0:34 レイジ34フン監督・脚本 : クリストファー・スミス
出演 : フランカ・ポテンテ ポール・ラットレイ ケリー・スコット ケン・キャンベル ショーン・ハリス
85分
いっこまえの「ミッドナイ・ミート・トレイン」のエントリのつづきのような感じとなりました。
「ミッドナイト・ミート・トレイン」が物足りなかったので、口直しのつもりでHuluのラインナップから見つけた一本。
同じ地下鉄を舞台としています。
原題は「Creep」。
このなんともひねりのない、ホラーとしては直球すぎるタイトルw
ホラーというのは日本公開において、もっとも「邦題にすりかえられる」率の高いジャンルとも言えます。
で、輸入ホラーを楽しむ要素のひとつとして、原題を知っておくのも結構良かったりすん時もあんのね。
邦題がつけられるというのは、これは日本の配給が「この原題では人が入らん」と判断しているわけで、つまりは「人を入れよう」という思いで邦題をひねり出す。
しかし、ヒットしたり、名作と謳われるホラー&スプラッタってのは、案外原題のままか、直訳だったりすることが多い。
< 原題まま >
チャイルドプレイ
ペットセメタリー
ヘルレイザー
キャリー
オーメン
エクソシスト
サスペリア
デモンズ
ソウ
< 直訳系 >
A Nightmare on Elm Street → エルム街の悪夢
Friday the 13th → 13日の金曜日
(もっとあるだろうが、めんどくさくなってきた)
原題ままの場合は、心霊系が結構多い。心霊系というのは、タイトルも作品の概念を表そうとするからかも知れない。
まるっきり邦題がちがうものになりやすいのは、スプラッタ系。
「悪魔の◯◯」とか「死霊の◯◯」とかね。
「悪魔のいけにえ」はThe Texas Chain Saw Massacreだ。「テキサス電ノコ大虐殺」?
つまり心霊系は概念や観念を表すために名詞になりやすいから、そのままでいける確率が高くなる傾向であるのに対し、スプラッタは事象を説明する形容句風になりやすいがために、「もうちょっとわかりやすくしようか」となるのかもしんないね。
原題からかけはなれた上での、邦題の傑作はやっぱ「バタリアン」かな〜。
原題は「Return of the living dead」(帰ってきた生きる屍)なのだが、これは確かに日本じゃそのまま出せないでしょう。
Battalionは、大隊・大部隊という意味で、複数形のBattalionsで大群という意味になる。
作品に照らしあわせても、なかなかいいじゃないですかw
さておき、今回の「Creep」ですが、確かにこれじゃあ、日本ではまずいと判断されますな。(原題としても微妙ですしね・・・)
で、「0:34 レイジ34フン」というわけで、これはなかなか意味深ですが、単に主人公が乗りそこなった地下鉄最終を指す。
イギリス・ドイツ合作で、舞台はロンドン、主人公のケイトをドイツの女優、ボーン・シリーズでお馴染みのフランカ・ポテンテが演じています。
地下鉄の駅のベンチで寝過ごして最終に乗り遅れたケイトは、営業の終了した駅に閉じ込められていることに気づく。途方に暮れているところへ、列車がホームへ入ってきた。ケイトは飛び乗るが、突然列車が急停止して・・・・
どうしてもホラーというのは、上のようなあらすじ説明になってしまうね。「それが悪夢のはじまりだった・・・・」とかね。
同じく地下鉄を舞台とした「ミッドナイト・ミート・トレイン」は、NYの地下鉄(撮影はロスらしいが)で、いかにもこう殺伐とした掃き溜めのような絵で撮られているのに対し、この作品はヨーロッパらしい、清潔感のある地下鉄。照明も明るいし、ホワイト基調で統一された車内と、パステルカラーの座席。


対比的だが、「0:34 レイジ34フン」はこの清潔感ある世界が徐々に吐き気を催すような領域に変貌していくというのがなかなか良い。
「ミッドナイト・ミート・トレイン」のレビューで、観客とキャラクターを合致していくのが大事と言ったけども、それは簡単に言えば「感情移入」なわけで、キャラクターの行動や心理に説得力があるかが、こういった生死にかかわるストーリーには重要だ。
ケイトはそれなりに個性的な部分もあり、女性としては決して普遍的とは言えないが、一人の都会人としては充分リアルで、誰もが共感できる考えと反応をする。
この、清潔感のある世界と、誰もが身に覚えのある感覚を表現する女性は「日常」の象徴で、それが「非日常」へと変化することによって恐怖を描くというのもホラーのセオリー。
そういう意味ではとても古典的なのだけど、こういうのはセンスのいい監督がやると、充分怖がらせてくれる。
で、正直、やっぱ怖かったw
やはり「想像力」を使わせられるというのはいいね。
そう、特に前半はダイレクトに見せずに想像力だけで怖がらせてくれる。
かといってもったいぶってるわけではなく、単に主人公の視点にいるからなわけだけども。
ただ、この「主人公の視点」というのをもっと徹底したら、この作品はもっと極上のものになっていたと思う。
残念ながら、主人公が知り得ない視点にいくつか飛ぶところがあって、こういうのを我慢できるかできないかで作品というのは大化けする。
視点をできるだけ(たとえばキャラクターに)固定するというのは、観客の感覚に訴えるのに非常に効果的だ。
問題は、観客がその視点からはずれた時で、たとえば前出の「ミッドナイト・ミート・トレイン」は、「警察に行けばいいのに」とか一瞬でも思った時、すでに離れている。
ホラーだのスプラッタだのってのは観客の感覚に訴えてなんぼで、「頭」を使ったり「思考」しはじめたら成功からすでに遠ざかってる。
映画は技法として視点を自由に飛び交うことができるので、つい、いろいろとやりたくなるがゆえ、この「視点を固定する」というのは作家側(脚本家だろうが監督だろうが)に相当な自制心がいるw
しかし、これを武器として体得すると、シーンや作品をとてもシンプルかつ美しく仕上げる手段を得たに等しくなる。
ホラーではないけど、スピルバーグの「未知との遭遇」で、旅客機がUFOとニアミスするというシークエンスがある。
最近の娯楽大作なら、このシーンをCGも駆使して迫力たっぷりに見せてくれるだろう。
しかし、「未知との遭遇」では、この事象をインディアナポリス空港の管制室のみで描く。有名なシーンである。
旅客機からの無線報告と、レーダーに映る輝点、そしてその報告に耳をすまし、レーダーをみつめる管制官たちの表情だけでやってのける。
↓そのシーン
http://youtu.be/PKUGi0XtsvQ?t=7m38sずいぶんと予算のかからない方法を取ったものだが、これがかえって見る者の感覚になんとも言えない臨場感を与えてくる。
最後の管制官の「AE-31便、U-F-Oとして報告するか?」との問いに、無線は無言になる。
さらに問う管制官。「AE-31便、U-F-Oとして報告するか?」。
迷っているパイロットの顔は必要なく、これだけで充分だ。
しかし、パイロットの顔にカメラを飛ばしてしまう映画というのがある。
それが悪いとは言わないけど、少なくともこのシーンは管制室という視点にとどまることによって、かえって観客をひきこむことに成功している。
そう、観客の感覚と想像力に訴えかけているからだ。
「0:34 レイジ34フン」は前半、ずっとケイトの視点で進行する。
他にあるとすれば、ときたま「ケイトを監視する不審者の視点」ともとれるカメラワークがあるのだが、これはいいとしよう。
ケイトの乗った列車が不穏な停止をした時、ケイトは最前列の運転室まで行って、運転室のドアを叩く。が、反応がない。
ここでカメラは切り替わって、運転室になる。惨殺されている運転士・・・・という絵だ。もちろん、それはケイトには見えていない。
これで観客は「わぁ・・・どうなるんだろう」と思うのだろうけど、ここで視点が飛んだことによって、観客の中にはケイトから一歩離れるという化学反応が必ず起きている。
これはもったいなかったと思っている。余計なお世話なのはわかっているけども、これを徹底していったら、もっと忘れられない作品になっていたと個人的には感じる。
黒澤明の「天国と地獄」では、誘拐の電話が入ってからは、権藤邸から一歩も出ない。それこそ、居間から視点が動かない。
だから観客は誘拐犯の電話に耳をすます。これは、そこに居合わせるキャラクターたちと共有する体験だ。
ここに、誘拐犯である竹内の絵はいらないことは誰にでもわかるが、ここでそれをやってしまう映画というのがあるわけだ。
竹内の絵が入った瞬間、観客は第三者目線になってしまう。
特にホラーの肝は「視点」であって、良質なホラーは観客を第三者へ置かない。
ただし、この「0:34 レイジ34フン」はほんとに最後の最後、ラストカットのケイトのアップで、とんでもない演出をやってみせる。
これで僕的にはチャラな気がしたw
こういうのもあってもいいかも知れないw
ホラーというのは救いようのないラストが多いが、このブラックでアイロニーかつ、ニヤっとしてまうラストはなかなか。
頭から最後までスタイリッシュで、まさに"都会のホラー"でした。
いろいろ言いたいことも書いてしまいましたが、秋の夜長に一人で観るには、充分な作品でしたよ。