構成になっている。
「私たちのこどもたち」というフレーズが、最後の最後、デュナンのモノローグから出てくるが、人間味の薄いものになってしまっているのが、惜しい。


いい作品というのは、ラストシーンが印象に残るものだが、今この時点で、もうこの作品のラストシーンがあまり思い出せない。
せめて、一人の女性としての未来への希望を掴んだデュナンの顔がありありとしていれば、こんなに記憶があいまいにはならなかったと思う。

やっぱり、少なくとも映画というものは、ジャンルに関係なく、「人」を描いてなんぼ、なんだなと思います。






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2012年07月27日

カルメン故郷に帰る

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カルメン故郷に帰る

監督・脚本 : 木下恵介
出演 : 高峰秀子 小林トシ子 望月優子 佐田啓二 笠智衆


こんな記事が目にとまった。

木下恵介監督『カルメン故郷に帰る』がベネチア新部門の初上映作品に!カンヌに続く快挙


木下恵介作品は観たことがない。というか現代において、これだけその作品を観る機会に恵まれていない巨匠もなかなかない。
どこかで、なにかしらのかたちでひとつくらい観たことがあるのかも知れないが、まったく記憶にないので、観たことにはならないに等しい。


で、この「カルメン故郷に帰る」がHuluにあったので、さっそく観てみた。

松竹三十周年記念作品。そして、日本初のカラー作品です。1951年公開。
「総天然色」という感じで、やや赤みがかった強い発色。この当時のカラー撮影は光量を必要とするため、全編ほとんど屋外での撮影になったらしい。(屋内のシーンがないわけではない)
舞台が北軽井沢になっているのも、光量を得るためだったという。また、カラー現像がうまくいかなかった場合に備えて、モノクロ撮影もするという「二度撮り」を行なっている。大変ですねえ.....


ストリッパーの"リリィ・カルメン"こと、おきんが、ストリッパー仲間の朱美を連れて生まれ故郷の浅間山麓に帰ってくる。家出同然で飛び出していたため、迎える父もぎこちない。しかし天真爛漫なカルメンは意にも介せず、自然に囲まれた村を我が物顔で練り歩く。そんな東京からやってきた華やかな女二人に、目を丸くする人々。ある学校の運動会を台無しにしてしまった穴埋めに、カルメンたちはダンス・ショーを披露することになる。まさかストリップだとは思わない人々が観に集まるが・・・


面白いのは、カルメンは自分がストリッパーだということを隠しているわけでもなく、恥じてもおらず、むしろ「アーティスト」として誇りに思っているところだ。だから故郷の人間も「ダンサーとして成功して帰ってきた」と思い込む。


さておき、カンヌで好評だったのかも知れないけど、正直、僕は生理的に合わなかったような気がする。しかも困ったことに、その理由や原因があまりわからない。

全体的に興味が持続しなかったのだ。ちょっとそんな自分にショックでもある。なにか面白い点はないかと探しながら観たのだけど、気になるのはその画角、とかそういう、どうでもいい点だった。


人間の全身が映り込むという、いわゆる「サザエさん」の画角が基本デフォルト。

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この画角がほとんどを占め、ワンシーンがワンカット構成、この画角だけで終わることも多い。

もちろん、バストショットなどもあることにはある。

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顔のアップなどはほとんど皆無に近く、少なくともあまり記憶にない。

全体的に、「人を撮る」というよりも、「背景があり、そこに人を置く」という目線で、なにかこう俯瞰的、観察者的な視点が常に支配している。そして、その手法の目的がまだ僕には発見できていない。

有名な他の木下作品、「二十四の瞳」や「楢山節考」などもこういう感じなのだろうか。もしくは、この作品にかぎってなのだろうか。

先の記事ではこの作品、コメディと紹介されていたが、Huluでもコメディに分類されている。だからそのつもりで観たのだが、一度も笑うことはなかった。クスッともなかった。なぜだ。


木下監督はいろいろな題材を撮ってきた人、という印象があるのだけれど、この「カルメン故郷に帰る」に関しては「冒頭からいきなり引き込まれない」映画という印象になってしまった。
どういう生真面目さなのかはわからないが、すべてにおいて丁寧なお膳立てを用意してから展開するという脚本構成になっていて、1時間20分という短めの尺でありながら、「もっと短縮できるのでは」と思ってしまう。

主演の高峰秀子は大いに観る価値があるが、しかし木下監督は自らこの女性を創りだしておきながら(監督が脚本を書いている)、彼女にはあまり興味がないようにみえるし、愛情らしいものも感じない。

なにか不思議なものを見せ続けられている感じだった。

ほんとなら、初の木下作品ということで、「いやあ、なかなかどうして面白かったですよ!」みたいなエントリが書けると勝手に期待していたので、この結果にちょっと動揺している。

なにか見落としているのだろうか。


この約3年後ぐらいに、「七人の侍」が誕生する。それで長老役をやっていた高堂国典さんが、裸で踊るカルメンをポカンと見上げるカットばっかりが印象に残っているw


いい映画というのは、印象に残るセリフが必ずあったりする。しかしこの作品は、「セリフはどうでもいい」といわんばかりにサラサラと流れていく。
また、古い作品なので、何を言っているのかわかりづらかったりするのだが、これは仕方ないので全然かまわない。ただ一番まいったのが、セリフの音声が映像とずれていたのである。これはHuluの問題なのか、オリジナルがそうなのかはわからない。けどこれでずいぶんと集中力をそがれてしまった。


もう一回観てみようと思います。


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2012年07月26日

リーサル・ウェポン

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リーサル・ウェポン

監督 : リチャード・ドナー
出演 : メル・ギブソン  ダニー・グローヴァー

80年代を青春として過ごした男性で、この作品を鑑賞したことがあるならば、たぶんその多くはこの映画をあまり悪く言ったりはしないだろう。

後に「ダイ・ハード」や「マトリックス」を手がけるジョエル・シルバーが製作したこのヒット作品は、ある意味ハリウッドにおける刑事アクション映画の転換期的作品となっている。

ちなみにこの作品、僕は100回以上は観ている。
「アホですか」と言われてしまいそうだが、そう、アホだったのだ。今日の鑑賞で何回目になるのだろう。

なにがどう転換期的かというと、それは大雑把に言えばアメリカの古典的な刑事アクションから、現代的な刑事アクションへの移行、というものだ。この翌年の「ダイ・ハード」で一気にそれが加速する。

この作品はいわゆる「バディもの」で、遺伝子的にはTVシリーズ「スタスキー&ハッチ」や「マイアミ・バイス」を受け継いでいる。「スタスキー&ハッチ」のゴキゲンな要素と、「マイアミ・バイス」の硬派さが融合された感じだ。

メル・ギブソン演じる主人公のマーティン・リッグスは、僕が最も好きな刑事キャラクター。
まずこのリッグスが、今までの刑事映画にはない要素を持っていた。題名にもなっている「リーサル・ウェポン(必殺兵器)」であるということ。

「捜査する刑事」ではなく、「戦う刑事」というキャラクター性を確立したのはクリント・イーストウッドの「ダーティ・ハリー」で、その後にやはりそれを目指して製作された、スタローンの「コブラ」などがある。しかし「コブラ」はシリーズ化実現はならなかった。

その後にもポツポツと刑事アクションはあったのだが、この「リーサル・ウェポン」は主人公に「元特殊部隊隊員」というのを持ってきて、戦闘力を上乗せしたことによって今までにない火力の増す演出をやってみせた。

刑事にベレッタ(M92FS)というダブルカラム(多弾数)拳銃を持たせて、派手に撃ちまくらせてみせるというスタイルは当時、「こんなの見たことない」だったのだ。
さらにはリッグスは、H&K PSG1ライフルを持ちだして、狙撃まで行う。

間違いなく「最強の刑事」であって、「リーサル・ウェポン」。これに対抗する犯罪者側は、ただのギャングでは役不足ということで、やはり元特殊部隊の男が受けて立つ。

この作品は「第5弾」まで企画されるほどの人気シリーズとなるが(実際に製作されたのは4まで)、それはやはりこのリッグスの魅力と、ダニー・グローヴァー演ずる黒人刑事、ロジャーとの絶妙なコンビっぷりが成功しているからだろう。

リッグスの魅力はいろいろあるが、まずその「バイタリティ」。これがなにより他の刑事アクションと違っていて、このバイタリティは後の刑事アクションものに受け継がれていく。

たとえば、車を奪って逃げ去る犯人。刑事、それに向かって銃を放つ。バンパーに弾く銃弾、割れるガラス。しかし犯人の車は遠ざかっていく・・・こういうシーンはよくあるが、この場合これまでの刑事ものは、「son of a bich!」などと吐いて見送るか、まあよくて他の車を探して奪って追いかける → カーチェイス といった具合だ。

しかしリッグスはいきなりそのまま足で走って追いかけるのである。この展開は当時、「まじかよ?」だった。これほんとに。
まじでこういう発想はなかったのだ。当時つきあってた女の子も、観終わってから「あの走って追いかけるとこがすごかった」と言ったのをよく覚えている。リッグスは高速道路のバイパスを使って先回りし、犯人の車にMP5の銃弾を浴びせる。

この映画は、刑事モノにお約束のカーチェイスがない、というのも特徴で、あえてそれを避けている。リッグスという「人間兵器」が肝だからで、彼が身一つで戦っていく様を信条としている。走って、飛んで、登って降りて、伏せて転がり掴んで回し、ひねって押さえて撃ちまくる、ってな具合でござい。

最後の最後に、わざわざ格闘技戦に持っていっているのもそのコンセプトからだろう。


リッグスが強い理由は、単に技術やバイタリティがあるからだけではなく、「自殺願望のある男」だからというのもある。死ぬことを恐れないというのは時として最大の武器だ。
彼は交通事故で妻をなくしており、自暴自棄になっている。警察のカウンセリングにかかっており、「異常者」もしくは「年金ねらいの芝居」などとさえ見られている。

この映画のサブ・プロットは、「自殺願望のある自分の変革」であり、リッグスが犯罪との戦いの中、ロジャーとの交流を通してそれを成し遂げ、一人の男として再起する話なのだ。

コンビを組んだ時、リッグスとロジャーはあまり反りが合わない。ここまではまあ、よくあるノリだが、その後の相互理解への道筋は、折り重なるアクションによって作られていく。そしてなによりも、ロジャーの家族が接着剤の役目を果たす。

この作品の隠れたテーマは「家族」であり、独り身のリッグスが最後、クリスマスの夜をロジャーの家族と過ごすことを選択してラストを迎える、というかたちになっている。
このアメリカ人好みの「家族」というテーマは、その後のシリーズでもきっちり機能し、このシリーズを支えてきた。


とにかく、この作品移行、刑事アクションにおける主人公はバイタリティが増し、戦いにおいて柔軟になり、容赦のない奇抜な行動も辞さなくなってきた。そういう意味でも、記念すべき一作だ。

もし観たことないなどいう野郎がいたら、是非経験すべし。少なくもパート2までは押さえよう!


100回超えて見ても発見のある映画でございます。




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2012年07月24日

復活の日

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復活の日

監督 : 深作欣二
出演 : 草刈正雄 オリヴィア・ハッセー 夏八木勲 ジョージ・ケネディ グレン・フォード

1980年公開。実は、初見です。

やはり劇場で観たかったですねこれ。木村大作さんの絵。

上に、出演者をまかりなりに羅列してありますが、これほどの大作となると「この顔ぶれだけでいいのかな」と悩んでしまいます。
昭和基地隊員に千葉真一、渡瀬恒彦、長瀬敏行、森田健作。滅亡する日本側では多岐川裕美、緒形拳、小林稔侍、丘みつ子など。
他にも悪役と言ったらこの人ヘンリー・シルヴァや、横顔ですぐバレる「ブレードランナー」のエドワード・ジェームズ・オルモスなどなど。
そしてなによりもロバート・ヴォーン。さすが、顔出すだけで絵が締まります。

一体、現場はどんな感じだったんでしょうか・・・・

原作は言うまでもなく、小松左京。長編SF大作です。
しかしよくこれだけのものをやり遂げましたね・・・・角川春樹はすごいね。というか、すごかったね・・・

制作費は30億前後。なにせ南極ロケをしています。これだけでもすごいよなあ。Wikiによると、35mmムービーカメラによる南極撮影はこれが世界初だそうな。


生物兵器として開発された猛毒ウィルス、MM-88がスパイによって盗まれてしまう。しかしスパイたちの飛行機が墜落したため、ウィルスが世界に蔓延、人類は滅亡してしまう。しかし、氷点下ではウィルスは毒性を発揮しないため、かろうじて南極の各国の基地の人間のみが生き残った。各国の基地は手を取り合って小さな連邦政府を作り生きながらえるが、アメリカとソ連のARS(自動迎撃システム)が作動していることを知る。さらに地質学者の吉住による、油田採掘を原因とする大地震の予測を受け、その地震でARSが発動、核が世界に発射されるかも知れないという懸念に立たされる。ARSを無効化するべく、志願した吉住はワシントンDCへと向かう。


なにかこう、ノリや展開などが、手塚治虫の漫画作品を読んでいるような感じがしました。手塚さんがこれを漫画化したら、めちゃくちゃドンピシャなものに仕上げてくれそうです。

さておき、小説の映画化というのは難しいんだな・・・やっぱり。

小説と、映画脚本の違いは一体なんでしょうか。どっちも文章の羅列である、ある意味「文学作品」とも言えます。

なんだと思いますか。


脚本が小説と違う点はなにかというと、脚本は、「時間軸が固定している」文学、ということです。
ここでいう時間軸とは、「上映時間」のことを指します。
つまり、決まった時間内で消化されることが前提の文学ということになります。
ですから、小説よりも「時間と構成」の関係密度が高いわけであります。

小説は、一気に読む人もいれば、休み休みの人もいるでしょう。そしていつでも少し前に戻って読みなおすなんてことも可能です。
しかし、脚本が目指すところの映像化(もしくは舞台化)されたコンテンツは、一度始まったら原則として一定の時間を消費しながら進み、終わります。
ですから、構成というものが非常に重要になってきます。

これは音楽も一緒で、その構成は時間と関わってきます。そういうのもあって、大体の現代商業音楽は、イントロ・Aメロ・Bメロ・サビ・・・などという構成に落ち着いたりしてますね。少なくとも楽譜は、今も昔も「演奏時間内」という制限を前提として構成されているわけです。


このところをわかっていないと、小説の映画化は難航します。失敗している場合、このあたりを見据えていないことが多いのです。

で、まず、この「復活の日」は、残念ながら映画作品としては成功の部類ではありません。少なくとも僕にとっては。
そして、小説を映画化するにあたっての、代表的な失敗例ともなってしまっています。

この映画は、人類が滅亡してしまい、南極に生き残ってしまった人類にスポットが当たったあたりから面白くなります。しかしそこへいくまでに1時間も消費されています。この1時間がなにに使用されているかというと、

・ウィルスが一体どういうものなのかという情報提示と、その裏事情
・ウィルスが蔓延する過程と、それによって崩壊していく世界と人類の滅亡
・ウィルスに侵されていく日本における何人かのエピソード(吉住が置いてきた女など)
・ARSが作動されるエピソード

などに費やされています。

この1時間は少々退屈です。なぜなら、これらは「エピソード」であって、物語(ドラマ)ではないからです。その証拠に、このパートが後半に受け渡した要素というのは、ドラマツルギーから見れば「ARSの作動」のみです。
しかし小説が有利なのは、こういった「エピソード」も、その文章力で見せていくことができることです(SF小説なら特にです)。それは時間に縛られないのが大きいというのもあるからなんですが、映画にはそんな余裕はありません。

本来、この映画は、「ウィルスで人類が滅亡した中、南極に生き残った人間が生き残りと復活を賭けて戦う物語」ということになります。

そうすると、極端な話、「ウィルスで人類が滅亡した」ところから始めるというくらいの構成変換が必要なんです。これが「小説の映画化」という仕事です。


小説の映画化ではありませんが、細菌兵器を扱った映画で「ザ・ロック」という娯楽アクションがあります。この作品がいいか悪いかは別として、劇中にとんでもなく危険なウィルス・ガスが出てきます。これが一体どういうもので、どれくらいやばいかということを、この映画は一々説明しません。始まって10分もしないうちに、一発の絵だけで説明してみせます。そのあとはもう、物語が進行するだけです。

しかし「復活の日」はSF長編小説という原作にとらわれてしまい、「過程と説明」が1時間を占めるというかたちになってしまいました。



小説とその映画化の関係をもっと見てみましょう。
ここではわかりやすい例として、夏目漱石の「坊っちゃん」を例にします。

あなたがこの作品を映画化するなら、どうしますか。

パッと考えれば、坊っちゃんが松山に赴任する第二章から始めるのが映画にとっては最適だとわかるでしょう。大体の映像化もそうしているんじゃないかなと思います。

しかし原作ではその前に、「親譲りの無鉄砲で小供の時から損ばかりしている」と始まる第一章があります。ここで坊っちゃんがどんな気質かという情報を読者は得るのですが、ここは子供の頃のエピソードの羅列でしかありません。

この第一章は短いのですが、しかし、「このエピソードも面白そうだから、ここも映像化しよう」などと考えたとしたら、「ああ、それはたしかに余計な部分かも」と思いませんか。
ところが、ほんとにそれをやってしまう映画というのが多いのです。

小説、文学というのは実に柔軟な芸術で、それこそ作品全体が坊っちゃんの第一章のような形態・手法でも成り立ったりします。その文学だからこそ成り立っている部分と、映像で成り立たせるべき部分を混同してしまうのです。

そう考えると、映画というのはいかに制限が多い芸術かということになります。そもそも映画(映像芸術)は、人類史上最も若い芸術です。記録装置としてのカメラが発明されなかったら、生まれなかった芸術であり、そのカメラによる記録と、再生による発信という枠からは逃れようがありません。

そしてそうである以上、上映時間というものに縛られます。

私たちは小説を買う時、よほど分厚かったりしないかぎり、何ページかということはあまり気にしません。上下巻に分かれてたってかまいません。
しかし、これから1800円出して観るロードショーが上映時間30分だと知ったら、「ええ?」と不安に思うでしょう。「ちょっとビデオでも借りて観るか」といった気分でレンタル屋に行ったのなら、5時間もあるような映画には手を出さないでしょう。

映像作品にとって「尺」とはいろんな要素と絡んでいるのです。


また、特に長編小説になると、多くの登場人物のエピソードを行き交うという、群像もののスタイルが多い。こういった小説はまず映画化の企画に乗せてはいけません。乗せるには相当覚悟がいります。
理由は、映画は時間に縛られるので、多くの時間を必要とする群像劇は向いていないのです。もし各パートを説得力を持って作るとなると、映画そのものが長時間になってしまうリスクがあります。実際、群像スタイルの映画は2時間強から3時間越えになりがちです。場合によっては3時間でも足りない、もっと欲しいとさえなるでしょう。たとえば、「LOST」の映画化なんて、想像つきますか?
どうしても映画で群像劇をやる場合、成功させる条件として、必ずすべてのエピソードがひとつにつながること、というのがあります。これは上映時間というリアルタイムな時間軸の流れがあり、到達点を必要とする映画という手法に合っています。そして、成功している群像劇スタイルの映画は、ほとんどこのひとつになるスタイルです。(ソダーバーグあたりの作品がいい例でしょう)
たとえば「愛と哀しみのボレロ」はやはり長い映画になってしまってますが、最後にボレロで各エピソードがひとつになります。

小説は一人称とかでないかぎり、登場人物の数だけ空間軸(キャラクター、もしくはシーン)を飛びまくってもOKに作ることが可能ですが(実際、そういうものが多いですが)、映画はこの空間軸が飛びすぎると、勢いを失いやすい。映画上の空間も、時間の制限を受けているからなんですが、主要の空間軸は良くて2つ(「眼下の敵」「椿三十郎」「ゴッドファーザーPart II」「ファインディング・ニモ」など)、最低でも3つが限度だと僕は思っています。これ以上空間やキャラクターが飛ぶと、難解な印象を与えます。

とにかくこのように時間や空間の制限を受けずに開発される小説を、制限を受ける映画に落としこむのには、相当なテクニックがいるわけです。
「どんなに素晴らしい小説でも、その原作をそのまま映画化しても面白くなるとは限らない」というメカニズムのひとつがこれであります。

「復活の日」もとても登場人物が多く、各エピソードの空間が飛びます。これによって観客はタイムラインがつかめないので、冗長な印象を受けてしまいがちです。草刈正雄演ずる吉住がタイムラインであるというささやかな印象は持てるのですが、焦点を当てるのが遅すぎたため、ラストへの到達感にいまひとつ物足りなさを感じてしまいます。これが、当時の多くの酷評につながっている原因のひとつでしょう。


さて、あとは深作欣二監督なんですが、この人は決して器用でテクニカルな監督とは言えなかったですが、なぜかバイオレンスが得意な監督、みたいな見られ方もありました。「仁義なき戦い」などのせいだと思いますが、実は僕はいつも、この人の「人の良さ」のようなものがあまりにも見えてきてしまって、そしてその「人の良さ」が邪魔で仕方ありませんでした。
この人は映画監督をするには、少々無欲すぎます。

「ああ、いい絵だな」と思うところは、木村大作さんの仕事だというのがばればれですし、「もっとなんとかなりそうな絵だな」と思うところは、深作監督のセンスだというのもばればれです。「よくこれでがまんできますね」と言いたくなってしまうのです。

要は、絵や演出に貪欲さが垣間見れれば、たとえどんなに予算その他の制限などで質をそがれててもいいわけです。

ARS無効化の危険な任務に志願した米軍少佐と、やはり志願した吉住が衝突するシーンがあります。少佐は自分一人で充分と言い、吉住はそれでも同行すると言い張ります。それで殴り合いになるのですが、殴り合いによってこの男二人がつながります。しかしバイオレント監督とも言われた人が、このシーンですら、バイオレンスを通してつながる男二人を面白く描けていません。そこはかとなく流れているのは、やっぱり遠慮がちな「人の良さ」です。



とまあ・・・また言いたいこと書いてしまいましたが、日本映画と考えても、とんでもない規模の大作映画なのは間違いありません。
少なくとも、当時の角川春樹の気概が感じられる作品とも言えます。
そもそも、角川春樹は「天と地と」という邦画による制作費最高記録(50億)を持っている人です。(当時これと競り合った「クライシス2050」(資本は日本、スタッフ・キャストはアメリカ 70億)は一応邦画とみなさないことにします)

またぞや、これくらいのことをしてくれる人は日本映画界に現れませんかね?

復活の日を期待しています。

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2012年07月23日

その男ヴァン・ダム

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その男ヴァン・ダム

監督 脚本 : マブルク・エル・メクリ
出演 : ジャン=クロード・ヴァン・ダム


明け方に目が覚めてしまって、寝つけなかったので観てみました。で、こんな時間に。


原題は「JCVD」。まさに「ジャン=クロード・ヴァン・ダム」。
俳優、ジャン=クロード・ヴァン・ダムがそのまま本人を演じています。


実際のジャン=クロード・ヴァン・ダムは、ベルギー出身のハリウッド・アクションスターです。若き日は空手ボーイでしたが、映画俳優を志して22歳の時に単身アメリカに渡ります。結果的に成功するのですが、それまでは、セレブのパーティーに忍び込んでは停めてある高級車のワイパーに自分の名刺を挟んで回るなど、それはそれはいろいろ大変だったようです。

「ブルージーン・コップ」(懐かしいw)あたりで弾みがついて、「ユニバーサル・ソルジャー」で確立、「ダブルチーム」あたりまでが最盛期だったんじゃないかなと思います。
なにげにどれも劇場で観てたりするんですが、実は個人的にはそんなに想い入れのある俳優ではありませんでした。
しかし、この今回の作品を観てちょっと見る目が変わりました。いい俳優になりましたねえ・・・・・

さすがに50歳近くにもなると人間もこなれてきますから、俳優であればそれ相応のものをみせるようになる・・・・とも言えますが、必ずしもそうであるとは言い切れません。

アクション俳優として似たような位置にスティーヴン・セガールとかいますが、実はHuluで「イン・トゥ・ザ・サン」観ちゃったんですね(日本が舞台になってるというので興味本位でw)。作品もひどいのですが、セガール自身があの年になっても全然進歩しているように見えなくて、むしろ後退してるんじゃないかというくらい辛いものがりました。まあ俳優として、ですけどね。


さて今回の作品。実はアメリカ映画ではないのです。始まってすぐ、フランスの超老舗映画会社、ゴーモンのタイトルが出て、まず「あ、そっち??」とびっくりします。
また、このゴーモン社のタイトルバックがなかなかいいブラックさを醸し出しています・・・・この映画専用なのかな?
どうやら、フランスとベルギーの合作のようです。劇中もほとんど、公用語のフランス語です。

プロットは、落ち目となってしまったアクションスター、ジャン=クロード・ヴァン・ダムのそのままのお話なんですが、ストーリーは完全にフィクションです。



今や低予算の作品の話しか来ないヴァン・ダム。その上、かつての妻と娘の親権争いで裁判の日々。そんな中、彼は故郷であるベルギーのブリュッセルへ帰郷し、郵便局強盗をするはめに・・・・?




冒頭からいきなり、3分越えの長回し(カメラを切らず、ワンカットで撮ること)のアクションシーンから始まるのですが、よくこれ撮ったなとw これ絶対に撮影終了後、スタッフたちは歓声をあげたでしょうな!w これギネスもんじゃねえの?w
またすぐ、ブリュッセルに場面が移ってから、ジャン=クロードが郵便局に入るまでとんでもない長回しがあって、「ああ、こういう監督なんだ」と思ったのですが、それ以降はそういう手法は使われません。

長回しというと、相米慎二監督(「セーラー服と機関銃」など)とか思い出しちゃうんですが、相米監督の場合は「これでもか」と言わんばかりの長回しで、観てる方が疲れちゃうこともしばしばでして・・・・でもこの作品の監督はとても上手いなあ。長回しを意識させません。それでいて、長回しの利点を生かし切ってます。こりゃあ勉強になりました。

作品の雰囲気はやっぱりヨーロッパらしく、「普通にはやらない」感じなんですが、気持ちいいモンタージュです。まあ、こういうのは好みもあると思うんですが、この監督はとても才能あるなあと思いました。

とはいえ、とりたてて挙げるべき点は特にない映画で、まずジャン=クロード・ヴァン・ダムを見守る映画です。演出もなにもかもそういう手法になってますし、そういう意味では前に紹介した「レスラー」も彷彿させます。(おなじ2008年公開なんですね・・・)
とにかく、ジャン=クロード・ヴァン・ダムが良いです。
彼の、最後の最後のカット、あの彼を見るだけでも価値があります。



肉体派アクションスターというのは、やはり賞味期限が限られてしまうものです。ブルース・リーなど、あの絶頂期に迎えた死。(「燃えよドラゴン」が日本に上陸した時点ですでに亡くなってたりするわけで)あれがなかったとしたら、その後のブルース・リーはどうやってスターとして生き残ったんでしょうかね。

チャック・ノリス、シルベスター・スタローン、アーノルド・シュワルツェネッガーなどなど・・・いろいろなアクションスターが活躍したのですが、チャック・ノリスはやはりパイオニア的存在で、アメリカンドリームの一例として伝説化した感があります。今やどんなに商業価値がなくても、彼を悪く言うアメリカ人はあまりいません。
シルベスター・スタローンは、この人は映画への愛がかろうじて救ってる感じですね。脚本や製作、監督もできますから。

しかし、もっとも「落ち目」らしいものを経験せずに成功を保ち続けたのはシュワルツェネッガーでしょう。この人はアクションスターの賞味期限をわかっていたので、うまく生き残りました。落ち目になっていたら、知事にもなれなかったでしょうね。

肉体派アクションスターがもし落ち目になりたくなかったら、早めに別の領域を獲得することです。肉体派アクションスターのファンというのは、やはりコアですから、そこからどうやって「一般大衆」に認知させるかということになります。

そのために、シュワルツェネッガーは肉体派アクションスターの中でも早期に「コメディ」に進出しました。それが「ツインズ」であり、そしてそれで、そこそこ大衆を説得することに成功しました。

この「コメディで成功して枠を広げることを成し遂げた」というのは、この手の俳優ではシュワルツェネッガーが唯一です。
スタローンの「刑事ジョーママにお手上げ」は、逆に惨めになってしまいました。
この「ツインズ」、シュワルツェネッガーのキャリアとしては実に巧妙な戦略でした。これはたぶん、相当頭のいいエージェントと契約していたのではと思います。

この「ツインズ」の上手いところは、シュワルツェネッガーを主役にしなかったという点です。いやまあ、主役は主役なんですが、ピンにしなかった。そう、双子の片割れに、国民的大スター、ダニー・デビートを持ってきたことが妙手なんです。
ダニー・デビートはコメディの王様ですから、すべりようがないのです。で、互いが引き立て合うかたちであれば、どっちもお得。
もし映画がコケても、シュワルツェネッガーの責任になりにくい点も大きい。キャリアに傷がつきにくいわけです。

実はこのスタイルのもっとも成功している例は、トム・クルーズです。
トム・クルーズは「トップガン」で一躍スターになりますが、そうなると次も主役でってなるもんなんです。しかしその後は「カクテル」など以外は、極力ピンによる主役をわざとやらなくなります。実際、そういうオファーは蹴っています。
スターというのは、その主演作品が一度でもコケると、すぐ危機的状況になります。コケなければ、ギャラはうなぎのぼりです。

「ハスラー2」(ポール・ニューマン)、「レインマン」(ダスティ・ホフマン)と、必ず大スターが看板になる映画をチョイスしています。
これならコケてもトム・クルーズに責任の目が向きません。
「トップガン」移行、トム・クルーズが「いかにも主役」という「ミッション・インポッシブル」に至るまで、主役らしいことをやっている映画は「カクテル」「7月4日に生まれて」「デイズ・オブ・サンダー」「遙かなる大地へ」だけです。
もっともナイスガイな印象を持たれていた80〜90年代は実はそんな感じで、「もろ主役」をたてつづけにやりはじめたのは2000年に入ってから、なんですね。つまり、スターとしてのキャリアを堅実にしてから、ということです。


しかし、肉体派アクションスターというのは、いきなり主役デビューし、その後も主役しかやりようがありません。いやでも作品の顔です。ショービジネスにおいて、こんなにリスクの高い状況というのはないわけで、大ゴケするか、マンネリで飽きられるかで、いつかは右肩下がりになってしまいます。

シュワルツェネッガーは早くからそういうところをうまくやって、大衆にもっと親近感を持ってもらうことに成功しました。日本のカップヌードルのCM(ヤカンを持って出てくるやつ)なども、当時は衝撃的で、なぜならハリウッドスターが他国のCMに、ましてやあのような扱いで出るというのはまだ前代未聞だったからです。シュワルツェネッガーは、ハリウッド映画の海外における最大の顧客は日本だということも知っていました。
「シュワちゃん」などと海外で呼ばれるまでになった肉体派アクションスターはいないでしょう。


「コメディ」というのは、人間をさらけだしていくものですから、観ている観客は俳優に親近感をおぼえます。むっつりと機関銃を放つヒーローに興奮はしても、親近感をおぼえる人は少ないでしょう。
同じような肉体派アクションスターでも、ジャッキー・チェンの人気が衰えなかったのは、彼そのものが「コメディ」路線だったのも大きいわけです。


さて、ジャン=クロード・ヴァン・ダムはどうだったかというと、キャリアに「コメディ作品」は皆無といっていい状態です。
まあ、「コメディなんてやらないからこそ魅力的」というファンもいるかも知れませんが、そのファンが飯を食わせてくれるわけでもありません。あのハンフリー・ボガートですら、「アフリカの女王」「麗しのサブリナ」「俺たちは天使じゃない」などやってんですからね。

「コメディやれ」と言いたいわけではありません。でもどこかで、「人間味」を見せるべきだったでしょう。それもできるだけ早く。そういう意味では、この「その男ヴァン・ダム」は、遅すぎたのかも知れませんね。



posted by ORICHALCON at 07:26| Comment(1) | TrackBack(0) | Cinema