2012年07月24日

復活の日

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復活の日

監督 : 深作欣二
出演 : 草刈正雄 オリヴィア・ハッセー 夏八木勲 ジョージ・ケネディ グレン・フォード

1980年公開。実は、初見です。

やはり劇場で観たかったですねこれ。木村大作さんの絵。

上に、出演者をまかりなりに羅列してありますが、これほどの大作となると「この顔ぶれだけでいいのかな」と悩んでしまいます。
昭和基地隊員に千葉真一、渡瀬恒彦、長瀬敏行、森田健作。滅亡する日本側では多岐川裕美、緒形拳、小林稔侍、丘みつ子など。
他にも悪役と言ったらこの人ヘンリー・シルヴァや、横顔ですぐバレる「ブレードランナー」のエドワード・ジェームズ・オルモスなどなど。
そしてなによりもロバート・ヴォーン。さすが、顔出すだけで絵が締まります。

一体、現場はどんな感じだったんでしょうか・・・・

原作は言うまでもなく、小松左京。長編SF大作です。
しかしよくこれだけのものをやり遂げましたね・・・・角川春樹はすごいね。というか、すごかったね・・・

制作費は30億前後。なにせ南極ロケをしています。これだけでもすごいよなあ。Wikiによると、35mmムービーカメラによる南極撮影はこれが世界初だそうな。


生物兵器として開発された猛毒ウィルス、MM-88がスパイによって盗まれてしまう。しかしスパイたちの飛行機が墜落したため、ウィルスが世界に蔓延、人類は滅亡してしまう。しかし、氷点下ではウィルスは毒性を発揮しないため、かろうじて南極の各国の基地の人間のみが生き残った。各国の基地は手を取り合って小さな連邦政府を作り生きながらえるが、アメリカとソ連のARS(自動迎撃システム)が作動していることを知る。さらに地質学者の吉住による、油田採掘を原因とする大地震の予測を受け、その地震でARSが発動、核が世界に発射されるかも知れないという懸念に立たされる。ARSを無効化するべく、志願した吉住はワシントンDCへと向かう。


なにかこう、ノリや展開などが、手塚治虫の漫画作品を読んでいるような感じがしました。手塚さんがこれを漫画化したら、めちゃくちゃドンピシャなものに仕上げてくれそうです。

さておき、小説の映画化というのは難しいんだな・・・やっぱり。

小説と、映画脚本の違いは一体なんでしょうか。どっちも文章の羅列である、ある意味「文学作品」とも言えます。

なんだと思いますか。


脚本が小説と違う点はなにかというと、脚本は、「時間軸が固定している」文学、ということです。
ここでいう時間軸とは、「上映時間」のことを指します。
つまり、決まった時間内で消化されることが前提の文学ということになります。
ですから、小説よりも「時間と構成」の関係密度が高いわけであります。

小説は、一気に読む人もいれば、休み休みの人もいるでしょう。そしていつでも少し前に戻って読みなおすなんてことも可能です。
しかし、脚本が目指すところの映像化(もしくは舞台化)されたコンテンツは、一度始まったら原則として一定の時間を消費しながら進み、終わります。
ですから、構成というものが非常に重要になってきます。

これは音楽も一緒で、その構成は時間と関わってきます。そういうのもあって、大体の現代商業音楽は、イントロ・Aメロ・Bメロ・サビ・・・などという構成に落ち着いたりしてますね。少なくとも楽譜は、今も昔も「演奏時間内」という制限を前提として構成されているわけです。


このところをわかっていないと、小説の映画化は難航します。失敗している場合、このあたりを見据えていないことが多いのです。

で、まず、この「復活の日」は、残念ながら映画作品としては成功の部類ではありません。少なくとも僕にとっては。
そして、小説を映画化するにあたっての、代表的な失敗例ともなってしまっています。

この映画は、人類が滅亡してしまい、南極に生き残ってしまった人類にスポットが当たったあたりから面白くなります。しかしそこへいくまでに1時間も消費されています。この1時間がなにに使用されているかというと、

・ウィルスが一体どういうものなのかという情報提示と、その裏事情
・ウィルスが蔓延する過程と、それによって崩壊していく世界と人類の滅亡
・ウィルスに侵されていく日本における何人かのエピソード(吉住が置いてきた女など)
・ARSが作動されるエピソード

などに費やされています。

この1時間は少々退屈です。なぜなら、これらは「エピソード」であって、物語(ドラマ)ではないからです。その証拠に、このパートが後半に受け渡した要素というのは、ドラマツルギーから見れば「ARSの作動」のみです。
しかし小説が有利なのは、こういった「エピソード」も、その文章力で見せていくことができることです(SF小説なら特にです)。それは時間に縛られないのが大きいというのもあるからなんですが、映画にはそんな余裕はありません。

本来、この映画は、「ウィルスで人類が滅亡した中、南極に生き残った人間が生き残りと復活を賭けて戦う物語」ということになります。

そうすると、極端な話、「ウィルスで人類が滅亡した」ところから始めるというくらいの構成変換が必要なんです。これが「小説の映画化」という仕事です。


小説の映画化ではありませんが、細菌兵器を扱った映画で「ザ・ロック」という娯楽アクションがあります。この作品がいいか悪いかは別として、劇中にとんでもなく危険なウィルス・ガスが出てきます。これが一体どういうもので、どれくらいやばいかということを、この映画は一々説明しません。始まって10分もしないうちに、一発の絵だけで説明してみせます。そのあとはもう、物語が進行するだけです。

しかし「復活の日」はSF長編小説という原作にとらわれてしまい、「過程と説明」が1時間を占めるというかたちになってしまいました。



小説とその映画化の関係をもっと見てみましょう。
ここではわかりやすい例として、夏目漱石の「坊っちゃん」を例にします。

あなたがこの作品を映画化するなら、どうしますか。

パッと考えれば、坊っちゃんが松山に赴任する第二章から始めるのが映画にとっては最適だとわかるでしょう。大体の映像化もそうしているんじゃないかなと思います。

しかし原作ではその前に、「親譲りの無鉄砲で小供の時から損ばかりしている」と始まる第一章があります。ここで坊っちゃんがどんな気質かという情報を読者は得るのですが、ここは子供の頃のエピソードの羅列でしかありません。

この第一章は短いのですが、しかし、「このエピソードも面白そうだから、ここも映像化しよう」などと考えたとしたら、「ああ、それはたしかに余計な部分かも」と思いませんか。
ところが、ほんとにそれをやってしまう映画というのが多いのです。

小説、文学というのは実に柔軟な芸術で、それこそ作品全体が坊っちゃんの第一章のような形態・手法でも成り立ったりします。その文学だからこそ成り立っている部分と、映像で成り立たせるべき部分を混同してしまうのです。

そう考えると、映画というのはいかに制限が多い芸術かということになります。そもそも映画(映像芸術)は、人類史上最も若い芸術です。記録装置としてのカメラが発明されなかったら、生まれなかった芸術であり、そのカメラによる記録と、再生による発信という枠からは逃れようがありません。

そしてそうである以上、上映時間というものに縛られます。

私たちは小説を買う時、よほど分厚かったりしないかぎり、何ページかということはあまり気にしません。上下巻に分かれてたってかまいません。
しかし、これから1800円出して観るロードショーが上映時間30分だと知ったら、「ええ?」と不安に思うでしょう。「ちょっとビデオでも借りて観るか」といった気分でレンタル屋に行ったのなら、5時間もあるような映画には手を出さないでしょう。

映像作品にとって「尺」とはいろんな要素と絡んでいるのです。


また、特に長編小説になると、多くの登場人物のエピソードを行き交うという、群像もののスタイルが多い。こういった小説はまず映画化の企画に乗せてはいけません。乗せるには相当覚悟がいります。
理由は、映画は時間に縛られるので、多くの時間を必要とする群像劇は向いていないのです。もし各パートを説得力を持って作るとなると、映画そのものが長時間になってしまうリスクがあります。実際、群像スタイルの映画は2時間強から3時間越えになりがちです。場合によっては3時間でも足りない、もっと欲しいとさえなるでしょう。たとえば、「LOST」の映画化なんて、想像つきますか?
どうしても映画で群像劇をやる場合、成功させる条件として、必ずすべてのエピソードがひとつにつながること、というのがあります。これは上映時間というリアルタイムな時間軸の流れがあり、到達点を必要とする映画という手法に合っています。そして、成功している群像劇スタイルの映画は、ほとんどこのひとつになるスタイルです。(ソダーバーグあたりの作品がいい例でしょう)
たとえば「愛と哀しみのボレロ」はやはり長い映画になってしまってますが、最後にボレロで各エピソードがひとつになります。

小説は一人称とかでないかぎり、登場人物の数だけ空間軸(キャラクター、もしくはシーン)を飛びまくってもOKに作ることが可能ですが(実際、そういうものが多いですが)、映画はこの空間軸が飛びすぎると、勢いを失いやすい。映画上の空間も、時間の制限を受けているからなんですが、主要の空間軸は良くて2つ(「眼下の敵」「椿三十郎」「ゴッドファーザーPart II」「ファインディング・ニモ」など)、最低でも3つが限度だと僕は思っています。これ以上空間やキャラクターが飛ぶと、難解な印象を与えます。

とにかくこのように時間や空間の制限を受けずに開発される小説を、制限を受ける映画に落としこむのには、相当なテクニックがいるわけです。
「どんなに素晴らしい小説でも、その原作をそのまま映画化しても面白くなるとは限らない」というメカニズムのひとつがこれであります。

「復活の日」もとても登場人物が多く、各エピソードの空間が飛びます。これによって観客はタイムラインがつかめないので、冗長な印象を受けてしまいがちです。草刈正雄演ずる吉住がタイムラインであるというささやかな印象は持てるのですが、焦点を当てるのが遅すぎたため、ラストへの到達感にいまひとつ物足りなさを感じてしまいます。これが、当時の多くの酷評につながっている原因のひとつでしょう。


さて、あとは深作欣二監督なんですが、この人は決して器用でテクニカルな監督とは言えなかったですが、なぜかバイオレンスが得意な監督、みたいな見られ方もありました。「仁義なき戦い」などのせいだと思いますが、実は僕はいつも、この人の「人の良さ」のようなものがあまりにも見えてきてしまって、そしてその「人の良さ」が邪魔で仕方ありませんでした。
この人は映画監督をするには、少々無欲すぎます。

「ああ、いい絵だな」と思うところは、木村大作さんの仕事だというのがばればれですし、「もっとなんとかなりそうな絵だな」と思うところは、深作監督のセンスだというのもばればれです。「よくこれでがまんできますね」と言いたくなってしまうのです。

要は、絵や演出に貪欲さが垣間見れれば、たとえどんなに予算その他の制限などで質をそがれててもいいわけです。

ARS無効化の危険な任務に志願した米軍少佐と、やはり志願した吉住が衝突するシーンがあります。少佐は自分一人で充分と言い、吉住はそれでも同行すると言い張ります。それで殴り合いになるのですが、殴り合いによってこの男二人がつながります。しかしバイオレント監督とも言われた人が、このシーンですら、バイオレンスを通してつながる男二人を面白く描けていません。そこはかとなく流れているのは、やっぱり遠慮がちな「人の良さ」です。



とまあ・・・また言いたいこと書いてしまいましたが、日本映画と考えても、とんでもない規模の大作映画なのは間違いありません。
少なくとも、当時の角川春樹の気概が感じられる作品とも言えます。
そもそも、角川春樹は「天と地と」という邦画による制作費最高記録(50億)を持っている人です。(当時これと競り合った「クライシス2050」(資本は日本、スタッフ・キャストはアメリカ 70億)は一応邦画とみなさないことにします)

またぞや、これくらいのことをしてくれる人は日本映画界に現れませんかね?

復活の日を期待しています。

posted by ORICHALCON at 12:38| Comment(8) | TrackBack(0) | Cinema
この記事へのコメント
ああ、もう、本当に勉強になる〜!
隆斗さんお金取れるよこれ、ほんとに…。

『「エピソード」であって、物語(ドラマ)ではない』
これ、まさしく先日私がある人に指摘された言葉だ…。
うんうん、やっちゃうんだよ…。ついつい…。
感情移入してもらえる様な錯覚を起こすのよ…。
ドラマを展開させつつエピソードを盛り込むって難しいよ…。

でも実際、エピソードの羅列になってる映画って少なくないよね(特に邦画で)。
やっぱり面白いとは思えないけど、そういうのが何となく芸術性があるみたいな変な高評価を受ける事もあって納得出来ないわ!
Posted by なおみ at 2012年07月24日 21:27
このレベルじゃお金は取れないよw

文学(小説)のすごいところは、その文章能力によって、エピソードレベルの事象でさえも重要だと説得することができることだよね。

「ノルウェイの森」は、それほど劇的なことも起こらない。主人公の「僕」もなにもしないしねw 「坊っちゃん」もストーリーとしてみたら実は大した内容じゃない。しかし、それを説得する文章というものがそこにあるし、そもそもこれらは人間の内面や感情を面白く表現する、ということに長けている作品だ。

小説は柔軟性に富み、映画は制限があるということを書いたけども、映画も決して不自由なものではなく、なにをどうやってもいいんだと思うのね。実際、実験的なものや、難解に見えるもの、はちゃめちゃなのもある。なにやってもいいんです。エピソードの羅列(そういう映画はよく「文学的」などと言われるがw)でもいいんです。たとえば「ツィゴイネルワイゼン」みたいな映画もありなわけです。

しかし僕がここで挙げる映画作品は、ほとんどが娯楽作品で、商業用映画なわけで、必ず「商業的目的」がある。その範疇になってくると「自由ではなくなる」ということ。

「復活の日」は制作費30億。で、その30億回収したいわけでしょう。回収した上にさらにできれば儲けたいわけでしょう? それなら脚本開発の時点でテクニックが必要、というだけの話w


実はエピソードは、脚本理論からいったら盛り込むものではなく、単に「生まれてしまう」ものなのね。

物語の基本メカニズムは、

a.キャラクター
b.キャラクターの目的(もしくは葛藤)
c.キャラクターの行動

これが軸になる。

そしてこれらがあってはじめて、エピソードが生まれる。これらの準備をしっかりやらずにエピソードに頭を捻ってしまっているとだめ。



◯・エピソードが生まれる例

プロット : 腹をすかせた乞食が、食べ物にありつこうとする。



a.乞食がしゃがみこんでいる。(キャラクター登場)

b.ポテトチップスを食べながら、子供が歩いてくる。それを物欲しげに見つめる乞食。(目的があらわになる)

c.子供、ゴミ箱にポテトチップスの袋を捨てていく。それをあわててあさる乞食。(行動)


 しかし中身は空である。(エピソード)

------------------

これの繰り返しであって、たとえば、このあと乞食がどう行動するかによって、物語を展開させていくことができる。

"落胆する乞食。またしゃがみこむ" でもいいが、それはもう行動が止まっている。脚本はキャラクターと、そのキャラクターの持つ目的をもっと生かさなければならない。

たとえば、

"乞食、袋に残った塩を舐めはじめる"

とやったなら、これは映画になってくる。


ここで、それを見た子供が、お金を差し出すとする。

しかしそれをもらうのに躊躇する乞食。

とまでやったなら、やっと人間ドラマになってくる。乞食でも子供からお金をもらうことに対する葛藤と、その乞食のキャラクター性が描かれ始めている。



エピソード(のようなもの)の羅列というのは、たとえば、


腹をすかせた乞食がしゃがみこんでいる。
その足を這うハエに気づく乞食。
しかしそれを払う気力もなく、ただ見つめている。
ハエは足を離れ、青空に飛んでいく。
それを見上げ、なぜか乞食の目に涙が溢れてくる。

などというもので、これは単なるそういうシーンであって、物語ではないよね。



キャラクターが目的に向かって行動することによってなにかが描かれていなければ、それは物語にならないのです。
Posted by ORICHALCON at 2012年07月25日 01:21
いやいやいや、もっと全然しょうもない内容のシナリオ教本とか、ワークショップとかいっぱいあるよ…。
隆斗塾開こうよ!で、お金いっぱい稼いで、映画に資金にしよう(笑)。

乞食の例え、すごく良くわかった。詳しくありがとう!最高に感謝!
たったこれだけでも、確かにドラマだね。
見届けたくなるね。

甘えついでにもう一つ聞いてもいい?
(きっと他の方の役に立つと思うから、メールじゃなくてあえて公開の場で…☆)

坊ちゃんの一章が不要っていうのはわからなくもないんだけど、坊ちゃんっていう「キャラクター」を観客に愛してもらう為には入れた方が有効なのかな、って思うんだけど、どうなんだろう?

有効かもしれないけど、それで尺を消化しちゃうのは勿体ない、って事?
それとも、出来るだけ早く『ドラマ』が始まらないと、観客がノレないって事かな?

その方が感情移入してもらえる様な気がしちゃって、多分私よく『坊ちゃん第一章』を入れちゃてるんだけど、そうするとやっぱり「起が長すぎる」ってダメ出しされるし、自分でもその自覚はあるの。(まさしく、エピソードの羅列になってる)

『キャラクターの情況や情報をより多く得る』=『感情移入しやすくなる』
っていうのが私の根本的な誤解な気がするんだけど、隆斗さんはどう思う?
(っていうか、そもそも上記はエピソードじゃなくてドラマで見せろって事なんだろうか)

それとも、そもそも『感情移入』=『キャラクターへの理解と愛情』っていう考え方自体が間違い?

勿論ジャンルによって違うとは思うんだけど、ファーストシーンに何をもってくるかってすごく迷う…。

あ、あともひとつ、『ダークナイト』のジョーカーってどうしてあんなに愛されるんだろう。

あれってまさしく『感情移入』させられちゃうよね。
特に彼の背景が描かれてるわけでもないし(ちょっと語られるけど、どれが本当かわからないし…例えば、私ならこんな辛い経験を経て彼はこうなっちゃいました、みたいなエピソードをうっかり入れちゃいそう…)
彼がやってる事は『悪』だし…。

そう考えるとさっき自分で書いた『感情移入』=『情報量』は間違ってるって思うんだけど、だったら何なんだろう…?

ちなみに『もしも学校が…』のレイカンも最高に感情移入させられたわ。
う〜ん、演技力?(シナリオ、関係ない(笑))

あ! 感情移入=可哀そう?!




Posted by なおみ at 2012年07月26日 04:39
こんな時間に起きてたのw 僕も人のこと言えないけどw

隆斗塾w  怪しいな・・・w


さておき、小説の映画化の難しいところは、その原作に惑わされるということ。すでに惑わされちゃってるねw

自分で「坊っちゃん」を例に出しといてこう言うのもなんだけど、そもそも「坊っちゃん」は文学作品ならではの作りになっているので、これを映画化しようとする人がいたとしたら、すでに「映画がわかっていない」と言いたくなります。実際、「坊っちゃん」の映像化で成功した例を僕は知りません。

「坊っちゃん」を例に出したのは、小説の映画化の難しさを話題にしたかったからで、本気で「坊っちゃん」の映画化を模索したかったわけではないのねw

さておき、もしよくてやれるのは、第一章の後半、清の部分と松山への出発のエピソードくらいでしょうね。親指の甲をナイフで切ってみせたり、二階から飛び降りてみせたりというのは、無駄です。
漫画のONE PIECEの冒頭の子供時代、これ見て「坊っちゃん」の第一章を思い出したのだけど、主人公が頬にナイフを入れるというのがあります。僕はこの漫画は1巻しか読んでないのでなんとも言えないけど、この頬の傷やそのエピソード、もしくはこの時の人間関係などが後のストーリーに強く関わってくるのであれば、ありです。

しかし「坊っちゃん」の第一章は、後のストーリーにさしたる影響を与えません。

日本で小説を書くと、よく編集側に出されるダメだしで「早めにキャラクター(主人公)がどういう人物かわかるようにしてくれ」というのがある。
「坊っちゃん」の第一章は、これを走り書きしているようなものとも言え、脚本で言えば企画書の概略に書かれる主人公の設定項目のようなもの。

つまり、映画は、劇中においてキャラクターの設定というのは説明する必要はあまり重要ではないということがこれでわかる。


感情移入という話をすれば、やはりキャラクターをいくら説明してもだめなんです。
この主人公は、子供の頃にこんなトラウマがあり、こんな趣味を持っていて、こんな仕事で、子ども好きで、ペットを大事にしていて、でもこんな孤独な毎日を送っており、照れ屋で、でも間違ったことが嫌いな頑固タイプで・・・・といったことが提示されても、観客は「なるほど、よくわかった。それで、その人はこれからなにをしようとしているの?」となります。

感情移入というのは、キャラクターの「目的」や「葛藤」、そして「行動」により育まれます。つまり、いっこ前のコメントに書いた「物語」の要素です。それが物語を作り、感情移入を呼びます。


ナウシカは、「世界を救おう」としています。その愛が劇中における行動を作り出します。
「T2」のT1000は、ジョン・コナーを救おうとしています。
「ショーシャンクの空に」のアンディは、無実の罪で投獄されるという人生最大の葛藤があります。
「ダイ・ハード」のジョン・マクレーンは、距離の生まれた妻との関係修復を望んでいます。
「ゴッドファーザー」のマイケルは、ファミリーを守ろうとしています。

ラビュタのバズーは、

・家族をなくしたひとりぼっちの少年
・でもよく働き、自立している
・明るく、優しく、気立てもいい

これではまだ感情移入するレベルではありません。
観客も、「そうか〜いい子っぽいね」とまだ見ています。

・そして彼は、死んだ父の汚名を晴らすべく、天空の城ラビュタの存在を証明してみせるという夢を持っている

なるほど、それで?

・ラビュタの鍵を握るシータを守るべく行動する

がんばれバズー! 負けるな!!

つまり、物語が動かなければだめなんです。基本的に。


映画を勉強するとき、「チャップリン」を観ろとよく言われるのは、上のようなことをきちんとシンプルにやっているからです。

もし脚本を書いていて、どうしても人物描写やエピソードのようなものばかりに走ってしまうなら、それは映画脚本ではなく、小説のような作業になってしまっているということです。



ジョーカーに関しては、感情移入とはちょっとちがうのかもよ?
あれは「かっこいい」「人間臭くてよい」「魅力的なので、つい見てしまう」というような愛着はあっても、観客で感情移入というところまで到達している人はあまりいないでしょう。
感情移入していたとしたら、あの作品は失敗になってしまいます。感情移入の定義は、

・そのキャラクターを通して物語を体験する
・そのキャラクターの行動を追いたくなる
・そのキャラクターの成功を願う

といったものになります。
誰もジョーカーを通してあの世界を体験してはいませんし、ジョーカーの勝利を本気で待っている人はいないでしょう。

レイカンの目的は、「UFOと交信する」ことと、「それを証明する」というのがあります。そして毎日行く学校そのものが葛藤となります。

演技力は関係ありませんw


Posted by ORICHALCON at 2012年07月26日 07:18
うわ〜ありがとう〜!良くわかった!
確かにラピュタで、パズーがお母さんを亡くしたエピソード(シーン)とか、父親との別れのエピソードとか、親方との出会いとか、そんなの不要だもんね。
きっと延々観せられたらイラつくね。
(でも、そういうのこそ何か描きたくなっちゃう書き手のエゴってあると思わない?(笑)それは設定資料に書いとけって話か…)

ジョーカーは感情移入じゃなくて『愛着』か…。成程納得。

しつこくてごめん隆斗さん、ついでにもう一つ…。

『脚本では「偶然」は極力排しなければいけない』って言われてるじゃん、『ご都合』になっちゃうから、って。
でも、例えば『ラピュタの正体をつきとめたい』パズーの元に『ラヒュタ族の生き残り』のシータが降って来る、っていうのは完全に『偶然』だよね?

なのに不思議とご都合な感じがしないのはどうしてなんだろう?
逆に『うっわご都合だ…』って思う映画もあるじゃない?その違いって何だろう…?
Posted by なおみ at 2012年07月27日 00:22
おっと、ここのコメント見落としてたw ごめんw


脚本で、偶然を極力排さなければならないと言われてるかは実は知らないんだけど、偶然が重なるという話を書きたかったらどうすんのかねえ?w

まあ、さておき、本来脚本においては、書かれるものはすべて「必然」なので、この場合の「偶然」というのは、キャラクターやストーリーがその現象の発生に関与している度合いが低すぎるということになるんだろうね。

たとえば、「アルマゲドン」の最後で、ブルース・ウィリスが死ぬ覚悟でいるのに、横から別の小隕石が飛んできて、問題の隕石にぶつかり軌道を地球からそらしてくれたと。「お、やった!」ってわけで、ブルース・ウィリスが宇宙船に飛び込んで地球にご帰還。娘とハグ。
これだと「じゃあ、今までやってきたことはなんだったんだ!」となるわけじゃない。(こういう展開で笑わせるコメディとかはあるけどねw)
その小隕石については、誰も、そしてこれまでのストーリーも関与していないわけで。


で、「ご都合っぽい」という展開は、「偶然」とはあまり関係ないのね。

まず、バズーとシータに関しては、その出会いという「偶然」が起きなければ物語が成り立たないことは観客にとっても明白なので、問題ないわけです。つまり、物語の始まりである「起」に関しては、どんなに有り得ない偶然でも自然と受け入れられるものなんです。むしろ、バズーとシータにいたっては、「運命的な出会い」とまで感じる人すらいるわけです。その「運命的な出会いが巻き起こす冒険物語」と納得してみています。

たとえば、子供の頃の忘れられない初恋の相手と、30年後にバスで隣り合わせになって恋におちる・・・・なんて設定でも、いきなり「そんなばかな」と言う人はいません。「ふむ。それでそれで?」となるだけです。


問題は、その展開であって、特に「解決」がどう描かれてるかによります。


「最大限の解決」は、エンディングということになりますけど、そこへいくまでいくつかの解決を得てたどりつくことも多いでしょう。

で、「ご都合っぽく」感じる場合というのは、その「解決」にストーリーの(主にキャラクターの)「代償」が伴っていないのが原因です。代償の度合いが低いほど、「そんな〜」となります。

「代償」は、「努力」とか「行動」などという言葉に置き換えてもOKですが、広義的にするなら、やはり「代償」が妥当でしょう。


たとえば、バスケットチームのストーリーだとします。主人公のチームは僅差の得点でライバルに負けています。しかも試合終了まであと10秒もありません。「ああ、もうだめか...」というその時、主人公がイチかバチかで投げたボールがゴール!! 見事逆転です!! わーい!!

これは代償が少なすぎるので、爽快感を伴う説得力を出すのは至難の業です。

たとえば、

・その最後に賭けた技が、かなり危険を伴う技だった。
・これまで何度も練習してきたが、自信のないテクニックだった。でも成功させた。そして、成功したなんらかの理由が明らかである。
・信頼関係の壊れてしまったチームメイトがいたが、最後はそれを超えて、彼とのコンビネーションで勝利を勝ちとった。

などというものであれば、だいぶ「ご都合っぽい」から離れていけることになります。

その解決的現象が、ある意味なにかの積み重ねによって発生しているか、というのが大事なのです。


桃太郎が鬼ヶ島へ行くとき、犬、猿、キジがただ、「私もお供に」という展開ではなく、キビダンゴとひきかえにになっているところが、最もいい例です。これによって仲間を得た桃太郎は、解決への道がより拓けたことになります。そしてそのキビダンゴは、おばあさんが作ってくれたものであります。


ご都合っぽいストーリーの要素はもっといろいろあるのですが、今日はこのへんで。



Posted by ORICHALCON at 2012年07月27日 13:51
うわ〜ありがとう!!(T_T)。
すっごく良くわかったよ!
なるほどなるほど…。
今回も要プリントアウトだよ。
隆斗塾、いつ開く?(笑)

『ご都合っぽいストーリーの要素』全部知りたい!
お手すきの時にでも是非…
Posted by なおみ at 2012年08月10日 00:48
塾はちょっと....w

アンディと会った時にでもまたいろいろ話そうか!w
Posted by ORICHALCON at 2012年08月10日 11:11
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