2020年08月22日

中国のサイト網易に掲載されてる安倍総理の記事がやばいw

前回、安倍総理は歴代でも類稀なる印象操作に遭っている総理と指摘しましたが、先日の総理のドック入りの騒ぎを機に、中国のポータルサイト網易が安倍総理を分析した興味深い記事を掲載しました。

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中国のサイトなので、安全面を考慮してリンクなどは貼りませんが、スクショで雰囲気を感じてもらえたらと思います。
昨日の朝の時点でGoogleTranslateで翻訳して読めたのですが、現在はなぜか翻訳できなくなっています。日本人に見られるのがまずい?
ちなみに日本版には該当の記事はありません。

とにかくいろんなデータや過去のニュースなどを元に、第一次安倍内閣のことまで持ち出して、特に外交面についての功績に言及しているんですが、個人的な印象としては、どんな思惑かはわかりませんが、記事は結果的に日本国首脳として安倍総理を絶賛しています。(翻訳を通してですから、緻密な理解とは言えないかもですが・・・)

興味深いのは、「国益を優先して面子にこだわらない」という外交姿勢を称賛するという、中国人らしい内容なこと。
確かに面子にこだわる中国人には、伝統的になかなかできない領域ではあります。

注目すべきは、この記事に対する5万1千件にものぼる中国国民のコメント欄で、辛辣な意見がないわけではないものの、ほぼ全面的にこの記事を認めるコメントで埋められているということ。
さすがに5万件全部見たわけではないですが、面白くて30分くらい見ちゃったww 体感的には8〜9割方が安倍総理を称賛したり、そういった首脳を持つ日本に対して羨ましいといった内容が目立ちます。安倍総理に否定的な意見もありますが、それに対する反論や皮肉的なコメントも結構活発です。

これはつまり、習近平や中共への裏返しにも取れますが、彼らが外交や政策など、様々な根拠にも触れ、潜在的仮想敵国とも言える日本の総理を、下手な日本人よりも鋭く冷静に見ているのに驚かされます。特に彼らにとっては、安倍総理は民主的に選出されている首脳であり、絶対権力ではない、という存在が、自国と違うファクターとして大きいようです。

中国とアメリカは本格的な冷戦に突入し、先の北戴河会議(中国の最高幹部が集まる長老会議)で、アメリカをあそこまで本気にさせた件について、習近平が責められ、針のむしろになったという情報があり、自己批判までさせられたかは知りませんが(笑)、今後中国はチラチラと白旗を見せながらアメリカと向き合うのでは、という分析も出ています。
ある専門家の見方では、日本に対する融和的動きが出てくるだろうという話もあるわけで、こういった記事がいわゆる「褒め殺し」なのかどうかわかりませんが、中共にとっては「ややめんどくさい総理」ですから、あまり持ち上げすぎるわけにもいきません。ただ、もう任期も少ないので、それを電卓ではじいてうまく使う、という感じでしょうか。
少なくとも中共は、今後の冷戦を乗り越えるためには、中国人民の対日感情はあまり悪化させたくないとは思っているはずです。

現在、アメリカの動きに呼応しはじめているイギリスやカナダ、フランス、オーストラリア、台湾もろもろなどに比べ、日本はまだ「これ!」という動きは見られません。
11月の大統領選挙の結果が出るまでモジモジするつもりなのでしょうかね。
個人的にはトランプが再戦する可能性大とみていますので、そのつもりで動くくらいでいいと思うのですが、中国が日本の動きに注視しないわけがなく、そういった中で出てきた記事ですから、斜め読みぐらいでいいとは思うのですがね。

さて、網易は外交面から安倍総理を分析していましたが、これはいい視点だと僕は思います。
僕は内閣総理大臣の一番の仕事は外交である、というくらいに思っています。総理大臣の権限というのは意外に狭く、「政治家としてなにかやりたいことがあるなら、総理だけにはなるな」などという言葉が永田町にあるように、国会ひとつとっても、総理一人でどうなるものでもありません。
外交は、外務省や外務大臣というのがいますが、最後は首脳同士が合わないことには話にならない。つまり総理以外にできない仕事なわけです。第一次安倍内閣が体調のために倒れて、またあえて総理に返り咲いた理由は、安倍総理がこの外交にこだわっていたのではないかと思いますが、それはその後の総理の動きが裏付けています。

G20などの報道写真を見ると、歴代の総理には、みんなが談笑しているところからはずれてポツン、としているのがあったりするでしょう。古い話では橋本総理や、最近では菅総理なんてもう・・・ほら・・・ね。
小泉総理や麻生総理くらいじゃないですかね、そこそこ立ち回れていたのは。他にもいたっけかな・・・?

そういう意味では、安倍総理はかなりよくやってると思うのですがねえ。
トランプが大統領に当選した際、最初に会った外国の首脳は安倍総理です。これは当選直後ですから、まだトランプは大統領ではありません。しかし大統領に決定した場合、原則的に面会禁止の状態になり、警護的保護下におかれます。
それを押して、例外的な対応でトランプは安倍総理と会いました。つまり、アメリカ側は安倍総理はそういう扱いをする価値がある首脳だと判断した、と見ることができます。

すでにあの時点で、安倍総理は「世界で最も多くの世界各国の首脳と会談している首脳」です。トランプにとっても、コンタクトを優先する意味があります。
こんな総理はかつて、いたでしょうか? そして今後も現れるでしょうか?

しかし、例えば、あの池上彰氏(なぜか"あの"がついてしまうw)が、ある雑誌のインタビューで、「安倍総理はなぜあんなに頻繁に外国に行って、多くの首脳と会談しているのか」という問いに対し、ただただ、「ほら、専用機に乗ってちやほやされるでしょう、そういうのがお好きなんだと思います」的な趣旨の発言だけで締めています。

そのひとつひとつの会談の内容や主旨、外交政策とその効果や是非などにはまったく触れず、そういうくくりで貶める。
あの時は、あらためてこの人はやっぱりリベラルを装った左翼なんだなってことを再認識しました。
そもそもあの人の番組はひどいw すでにネットでは大いに指摘されているみたいですが、肝心なところが嘘ばっかりですよね?

本当にマスメディアというのは恐ろしいと感じます。

こういうのに負けず、残暑厳しいコロナ禍の中、どうかご自愛の上、がんばってほしいと、安倍総理に限らず、国益のために励んでらっしゃる日本のすべての国会議員の皆さんには思います。

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2020年05月11日

検察庁法改正案に反対の動きについて思うこと

また長いエントリになりそう。
いやー、さすがにこうコロナでどんよりしてると、だらっと散歩か、ネットか、どうぶつの森(とうとう手を出してしまった)、そして仕事をちょっとこなすくらいしかなく、入ってくる情報も限られてきてる。
で、きゃりーぱみゅぱみゅさんが「検察庁法改正案に反対」というようなツィートをして、ヤフーニュースにのっかる事態というのを見て、ちょっと書きます。

このブログでは、あまり政治的な内容はやらないつもりでしたが、まあこれくらいならいいでしょう。

この「検察庁法改正案に反対」というのがハッシュタグになってるらしく、特に芸能人を中心に流行ってるらしい。
まずきゃりーさんのニュースの流れで、アップされた相関図を見たけど、いやひどいw 印象操作というか、ちょっと間違ってますよね。

で、きゃりーさんはそれを指摘されて、ツィートを削除、謝罪をアップしたらしいですが・・・あの相関図はちょっとまずいですよね。でもああいうのを信じちゃう人がいるんでしょうね。

さておき、この「検察庁法改正案」についてはここではあまり詳しく扱わないですが(めちゃ詳しいわけでもないですから)、これってのは、国家公務員法改正の延長っていうか一部なわけで、これはもう、今年のはじめには新聞に載ってたわけだから、なんで今になってこんなに反対旋風なのか? しかも芸能人が。すごく気になります(氷菓風に)。
必ず理由があるんですが、ここでは指摘しないでおきます・・・

少なくとも、黒川さんの定年はそんなに関係ないわけで、それだけでもあの相関図はちょっとあれですよね。

で、僕が思ったのは、芸能人が政治的な発言や行動を起こすことについて。これは難しい問題であります。
それと、安倍総理への印象操作です。この二点について。

まず安部総理。
僕は安部総理とトランプ大統領のtwitterをフォローしてますが、安部さんのはあんまり面白くない。トランプさんのはおもしろいですw
で、この二人はかつてないほど印象操作の攻撃にあっている政治家です。トランプ大統領はかなりまともな発言がほとんどを占めているのに、過激な発言のみが日本のマスコミに届くという感じ。

さておき、安部総理ですが、戦後、これほど攻撃にさらされる総理はなかったんじゃないでしょうか。元小泉純一郎総理も相当でしたが、その比ではないと感じます。
政治家というのは、見る人によって功罪分かれるので、一概に「いい」「悪い」は言えないんですね。ただ、モリカケといいい、その他もろもろ、どうにか安部総理を追い落とそうという動きがすごい。
かつて、日本ではこんなのはなかったですよ。よくて、60年安保闘争の岸信介内閣(安部総理のおじいちゃんw)に対するあれくらいじゃないですか。あれはもう内戦ギリギリですから。
安部総理を蛇蝎のごとく嫌う人たちがいて、沢尻エリカさんが逮捕されても、「安部総理の陰謀」だとか出てくる・・・

これは絶対に理由があります。

安部総理をタカ派に見てる人がいると思いますが、政策は意外にもリベラルで、実はとんがった保守派たちからは物足りないくらいに思われてる人。
それでも、極右のように言う人たちがいるんですが、なぜでしょう。

安部総理がこれまでの総理大臣と決定的に違う点があるんです。
それは、「憲法改正をほんとにしそうな総理」ということ。これが間違いなく原点です。
これがなかったら、これほどの追い落としの動きはなかったのではと、ほんと思います。
安部総理を攻撃している人たちは、憲法改正反対がセットになっているのはほぼ、100%だと思います。

憲法改正ってのは、そもそも自民党の党是ようなもんであり、「それのために」結党したような性格の党ですが、実に50年以上もその党是を実現できてないというw

安部総理は憲法改正も掲げて、少なくとも国政選挙を5回勝ち抜いてる。だから、憲法改正しないってのは公約違反なので、やるべきなんですがね。
そう考えると、公約を全うしようとする総理を邪魔するのは、民主主義への挑戦と見ていい。

ともかくここで、僕自身は憲法改正についてどうなんだ、ということなんですが、憲法改正賛成派です。
よく9条がやり玉にあげられますが、それにかかわらず、憲法は見直すべきです。
理由は以下です。

日本には、おかしなことに「憲法解釈」という言葉があります。戦後、綿々とこの「憲法解釈」について論議されてきました。
たとえば、9条の二段目、「戦力の不保持」に照らせば、自衛隊は違憲ではないか?というのに対し、政府見解は「合憲」という解釈です。それでも、憲法学者やいろいろな人たちが「いや違憲でしょ」とも言う。言いたくもなりますでしょう。
9条ひとつとってもこうなんですから。これほど意見や解釈が分かれる憲法は、変えるべきでしょう。分かれないように。
子どもたちにどう教えるんですか。「合憲という人もいれば、違憲という人もいる」って言うの? だめでしょうそれは。
たとえば少なくとも、自衛隊はもう必要インフラとして確立されてしまっているので、戦力の不保持の部分はなにかしら改訂すべきでしょう。

いずれにせよ、岸内閣にせよ安倍内閣にせよ、執拗な攻撃が起きた歴史としてどちらとも、日本の安全保障に関わっているという点がきな臭い。

60年安保は、日本でいう「右翼」と「左翼」のDNAをはっきり分けて決定づけた、というような分け目でもありますが、左翼側にはソ連の工作がかなり入っていた、というのは、ソ連崩壊後のグラスノスチ(情報公開)で分かっています。社会党や共産党に多くの援助をしていたという、ロシアの元対日担当の高官が暴露本にも書いています。

ソ連は崩壊し、新しい冷戦期に入りました。そう、単にロシアが立った椅子に中国が座っただけなんですね。そして今になってそれが現実になってきた。
中国に対しては、安部総理が掲げた「セキュリティダイヤモンド構想」が問題になります。(知りたい人は検索してみてください) つまり、中国共産党にとって一番やっかいな政治家が、安倍晋三なんですね。

まあ、これについては今日はこれくらいで・・・



で、芸能人の政治的発言について。

芸能人やセレブだって有権者ですし、発言の権利も持っています。だからちっとも悪いことじゃないんですが、僕は恐れながら、すごい「野暮だ傾向だな」と思ってしまうんです。
それには重要な理由があるからなんですが、前に、ローラさんが辺野古基地移設反対という立場でインスタかツィートだかをして、ちょっと論議になったことがあったですよね。
で、テレビでは古市憲寿さんあたりが、「アメリカではセレブが政治的発信をするのはあたりまえ、日本は50年遅れている」みたいなこと言ってましたが、その考えがそもそも100年以上遅れている。
「欧米がこうだから日本が遅れている」なんて安直な考えは、江戸時代や明治で終わらせとくべきですよ。

なにより僕から言わせれば、アメリカの例はダメな例なんですよ。直近でもっとも分かりやすい例が、トランプ大統領が当選した大統領選ですよね。今はSNSがこれでもかと発達し、それを使った大統領選に向けての様々な動きがありました。サミュエル・L・ジャクソンや、ジョージ・クルーニーなど、セレブがわんさと、ああでもないこうでもないと発言しました。ほとんどが反トランプでしたが。

で、アメリカはどうなりましたか。

真っ二つですよ。精神的内戦と言ってもいい。国民の両派が憎しみ合うとこまできちゃった。学生がトランプ大統領支持の帽子をかぶってただけで棒で殴られたとか、もうそんな感じ。

人気ラッパーが「オレはトランプ支持だぜ YO!」って言うと、ファンは「ああそうか、じゃあ」ってなっちゃう。

辺野古基地移設なんてのはもう、あれは10年くらいかけてこぎつけたものを、翁長知事がちゃぶ台ひっくりかえしたわけで、単純な話じゃないんです。でも、ローラさんが反対すると、「そうなんだ! じゃ私も!」って人も出てきちゃう。


政治的発言そのものが悪いとは思ってません。ただ、意見が分かれている政治的問題に対して、どちらかに与するようなセレブやインフルエンサーの発言や行動は、慎重さが必要だと思うんです。

こういうのが容認されすぎると、テレビ局や企業が、自分に有利な国政に誘導しやすくなってしまう。いや、すでにそういう兆しが昔からあるんですがね。
ある一定の政治的発言をしてくれる芸能人などを広告塔に起用したり、テレビ出演などで露出を増やすことによって、政治的誘導にテコ入れができてしまう。

だから、インフルエンサーの政治に関する発言は、警戒しなければ、とも僕は思います。


「野暮」というのは、たとえば銀座のホステスさんの間で、「お客さんと「野球・政治」の話は野暮だからするな」というのがあると聞いたことがあるんですが、野球は人それぞれファンのチームが違う。そもそも興味すらない人かも知れない。政治もそう。だから「野暮」なわけです。
こういう暗黙のルールというか、不文律的なものを守るってのは、日本人は昔からは得意なんですが、僕はこの「芸能人の政治的発言」も「野暮」だと思えないとまずいと思いますよ。逆に「今風」「先進的」みたいに思っちゃうでしょう?

国政は、民主主義的に、選挙で決着つけるべきです。
そしてそのためのSNSでの政治的議論はいいと思いますが、政治的扇動やそれにつながる動きは警戒すべきです。


ただ、こういう僕のような発言をすると、「権利の侵害だ」とか思う人がいる。「発言する権利」が誰にでもあるわけですから、わかります。

最近、「自由」、「人権」、とかね。結構騒がれるでしょ。愛知の「表現の不自由展」だっけ?とかの問題とかね。


でもね、「自由」とか「権利」とかをですね、安易に主張する人たちには僕、警戒します。

「自由」、「権利」というのはですね、その裏に必ず「義務と責任」というものがあるんです。それに裏打ちされていない「自由」だの「権利」だのってのは認められないと僕は思うんです。
最近はその「義務や責任」は後回しで、自由や権利を声高に求める人達が多すぎます。愛知の自由展の表現者たちの、出展者としての義務や責任の所在はどこにあるか。それが彼らにはわかっていない。

「Liberty」と「Freedom」は違うわけです。

posted by ORICHALCON at 21:47 | TrackBack(0) | なんとなく

2020年03月22日

新型コロナで最近思うこと

数年ぶりのエントリなので、もう誰も見ていないと思うのですけど、ここのところ新型コロナウイルス(2019-nCoV)についての情報錯誤や、デマのようなものが飛び交っていて、ちょっと書く気になりました。

ぶっちゃけ、僕個人はあまりこの問題に興味がなかったんですね・・・そもそも出歩く仕事じゃないので、あまり脅威ではないし、普段から不摂生なので、今さら「どうしよう」だなんて気にもならなくって。

でも、ちょっとネットにつなぐだけでこの話題にぶつかる。行きつけの飲み屋でもこの話題になるし、果ては客同士が大議論になってしまい、従業員を巻き込んで衝突レベルの言い合いになってたりする。
僕はこういう場合、議論を傍目から見て参加せず、岡目八目を決めてかかるようにしている。そんで、後出しじゃんけんで、まとめ的意見を言って、いいとこどりをするようにしている(笑)

面白いのは、「明らかに間違ってるよな」という情報がその議論で飛び交っていることです。これはもうちょっと立ってわかったことですが、とんちんかんな事を言っている人ほど、その情報源がテレビで、だいぶ冷静に見れている人ほど、ネットで情報を集めている人が多い。
ところが、そのネットも完璧ではなく、その特質としてデマや誤情報が発生しやすい。不特定多数が発信できるインフラということと、そのため、責任の所在が曖昧になりがちなため、そのリスクはテレビの比ではないわけで。

しかし、ネットの利点は、「自浄能力」をある程度持っているということ。情報は精査され(それは大抵がゆるやかだが)、デマや誤情報は反証などによって攻撃される。テレビの誤情報や偏向報道、やらせなどは、ネットから指摘されて謝罪する、なんてこともよく起きます。

さておき、この新型コロナの問題について、逐一わあわあ言ってる人ほど、暇な人が多い。ここでこんなエントリを書いている僕もその一人なんだと思う。


とにかく先日、未だにテレビの情報に踊らされている知人と話したので、ちょっと僕なりの新型コロナについての現時点での意見をシェアさせてもらおうかとな思いまして。

「新型コロナ」の「新型」とは、「発見されたばかり」という意味で、そしてそれは、簡単に言えば「陰陽性の判断が難しく、ワクチンがまだない」ということ。
新型コロナの問題点は、この一点のみなので、それに対処すればいいだけのことだと思うんですね。

これまでの人類が経験したパンデミックからの教訓によれば、大事なのは、

1. 水際で止める (外国等からの持ち込みを止める)
2. 手洗いなどの衛生習慣の強化
3. 人の動きを抑制する。(出来るかぎり移動しない・集まらない)
4. やたら検査しない

1.は、もうすでに失敗しているので、もうこれはしょうがない。ほんとなら12月か少なくとも1月の時点で検討しておくべきだったですよね。情報はあったんだし、五輪控えてるんだから。
高須クリニックの高須院長が音頭を取って、こういった措置をすべきという署名を集め、厚労省に提出したが、受け取ってもらえなかったようですね。厚労省からすれば、対面的にも受け取りづらいのはわかります。また、高須院長は政治的には保守派で、とんがっている人でもあるので、この人が中心ってのもまずかったのかもですね(笑)
でも、院長はそんなに間違ってはいなかった、ということになる。だって、後になって結局やってるじゃないですか(笑) 後手後手なのですけれどもね。春節の動きを止めるべきだった。

初期の頃に、空港封鎖なんて英断は厚労省や政府にはまあ、無理でしょう。国内外からの批判もすごいことになってたでしょう。それに耐えられるほどの肝はないですよ、さすがに。
経済的損失ももちろん大きい。でも、結局はより経済的損失が大きくなってしまった。早めに水際作戦をやっていたら、自粛や休校など、これほどの社会麻痺を起こさなくて済んだかもしれないですよね。

2.は、日本は世界的に見ても普段からかなりやってる方なので、これがかなり効いてるみたいですね。

14世紀ごろに大流行したペスト、いわゆる黒死病は、結果的に1億人くらい死んじゃった。ただこの時、ユダヤ教徒の感染率が異常に低かったため、「ユダヤが井戸に毒入れた」とかデマが出て、ユダヤ人への迫害が起きています。これは諸説ありますが、要は、ユダヤ教とそのミツワー(教え)にある「食事の前や、トイレのあとの手洗い」が大きかったんじゃないかって話。また、ワルシャワの方では、蒸留酒で体を清めたり(要は消毒)する習慣があった。
うん、これは大きいね。
日本も神道において、神社の手水という習慣もある。なにより保育園や義務教育において、手洗いを習ったりするのはやっぱりいいことなんだね。

あとは、マスクの普及。日本は外国から見れば、平時でもパンデミックみたいに映るかもしれないほど、みんなよくマスクしてる。
日本はもう、なんでも抗菌、抗菌で、歯ブラシの柄からスマホケースに至るまでそんな製品が出てる。あまり抗菌しすぎるといざというときの抗体が弱まるから、やりすぎもどうだろって思ってんだけども、まあ、衛生観念という意味では、悪くはないのかな・・・。

3. は、まあ、政府の要請などでそういう動きはありますが、これに対してどれだけ皆が協力できるか、というのが肝心。ここであまり反発しているようだと、国のあり方としてはだめですよね。ただこういうのを成功するには、きちんと国が各々の経済損失や被害を補填しないとあれですね。そういう動きが出てるようですけれども。
テレビやマスコミ、また一部の反権力的な人は、政府がなにか言ったりやったりするだけですぐ反発したりするけど、それはちょっとなと。こういう時に国として判断するべき組織を民主主義で選出してるんですから。それの言うこときかないでどうするのってことです。普段からそういう意識が足りないから、選挙の投票率も上がらんし、政府の質も上がらないんです。国民、いわゆる有権者が「やれ」って言ってやらせてるんですから、自分らが先に責任感持たなきゃ。そうでしょう。そこからの政府や行政への批判ならわかりますがね。そうとは思えないものも多い。
とにかく、一連の自粛要請や休校などは、医師会から要請を受けて、政府が出してるものですから、もうちょっという事聞こうよとは思うんですが・・・。


さて、4. ですが、これは特に今回において出てきた問題ですね。

堀江貴文さんだかが、「ちょっとみんなコロナで騒ぎすぎ」みたいなことを言ってるようで、僕もちょっと同意なんですね。3.に述べた意見とちょっと矛盾して恐縮なんですが・・・

とにかく検査に関しては、このまま「積極的にやらない」でいいと思うんです。

「日本は検査をしていない。感染状況を把握しようとしない(もしくは隠蔽しようとしている)」といった意見まで出ています。感染症の専門医は皆、「検査は必要ない」と言っているのにもかかわらずです。

特にテレビがひどいようで、上昌宏さんていう医師が特に、「検査しろ。韓国はあんなにやってる」みたいなこと言っちゃってるんですよね。この人感染症専門医でもない上に、現役臨床医でもない。

新型コロナの問題は、確実な検査方法がない上にワクチンがない。PCR検査の精度は50%前後で、これは「丁か半か」って言ってるようなもん。これから徐々に精度は上がっていくかもですが、つまり、偽陽性や偽陰性が出る。こんなもん、無闇にやっちゃだめですよ。そうでしょう。現場はそれがわかってるから「やるべき」なんて言わない。
仮に検査して、陽性だったとしても、処置のしようがありません。ワクチンないんですから。症状が出てないならなおさらで、「帰って安静にしていてください。出歩かないでください」ってやるしかない。検査の意味ありますかこれでも。だから国も行政も「検査はしません」ってなります。
「検査で陽性とわかれば隔離できるじゃないか」って? できませんよ。隔離しきれないことを韓国やイタリアが証明しているでしょう。

つまり、「感染状況」の把握なんてそれほど重要じゃないんじゃないかな。「○○人感染してます」ってなっても、それが百や千単位だとなるともう、アウト。隔離すら簡単じゃない。そんな場所、そうそうないのが現実なんですから。だから、3. を実施するしかない。

韓国は、それこそ「国民みんな検査する」レベルなとんでもないことやっちゃって、結局死者増やしてしまった。検査してるとこほど死者が出るという・・・

これは、インフルエンザに置き換えてみるとわかりやすくなります。

新型コロナとインフルエンザは、死亡率なども含め、脅威としてはあまり大差はないと僕は思ってます。違いは、新型は決定打的なワクチンがない、ということ。だからパニックになってる。
インフルエンザは型が3つありますが、どれもワクチンがあります。だけども、世界で毎年30万程度の死者を出しているんです。
毎年のように、「インフルエンザ流行注意」の貼り紙を見たりしませんか。特に僕ら芝居に関わったりする人間は稽古とかで行政施設を使うことも多いので、よくトイレとかにそういう貼り紙や、あわせて手洗い推奨の貼り紙をセットで目にします。

だけど、「インフルエンザの陽性検査すべきだ」なんて聞いたことないでしょう。症状もない人が病院に行って、予防接種ならまだしも、「とにかく検査してくれ」なんて言ったら、医師も「うーん・・・」でしょう。ましてや、流行の度にそんな人が大勢押しかけたら、大変なことになります。医療麻痺ですよ。そもそも医療現場は感染症だけやってるわけじゃないんですから。

それが起きて、医療崩壊に至ったのが韓国です。だから症状が出ている人への処置が疎かになって、死者が出る。もっといえば、人が押しかけたために、医療現場そのものが感染の温床になってしまうという最悪の事態。ただでさえ宗教法人が拡大させてしまった背景がありますから、とんだヘマをしたと言っていい。つまり、パニックになって溺れてしまった。
まさに武漢の初期状態。病院の診察を待つ長蛇の列に並んでる間に亡くなってしまった、なんて話もある。
そして、イタリアもそうなってしまっている。感染者数と死者数がぐんぐん上がっているのを毎日ニュースで見ますね。それは「検査しちゃってます」ということです。つまり、医療機関に人が押し寄せているということ。なぜ、検査数と死者数が比例していることに気づかないのか。先述の上昌宏氏は、イタリアを見習えと言っていたようですが・・・

何度でもいいますが、「陽性」とわかっても、ほとんど様子を見るくらいしかない。それは最初からわかってることでしょう。症状が出て、はじめて医療が必要になる。そのときのために、医療現場のリソースとベッドを確保しておくべきなんです。


ダイヤモンド・プリンセスの乗客の下船をさせなかった日本は、ずいぶん内外から叩かれました。
でも、正解だったことが次第に明らかになってきている。いや、正解というよりも、それしかなかった。検査そのものが不明瞭なんですから。そもそも4000人なんてどこに収容したり隔離するんですか。おそらく隔離なしで下船したらしたで、後にやっぱり批判されたでしょう。

アメリカもグランド・プリンセスをはじめ、リーガル・プリンセスなど、複数のクルーズ船を抱えることになってしまった。同じクルーズ会社という。結局アメリカさえもすぐに下船させることはできず(当初は着岸すら拒否していた)、沖に停泊させるはめに。なんとかのちに下船させましたが、軍施設を押さえるなど、相当苦労したようですね。

武漢の中国政府の隠蔽も含めた対応といい、その中国と癒着しているWHOの無能さといい、そして日本をはじめとする世界各国の初動失敗といい、SARSからなにも学んでいない的な、封じ込め失敗状況は明らかですから、「一定数の感染」はもうあって当たり前。乱暴な話、誰もが全員感染してると考えるくらいがちょうどいいとさえ僕は思います。そしてそれらがたとえ検査で明るみになったとして、だからなんなんだとも思います。

だからといって、感染拡大阻止をないがしろにしていいわけでもなく、だから今は 2. と 3. と4. をある程度守っていくことが大事なんだと思うわけです。

ともかく、情報に踊らされて、パニックになるのが一番大敵ですよね。

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2012年07月25日

死刑制度の難しさ

おはようございます。
最近起きるの早いです。


昨夜、Yahooにアクセスしてみたら、なにかある事件の上告審判決で、死刑確定という記事に目が止まった。
その記事を見てみると、さらにその下に関連記事としてやはり死刑確定判決の記事のトピックが並ぶ。結構あるもんなんだなあと。

で、ビートたけしさんがちょうどこんなことを発言したらしい。


記事 : ビートたけし無差別殺傷事件を語る 死刑=最高刑はもう古い


死刑制度は今も昔も、議論の対象だ。難しいねえこれ。
なんで難しいかっていうと、賛成派も反対派も、どっちの言い分もそれぞれいちいち正しいからなんですけどねw

たけしさんが言うように、「死にたいから(死刑にしてもらいたいから)無差別殺人を犯す」なんてのも出てきちゃった。

こういうのも、死刑制度反対派にとって重要なファクターになるでしょう。



僕は死刑制度についてどういう立場でいるかというと、非常にずるくて、「司法にただ従う」というものです。制度に従うわけです。

それはつまり、国家がそう定めているのであれば、「支持する」という立場です。ましてや、昨日今日定められたものじゃありませんし。

もし司法が死刑制度を廃止したならば、その意志に従います。

ですから、現在のところ、死刑制度に対して反対でもなんでもありません。



しかし、廃止すべきである、反対すべきであるという立場の人たちからはこれでも、ずいぶん叩かれます。
まあ、結果的に支持しているのと変わらないからですが。



で、そこで僕がそういう人達になにか言われたら、こういうスタンスをとっています。理解されるとはかぎらないのですがね。



僕にとって、刑法(司法)というのは、適用・執行される以前に、定められた瞬間からその国家の意志・姿勢の宣言でもあるということで、死刑については、「人権に対するその国家の姿勢」の在り方の象徴でもあると認識している。

宗教が政治に影響を与えている国などでは、戒律を破ることじたいが犯罪であったりし、麻薬持ってたり不倫しただけで翌日死刑、なんてのもある。
そしてそういう倫理観は、国によっていろいろと異なる。

日本では、死刑が適用される犯罪は、外患誘致など特殊なものをのぞけば、それは「確定的殺意の伴った殺人(特に複数殺人)」とされている。

ということで、司法は「確定的殺意による殺人」は「最もたる人権の剥奪行為」と見なしている、と僕は認識する。


「確定的殺意による殺人」というのは、「カッとなって刺し殺しちゃった(未必の殺意)」とかではなく、事前に包丁用意してアリバイ作りまでして殺しに行くとか、さらには死体を埋めるためにビニールシートにスコップまで用意してるとか、強盗に入って顔見られたから殺すとか、もしくは殺す前提で強盗に入るとか、果てはゴルゴ13みたいな職業的殺人もそうだ。そして被害者が複数という・・・。

こういうのは「マジありえない」としているのが日本の刑法なわけでしょう。

そこで、その「最もたる人権の剥奪行為」に対しては、「その行為者のいかなる人権も一切認めない」という姿勢になっているわけで、その現れが単に、「死刑」(一切の人権を剥奪することによって処断する)になっているというだけのこと。

つまり、単に日本国家は「確定的殺意を伴った殺人」、これを一切認めないという、強い否定を表している国家であるということであり、国民の生命と人権を守ることに対する考え方が事前にここに提示されている。
それはどの国もそうだと思うが、それを司法上でどのように定めるかによって体現されているか、というだけの問題。


しかし死刑そのものが殺人であり、最悪の人権侵害ではないか、という話にもなるのだけど、「いかなる人権も一切認めず、一切の剥奪をもって処断とする」ことがつまり「死」(生存権という根源的人権を剥奪すること)であるという認識であるかぎり、やはり「確定的殺意の殺人は最もたる人権剥奪行為と見なす」ということにもつながるわけで、矛盾がない。輪になっている。

ある意味、フェアすぎるとも言える。まさに弁護士のバッジに描かれている天秤状態です。

このドライとも呼べる、静かなほどに均整のとれたバランスの姿に、人権剥奪行為に対する日本国家の強固な姿勢を見るのは僕だけなんでしょうか。
僕だけ? あ、そうか。


まあ、さておき、たとえば、すでにヨーロッパをはじめ、世界各国は死刑制度廃止が進んでおり、死刑制度が残っている国の方が少ないという話も出てきたり、また、人権が軽んじられる傾向のある国ほど死刑執行が盛ん(中国など)という認識などから、日本は遅れている、みたいな展開にまでなる。

しかし「遅れている」「進んでる」などという、そういうくくりで死刑制度を考えるのは甘いのではと。人間の次に頭のいい動物であるイルカを食べるべきではないということに行き着いている倫理観は、より進んでいる、というようなレベルに感じます。
それにいくらなんでも日本で、役所の金を使い込んだだけで死刑になるということも絶対にない。

何度も言うように、単に、犯罪者以前に、国民の生命と人権を守ることに強い宣言がなされているにすぎないわけでして。だから、死刑が執行されること(犯罪者を殺すこと)を前提としているわけでもなく、むしろ、それが起こるそもそもの行いをこれ以上ないかたちで強く否定している。(ま、これは言いすぎかもね?)
しかし反対派というのは、この犯罪者が殺されることが先にきちゃっているわけで、そういう意味では、この僕の考えとは咬み合わないだろう。

「だって実際に人間(受刑者)が殺されるという殺人が国家の名の下に行われてるわけです。これは許されません」ということなのですが、これがどんなに許されない行為かということがもう、すでに宣言されている上でのことだから、僕としては仕方のない事です。


まあ、とにかく、そういうわけで、司法(国家)が現在、そのような姿勢であるのなら、それはそれで支持するというのが僕のスタンスなのであります。

たとえば、もし外国人から「なぜ日本はまだ死刑制度など残っているのか」と聞かれたら、単純に言えば「日本国家は意図的による生存権剥奪行為、これを事前に一切認めないと強く定めているだけです」と答えることになります。

「しかし、死刑を廃止したところで、その生存権剥奪行為への拒否が緩まるというわけではない」という言い分もあるでしょう。そのとおりです。

もしこれが、「生存権剥奪は許されない行為であり、これに対ししかるべき処断はあっても、国家がいかなる理由にせよ、一個人の生存権までを奪うことは一切これを許させない」という認識へと国家が変われば、これこそ死刑廃止ということになります。

こうなったら、それはそれで素晴らしいんじゃないんでしょうか!



ただ、刑法は、本来は犯罪の抑制や防止を主な意図として定められているわけではないので、よく聞く「死刑制度が凶悪殺人の抑止にはつながらない」という批判には同意できないのです。それはよくても江戸時代にやるレベルの議論であり、刑罰の度合いによって犯罪を抑制できるできないといった議論自体が、それこそ「遅れてる」んじゃないんでしょうか。

たけしさんのコラムは(まあ、これは一部抜粋のようですが)、死刑じゃもう手ぬるいという話にも取れるわけですが、「ならどういう罰を与えるべきか」という次元になってしまってるわけで、いわば「犯罪者に対する取り扱い」の話です。
僕が話しているのは、「人権侵害に対する国家の倫理観」の話です。
そして、日本の姿勢は大変厳しいということ。厳しいどころか、完全否定です。

それによって定められている刑法にのっとって、判決が下ったのであれば、それは執行されなければならないとも思います。


さて、ではたけしさんのコラムにある、「死刑になることを求めて人を殺す」という問題。

これを見誤ってはいけないのは、死刑制度が犯罪を起こさせたわけではなく、死刑制度が単に利用されたにすぎません。
「でも、その利用される死刑制度にも問題があるでしょう」という意見も出てくるわけですが、本当の問題は年間3万人にものぼる自殺志願者が発生していることです。「死刑制度が利用されるという異常事態」にもっと目を向けなければ、いつまでたってもらちがあきません。
この自殺者急増について、「これじゃあ、また宅間守みたいの出てくるよ」とたけしさんは警鐘を鳴らしてて、実際に心斎橋事件が起きて「それみたことか」になっちゃった。

「だったら死刑制度を廃止しよう」と廃止論再燃とか、たけしさんのように「殺さずに生き地獄にしたらいいのかも」というのでは、問題解決になっていません。


自殺志願者については、死刑制度に負けないくらい難しい問題ですし、特に欝のように「意味もなく死にたくなる」などというレベルになると、我々もお手上げです。

しかし、手を上げていてもしょうがないので、いろいろと目を向けてみて思うのは、多くの自殺志願者に横たわる共通の特徴に、「価値観の崩壊・低下」が見られます。


日本人は、「共通の価値観」についてはとても強固な民族で、ひっくりかえして言えば「価値観の共有」が得意なわけです。東北大震災に襲われた中でも、配給や公衆電話に規律よく並ぶ姿などは、世界中がびっくりしました。この時みんなが好き勝手やってしまったとしたら、それは「個」の価値観の主張の衝突ということになります。
そういうことにならず、「空気を読む」とか、「協調性」を保つとか、これらはどんなところにどんな価値観を共有しあえるかが鍵となります。

しかし、保たれている全体性の価値観とは違う、「個」の価値観は、どうでしょうか。それらが崩壊、もしくは、低下、または行きどころを失っている時代なのかも知れません。


女子高生が自ら援助交際に走る、なんてのはこれ、なかなか今もなくならないそうですが、これは典型的な価値観の崩壊、低下です。
昔は売春なんてのは食うに困ってだったのが、現代はお小遣い欲しさで、果ては「エッチできてお金ももらえてラッキー」とまで言わせます。

これはどこに価値が置かれているかという、価値観の視点の変移の問題であって、しかもこれの怖いところは「個人的存在」による価値観ではなく、先に述べた「共有的価値観」というレベルで拡大していることです。要は「あのコもこのコもやっているし」的な共有性で、つまり、「個人的価値観」が鍛えられておらず、育成されていないがゆえ、共有的価値観に頼って支えられ、確立され、侵食されているということ。
いじめ行為の問題点は、崩壊、もしくは低下したと言える価値観が、共有によって支えられているというのもひとつです。

「自分に対する価値観」、「人間に対する価値観」、「生きることに対する価値観」、「命に対する価値観」、「人生に対する価値観」、「愛に対する価値観」、「家族に対する価値観」、「人間関係に対する価値観」、「仕事に対する価値観」、「世界に対する価値観」・・・・ありとあらゆるものがあるわけですが、これらが崩壊、低下することが、人間に起きる問題の根源的原因です。
「何に価値を見出すか」ということが、人間の心の豊かさにつながるというのは、ここで僕が力説しなくても誰でもわかることです。

僕は、教育の真髄とは、この価値観を問いただし、見つけ出させていくということだと考えています。
自分で見つけた価値観はその人間のものであり、それが個人的存在の価値観となって、その人間を支えていきます。教育とは、人間にどういう価値観を掴み取らせるかという勝負の世界であり、教師と生徒の関係というのは、一個人の価値観と、価値観を模索している人間とのぶつかりあいであり、どんな化学変化を起こせるか?という領域です。

人間の営みというのは、価値観の宣言とさえ言っていいでしょう。

個々の人間の価値観が育成されない、または確立されない、もしくは崩壊や低下を招くならば、それは自殺者も増えていくでしょう。自殺は価値観消失による最悪たる結果です。何にも価値が見いだせてないようなものですから。



まあ、僕もこんなところでこんなことを書いていたって、なにも解決はしないのですがね。


死刑制度の論議についても、結局は価値観の相違による議論です。ですから、こんなに難しい問題もありませんよね。






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2011年05月09日

アメリカのビン・ラディン襲撃は正しかったか

そもそも、軍事作戦に「正しい」も「正しくない」もなく、ある視点からは正しく、ある視点からは正しくないものだったりしますが、今回の作戦は、「いきなり殺しちゃった」という点で物議をかもしています。

ハナから「殺害するため」の作戦であり、拘束とか逮捕などは考えてなかったという点で、「それはいかがなものか」と、民主党の福島瑞穂議員も「裁判にかけるべきであった。事実を世界中が知りたがっていたはずだ」というような旨の発言をしてたりする。

この「事実」というのは、もしかしたらあの「9・11」の真相うんぬんにまで及ぶ話なのかも知れない。
ご存知の人もいるかと思いますが、あの事件にはいろいろと疑惑があって、中にはアメリカの自作自演による「イラク進攻の理由づくり」みたいなのまである。
この「9・11」の疑惑材料までからめていたら話が終わらないので、少なくともここではアメリカ政府の「ビン・ラディン主導によるテロである」という見解を支持したとして、話をすすめよう。実はビン・ラディンはシロで、アメリカは彼を利用して、口封じに斬り捨て御免したんだ、なんて話まで混ぜてるともう、収拾がつかんからな・・・・その点、ご了承いただきたい。


まず結論からいうと、アメリカのやり方は正しい。正しい、というのも変だが、言い換えれば「当然」ということ。


アメリカがビン・ラディンをとっつかまえて裁判にかけるつもりなど微塵もなかったとしたら、それは当たり前の話で、これは「テロ」というもののメカニズムと、「対テロ戦争」というものがどういうものかを理解していれば、ある程度納得出来るものだ。

テロをいわば国際的な刑事事件・犯罪ととらえるか、戦争ととらえるか、という問題の場合、これは「戦争」として扱うのが理想といえる。
「戦争とは大げさな」という人もいるかも知れないけど、テロ行為を犯罪、テロリストを犯罪者として扱うことは、テロリストの思うつぼなのだ。彼らに裁判を受ける権利を与える時点で、半分負けているに等しく、テロによる犠牲者も減らせない。

だからアメリカはビン・ラディンに対してはすべて軍事行動であって、つまりこの事象の取り扱いを「戦争」と定義付けようと必死だったわけだ。

テロリストというと、AK-47や手榴弾を手に、無精ひげと汗にまみれて、なにかひとつの思想に凝り固まって、なにかとあればすぐ自爆し、ネズミのように必死に這い回っているかのような印象を持ってる人もいるかも知れないが、テロリストの、特に幹部や指導者というものは(時としては実行犯でさえも)過去の歴代の人物を並べてみると、ほとんどが高学歴で、エリート層、さらには裕福層の人間であることがわかる。

僕らが想像する以上にテロリストは頭が良く、教養深く、さまざまな知識を持っていて、コネもカリスマもあるような人物が中心となっており、その頭脳は恐ろしく狡猾で、非情だ。
そもそもテロ行為は法律(国際法も含む)逆手に取るところから設計がはじまっている。

だから「裁判にかけるべきだ」というのは、むしろテロリストの肩代わりに発言してあげているにすぎなくなってしまう。

戦争という扱いになると、逆にテロリストたちは困ってしまう。ハーグ陸戦条約が適用されるからだ。

これはなにかというと、「戦争のためのルール」で、おかしな話、世界中で行われている紛争・戦争は、このルールにのっとって行われている。そして、このハーグ陸戦条約にあてはめると、テロリストの行為はすべて「違法」ということになり、こうなると彼らの権利は失われる。つまり、彼らは裁判を受ける権利などはないということになる。

対テロ戦は、こういうところからも展開されることを知っておく必要がある。


テロの厄介なところは、その破壊・殺戮行為は時として戦争並であるのに対し、まったくルールがないということだ。犯罪的なのだから当たり前とも言えるが、このルール無用は僕らの想像を絶する。まずわかりやすいのが、平気で嘘をつくというのがある。

過去の歴史を振り返っても、テロリストの発言のほとんどは嘘ばかりで、それこそ嘘しか言っていない場面さえある。テロとはそもそも、プロバカンダの手法であるということからして、彼らの発言がいつも正しいわけではないのはわかるだろう。

もちろん、アメリカ政府なども本当のことばかり言うわけではないし、隠蔽も、嘘による工作もする。
だからアメリカ政府に対して疑念を持つ人、または後に暴かれた隠蔽行為などを非難する人もいる。

しかし、テロリストに対してはどうだろう? 意外と疑念を持つ発言や考えはあまり聞かれない。

「我々は被害者だ。アメリカは我が地の女・子どもを無作為に殺害した」などと言うと、「ああアメリカそういうことしたのか」と思っちゃったりする。
テロリストはたしかに問題だが、彼らは思想や権利を守るために犯罪者となってしまったのであり、言いたいこともあるだろう・・・というような視点で見てしまったりという人もいるだろう。下手すると、宗教的思想者というレッテルから、そういうことにかぎっては「とんでもない嘘は言わない」とさえ漠然と思ってる人もいるかも知れない。

しかし残念ながら、ないことをあったかのように当然と言う、というのがテロの常套行為で、彼らの発言はまず、信じてはいけない。
「女・子どもを殺した」といった内容も、実際は彼らが女・子どもを利用したがために犠牲になっているケースも多い。(彼らにハーグ陸戦条約はないに等しい)


もちろん、アメリカが間違って爆撃しちゃって殺しちゃったなんてのもたしかに存在するだろう。
しかしテロリストはそういうのをむしろ待ち望んでいるようなアタマをしているということを忘れてはいけない。自国民の少年を人間爆弾に仕立て上げることのできるアタマであるということを忘れてはいけない。
テロリストが、自己以外の味方になったことなどなく、自己以外のなにかのために戦ったり死んだりした例もない。


テロとの戦いが泥沼に陥る原因として、テロリスト側が圧倒的に有利な立場にある、というのがある。

テロリストが弱者ゆえの反抗のように思っている人は、考えを改めた方がいい。それは彼らの演出にうまくのっけられてるにすぎない。


まずテロは、投下する資金・人的資源・時間の割に、あまりにも効率がよく、ちょっとした作戦で大きな効果が得られるというのがある。
戦争という定義にのっとったものであれば、相手国の軍隊と戦わなければならないので、こっちも正規軍である必要があり、そのための資金と人員は相当なものなる。また、先の条約にも縛られるし、下手すると一国相手ではなく、連合軍が相手になる可能性だってなくはない。

しかし転じてテロ作戦となると、数万円分のC4爆弾と、一人の英雄がいればいいわけで、それを町の広場でドカンとやって数百人殺せば、成功である。

彼らにとって、一人の盲信的な兵隊を作るのは簡単なことである。これは映画「シリアナ」などにも描かれているが、実に悲惨なやり方だ。

数百人の民間人を殺してなにが成功かというと、テロは物理的破壊戦ではなく、心理戦だということで、自爆もいとわない戦士が敵にはおり、宣戦布告もなしに不意にいつどこで誰がやられるかもわからない、という恐怖を相手に植えつけるという、実に効率のいいやり方をしているわけだ。

9・11も、3000人近い犠牲者を出しながらも、テロリスト側の損失は逮捕者も含めて12、3人。

9・11は世界中でこれでもかというくらい報道されたが、テロは少ないエネルギー効率で、絶大な宣伝力を持つのも大きな特徴だ。

一機の旅客機や大使館を、数個の武器と数人とで乗っ取れば、それが乗っ取られている数十時間、もしくは数日間は、彼らを主役にした報道が繰り返しされる。彼らはタダで、世界中のメディアをつかって自分の思想や主義主張を宣伝でき、いろいろな要求も可能だ。そしてなによりもその時間の間、ずっと敵の顔に泥を塗ることができる。

頃合いを見て降伏すればいいと考えていたならば、これほど頭の良いやり方はない。これがテロなわけだ。
それで逮捕されたとしても、彼らは味方からは英雄扱いとなるわけで(これは死んでもそうだが)、裁判時にまた法廷で宣伝行為ができる。

最悪は、またその英雄を解放させるためにまたテロが起きたりすることだ。


対テロ戦の鍵は、「テロ行為は非効率である」という状態にもっていく、まずはこれに尽きる。テロがなくならないのは、「効率が良い」からなのだということを、僕らは知っておかなければならない。

心理戦、法規戦ということを考えると、彼らをただの犯罪者とするのではなく、交戦権失効(捕虜・裁判としての権利なし)の敵として扱い、彼らの主義主張の喧伝の助長になってしまう行為も極力控える、ということになる。


そう考えると、今回のアメリカのビン・ラディン殺害作戦は、「対テロ戦としてあたりまえ」のことをやっているにすぎないということがわかっていただけるだろうか。


しかし、これでまた報復という名のテロが繰り返されるのではないか、という懸念もあって、「それでは泥仕合じゃないか」と誰もが思うだろう。

もしあなたがそう思うなら、すでにテロリストの勝ちということになる。もし世界中がそういう気持ちに支配されたなら、テロリストたちのこれまでの行為がすべて、ただ、報われるだけだ。テロとは、そういうものだ。


そもそも、テロを招くような政治的行為をしているアメリカにも非があるという声もあるだろう。


だけど、テロはテロであり、そこにはどんな言い分も認められない。


それでももし、今回のビン・ラディン殺害などに対し、人道的、もしくは政治的などのあらゆるどんな視点にせよ反感を感じているのであれば、それは僕から言わせれば、家族や知人がテロの犠牲になった立場に置かれていない、という幸せをただ噛み締めているにすぎないに等しい。









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