2012年07月28日
APPLESEED
APPLESEED
監督 : 荒牧伸志
声の出演 : 小林 愛 小杉十郎太 松岡由貴 小山茉美
Huluに登場したので鑑賞。
未見と思っていたら、公開時に観ていたことを思い出す(>_<)
しかし内容の記憶があまりなかったため、まったく新鮮に楽しめた。
普段、あまりこの手のものは観に行く頻度がないのだけど、公開時にわざわざ観に行ったのは友だちが「出演」していたからだ。
トゥーンシェイドを使用したCGアニメ作品。トゥーンシェイドとは、コンピュータグラフィックのレンダリング出力において、アニメ調に描画してみせる技術。トゥーンシェイドは人物のみに使用されているが、これによってリアルな人間というよりも、セル画のアニメッぽいタッチになる。
で、友だちが「出演」というのは、アクション女優の秋本つばさちゃんのことで、彼女が主人公のデュナンのモーションキャプチャーをしている。モーションキャプチャーといっても、アクティングパートとアクションパートにわかれていて、つばさちゃんはアクションパートを演じている。
そういう意味では、「主演の一人」といってもよい。
大規模な世界大戦の傷跡の残る未来。クローン人間バイオロイドによって支配されるユートピア都市オリンボスでは、そのバイオロイドの粛清と排除を望む組織が動き出していた。女性戦闘員デュナンは、サイボーグ化したかつての恋人ブリアレオスとともに、このバイオロイドと人間、そして地球の運命をも巡る戦いへと巻き込まれていく。
さっそく冒頭の戦闘シーンから、つばさちゃんの十八番、「側宙」が見られるw これは間違いなく彼女のものだあ。
これは実物を見るともっと圧巻なんだが、さらにこの動きは、古くはそのままコナミの格闘ゲーム「鉄拳シリーズ」の風間準の技にもキャプチャされたという経歴もある。
しかし、デュナンが飛んだり跳ねたりするたびに、「お〜、つばさちゃん・・・」といった目で観てしまうものです。元気かなあ。
基本的に楽しんで観たのだが、惜しい点もいくつかある。もちろん、いい点もある。
戦闘能力が異常に高い女性を主役にもってきてはいるが、単純な勧善懲悪的アクションなどにはなっておらず、デュナンが人を殺す直接的表現は一度きりである。劇中において「明らかな悪」として描かれる者はほぼ存在せず、それぞれの思想や理想の違いによる衝突が軸であり、哲学的に言えばデュナンは人類の葛藤そのものと戦う物語となっている。によって、流血も小規模だし、クライマックスにデュナンが挑む戦いは、人間が自ら作った兵器の暴走を止める、という具合だ。
公開当時のキャッチコピーは、「母になりたい。」
これはとてもよく覚えていた。
都市のいわば元老院にあたるような者たちが、人間への失望から、地球をクローン人間であるバイオロイドに託そうとする。バイオロイドはもともと生殖機能が省かれていたのだが、それを復活させ、逆にウィルスによって人間側の生殖機能を破壊しようとする。これによって人類側はいずれ「緩やかに絶滅」するわけで、これを元老院側は「人類の安楽死」と表現する。
元老院側は、多脚砲台という都市防衛兵器を暴走させ、ウィルスの保管されている都市中心部を破壊させることによってウィルスの拡散を目論む。デュナンのラストの戦いは、いわばこのウィルスタンクの破裂を食い止めるというわけだ。
このシチュエーションにおいて、この「母になりたい」というキャッチコピーは秀逸だと思う。
サイボーグ化してしまった恋人との葛藤も含めると、とてもいいプロットだと思うし、もしこれがもう少し前面に出されていたら、これは作品の質としてはもっと大化けしていたかも知れない。
しかし、この劇中では、直接的にそういうプロットは描かれない。もちろん、そういう発言も、意志表示もデュナンはしない。
これはとてももったいないなと思った。
たぶん、このキャッチコピーは、販促にあたって、あとから配給側がくっつけたものだろうと思う。しかし、見れば見るほど素晴らしいキャッチコピーだ。SFアクションのCG映画にこういうのを持ってくるというのは、なかなかできることじゃない。
これが、企画書の段階でプレミス的なものとして用意されていたなら、脚本もだいぶ変わったと思う。
いや、もしかすると企画の段階で用意されいたのかも知れないが、そうだとしたら「なぜそれをもっと使わないのだ」ということになる。
この作品は、デュナンにはあまり強い感情移入はできない。それは、デュナンの個人的な目的や欲求があいまいだからだ。
デュナンの目的は、あえて見つけるなら「亡き母の遺志を守る」といったものだが、それもかなり後半になってから発動するため、デュナンが戦闘員である以外の目的を持って自分から行動する、という割合がとても低く、これももったいなかったと思う。
恋人のブリアレオスは、彼女にとって重要要素であり、彼の無事を気にかけたり、命を救おうとしたりはするが、「彼との未来」というビジョンを感じ取る表現はあまりない。
もしデュナンの個人的な目的と葛藤がメインプロットとなっていたなら、この作品はあっぱれなものになっていたと思う。そしてそれが、「母になりたい」であったなら、それこそこういう作品に興味を示さないような人々にも充分鑑賞に耐えられるものなっていただろう。
これはいわゆる「SFもの」なのだけど、上に述べたようなことは「SFもの」でハマりやすい弱点で、これは先日の「復活の日」のレビューでも書いたことにも通じる。
SFというカテゴリの大先輩はもともと小説で、このジャンルの成熟は小説が行ったといえる。
「復活の日」のレビューでも書いたように、小説は時間の制限を受ける脚本とは違うため、哲学的な表現が可能な媒体だ。この、哲学がストーリー性を助けるという恩恵のおかげで、「SF小説」というジャンルは大いに発達する。
しかし、映画においてのSF哲学は、単に「設定」になってしまうため、それを落としこむのは至難の業になってくる。
実際、この「APPLESEED」でも始まってから20分あたりで、車の移動するというシチュエーションの中で延々とその「背景となる哲学的設定」を説明している。そして、そういう説明のシーンが他にもかなりあるのだ。これはSF好きなら集中できるだろうけど、普通の人からしたら退屈になっていってしまう。
しかし、「それがこの作品の魅力だから」と言われてしまったらそれまででもある。そもそもこういうのが好きな人たちがターゲットなんだ、と。
士郎正宗の原作は読んだことないが、「原作自体がそうなんだ」ということなら、あまりうるさくも言えない。だけど、作る側はどうせ作るんなら、多くの人を楽しませたいと思っているはずだ。そしてそれが商業作品でロードショーなら、さらにということになる。
SFが説明がちになった時、その説明を受け取る対象が必要なわけで、その多くは大抵が主人公となる。そのためにSF作品では主人公が自らの意志をもって物語を作るのではなく、どちらかというと巻き込まれ型として描かれるパターンが多くなってしまうという現象が見られる。「トータル・リコール」「バック・トゥ・ザ・フューチャー」「マトリックス」「ターミネーター」などなどだが、小説ではいくらでも巻き込まれた主人公の心情を表現できるが、映画脚本では行動で心理を表すので、早めにキャラクターへ強い目的を持たせることになる。
たとえば、SF小説を原作としている映画作品の中でも、僕が好きなひとつに「コンタクト」がある。「コンタクト」の主人公のエリーは、最初から「地球外生命体との交信」という目的を持っている。まさにタイトルそのままなのだが、この目的を通してエリーは自分の中の様々な葛藤や問題の解決を得る。
ここまでやれるSF作品というのはあまりない。「A.I」が意外にも成功しなかったのは、解決の要素に納得しにくい人々が多かったせいだ。それはおそらく、ロボットであるディビッドの目的と、解決的事象のバランスに問題があったからだろう。
SF小説(もしくは漫画)を原作として、大いに成功できた映画は意外と少なく、単純な興行収入だけでなく、顧客満足度まで含めるともっと少なくなる。
SF映画で最も成功したのは、皮肉にも「スターウォーズ」であることは、僕らにいろいろと教えてくれる。
この作品は、公開時にはSF小説の大御所と呼ばれる人たちからは大変な不評だった。まず科学的にはちゃめちゃだし、SF的概念にも乏しい荒唐無稽な物語だったからだ。だから未だに、あれを「SFとしては認めない」という人もいる。
しかし、これに最も熱狂したのが、SF(小説も含む)ファンだったというのが面白い。そしてもちろん、ご存知の通り一般の人達をも魅了した。
「スターウォーズ」のSFとしての最大の特徴は、「説明の要らない世界」を背景とし、それによってストーリーに集中させるという作りにしたことだ。
SFものというのは、ある意味「未知」のもの、つまり新しいアイデアや概念、斬新な科学的設定がモノを言う世界とも言えるわけで、そこにあえてこだわらず、「誰もが子供の頃から知ってる、想像できるかぎりの宇宙世界」をそのまま実写化したところに、ファンは鳥肌を立てたわけだ。
先に公開されている「2001年宇宙の旅」が公開当時、意外にもSFファンには不評の声が多かったというのは、小説と映画はやはり明らかに違うものだということを気づかせてくれる。
ただし、小説に近い(いわば哲学寄り)の映画でも、評価されることはある。「2001年宇宙の旅」も、結果的には名作扱いだし、「ブレードランナー」など、興業は失敗でも後々になってカルト的人気を博すものもある。ただ、「ブレードランナー」は構成的には明らかに失敗作なので、後にディレクターズ・カットが作られたりしている。
「APPLESEED」に話を戻せば、「母になりたい。」というプロットをもっと前面にしたならば、このストーリーからすれば、デュナンは最後にもっとなにかを得てラストを迎えることになるわけだ。しかし実際はどちらかというと、「人類とバイオロイドの共存世界の未来」を守ったこと(もしくは任されたこと)と、恋人が無事でよかったというのが「収穫」のように見える構成になっている。
「私たちのこどもたち」というフレーズが、最後の最後、デュナンのモノローグから出てくるが、人間味の薄いものになってしまっているのが、惜しい。
いい作品というのは、ラストシーンが印象に残るものだが、今この時点で、もうこの作品のラストシーンがあまり思い出せない。
せめて、一人の女性としての未来への希望を掴んだデュナンの顔がありありとしていれば、こんなに記憶があいまいにはならなかったと思う。
やっぱり、少なくとも映画というものは、ジャンルに関係なく、「人」を描いてなんぼ、なんだなと思います。
この記事へのトラックバックURL
http://blog.sakura.ne.jp/tb/57296420
この記事へのトラックバック
http://blog.sakura.ne.jp/tb/57296420
この記事へのトラックバック
脚本を読んであっさり断ったそうですが、後に「当時の僕は観客の要求していたものがわかっていなかった」と語っています。
おお、そうなんだ〜?
「スター・ウォーズ」は、製作の段階で結構そういう話あるみたいだね。
最初にオビ・ワン・ケノービ役をオファーされた三船敏郎も、企画を聞いただけで断ったというからなあ。「徹子の部屋」で、「ああなるんだったら、今思うとやっときゃよかったw」みたいなこと言ってたもんなw