Huluで視聴。
少年メリケンサック
監督・脚本 : 宮藤官九郎
出演 : 宮崎あおい 佐藤浩市 木村祐一 三宅弘城 田口トモロヲ ユースケ・サンタマリア
先日レビューした「ゲゲゲの女房」で水木しげるを演じていた宮藤官九郎が脚本・監督。
たぶん、Huluで出会わなかったら一生観る機会がなかったろうと思う。
とは言え、公開当時は予告を見て、その内容に少し惹かれていた、というのはある。
かんな(宮崎あおい)はレコード会社の契約社員。ネットで"少年メリケンサック"というインディーズ・パンクバンドの動画を発掘し、社長(ユースケ・サンタマリア)のGOサインでスカウトへ乗り出す。しかし、その動画は実は25年も前のもので(しかも解散ライブ)、現在のメンバーは50歳前後の中年であった。リーダー格であるアキオ(佐藤浩市)は飲んだくれの不良中年、弟であるベースのハルオ(木村祐一)は農家、ドラムのヤング(三宅弘城)は切痔を患ったブルーカラー、ヴォーカルのジミー(田口トモロヲ)にいたっては、過激なステージ・パフォーマンスの挙句のギターの直撃を頭に受け、その後遺症で車椅子という有様。かんなは落胆するが、会社が先行して自社サイトに動画をアップしてしまったせいで、10万アクセスの反響を呼んでしまう。さらに会社は全国ツアーのブッキング予約まで展開してしまい、事実が伝えられなくなったかんなは、会社に事実を隠したまま現少年メリケンサックのプロデュースを担当することになる。果たして少年メリケンサック復活の奇跡は起こるのか?
結果から言うと、興業でそれなりの結果を出しただけあって、面白い。いっこ前の「ヤギと男と男と壁と」よりずいぶんと笑った。
ただ、不満点もないわけではない。同じ日本人ががんばっている作品なので、あまり叩きたくはないのだが、よく出来た作品でもあるので、愛をこめて言いたいことも書かせてもらう。
先日の「崖っぷちの男」のエントリでも話題にした脚本のミッドポイントについてのいい例にもなっていたので、そのへんも絡めて続けたいと思う。
まず冒頭のかんなが社長に動画を見せ、GOサインが出るまでのやりとりを見ていて、セリフ、演出、演技、展開などが異常なほど日本の演劇臭いと思ったのだが、すぐ宮藤官九郎が演劇畑の人であることを思い出した。ただし、僕は彼の舞台を観たことはない。
前半のこのヘンなテンションと演技レベルは、よくも悪くも80年代の香港映画を思い出させる。いまだにこんなことを映画でやるのかとちょっとうんざりしそうになったが、佐藤浩市らメンバーが出てくるまでは我慢しようと思って耐えた。
ただ、これはクドカンなりの計算で、彼なりのテクニックなのだとすぐに理解できた。個人的には食傷気味だったけども、今思うと正しい。このテンションはほんとに冒頭だけで、かんなが行動をはじめてからは徐々になじみやすい演技に落ち着いていく。なじみやすいとは、「信じることができる」という意味だ。
冒頭のかんなと社長のやりとりはただ単に、物語をスタートさせるために必要なシークエンスにすぎず、やりとりもTVドラマにありそうな内容なので、観客にとって興味の持続する部分ではないことをクドカンは承知している。なにより観客はこのあとすぐの展開(メンバーはリタイアした中年)というのもあらすじで知ってるわけだから、ここで下手に普通に落ち着いちゃったらだめで、アドレナリン注入が始まっていないといけない。
退屈な映画というのは、幕開けからしてつまらないことが多い。クドカンは「そのうち面白くなるから」とでも言い訳しているような、よくある退屈な冒頭シーンを回避しようとしているのがわかる。
前半部分(上映時間のちょうど半分まで)の構成はさすがで、一気に見せてくれる。日本の作家でこんなにテンポよく持っていける人は少ないんじゃないだろうか。基本的に展開はマンガなのだが、丁寧に作られている。
ミッドポイントもあり、それが上映時間のド真ん中という理想位置に置かれている。
それは再結成した少年メリケンサックが最初にやる名古屋ライブのシークエンスなのだが、ここにいたるまでウジウジせず一気にいくという構成が素晴らしい。日本の脚本の傾向は、ここにいくまでウジウジしてひっぱるクセがある。つまり、そこを到達点のひとつとしてしまい、そこまでこぎつける過程を描こうとしてしまう。
一発目のライブなので失敗はできない(失敗の可能性は高いのだが)。しかも少年メリケンサックは25年前に解散し、今はみんなオヤジでひどい状態というのはかんなしか知らない。それの最初のライブなわけで、こういう要素はつい、ひっぱってしまうのだ。
しかしクドカンはそんなもったいぶることはなく、あっさりとここまで持っていく。おかげでここが素晴らしいミッドポイントになっている。
「ライブをやるが、やっぱり大惨敗」という絶望的な結果を叩きだすというものだ。さすがなのは、ここにいくまでに観客が「もしかするとこいつらここでなにかしら一発かましてくれるかも?」と淡い期待を抱くように構成されていること。
これのおかげで、「これからどうなるんだろう」となる。つまり、後半は観るに値するわけだ。
「崖っぷちの男」はこれをせずに、金庫破りの過程でなんとか引っ張っていけてしまってるというパターン。
僕は、もっと早くミッドポイントを持ってくるべきだがそうするとそのあとの練り込みが大変、ということを書いた。
で、まさにその大変さをこの「少年メリケンサック」は教えてくれる。
ミッドポイントに見える名古屋ライブから以降、一気に勢いを失ってしまうのだ。
前にも書いたように、素晴らしいミッドポイントは観客に期待感を抱かせる。そのかわり、その期待感という手強い相手と向き合える脚本に仕上げなければならい。穿った見方をすれば「崖っぷちの男」はそれを回避してうまく仕上げたとも言える。
しかし、「少年メリケンサック」は挑戦した。が、やはりなかなか簡単ではなかったようだ。
プロットは途切れ途切れになるし、ストーリーとは無関係のお遊び要素も増えてくる。
また、先にこの作品を観た知人と話した時に聞いた疑問、「なぜいきなり広島ライブが成功したのか?」という不可解な展開もある。
これは確かにわかりにくい。僕もいまだにはっきりとは答えられない。考えられるとすれば駆けずり回った商店街での会話の中などにあるのかも知れないが、観客が納得するには不充分な気がする。
後半は、つい笑ってしまうシーンでなんとか興味をつないでいけるが、前半の勢いがよく出来ているだけに、失速感が拭えない。
後半はかんなの「気づきと変容」の物語で(もっと言えば、作品そのものがそうなのだが)、それプラス少年メリケンサックのメンバーの過去の精算も盛り込んでるため、かなり高度な構成力が必要になるものとなっている。
こういう時、テクニックとしては、かんなとメンバー(特にアキオ・ハルオ兄弟)の抱える問題になにかしら共通点(類似性)をサブリミナル的にせよ持たせるというのがあるが、かんなとハルオたちは世代も性別も生きる世界も違うせいか、かなり分離させられてしまっている。
この生まれてしまっている距離感のせいで、逆に構成が難しくなってしまっているのだ。
こういうときは、ミッドポイント前に一旦戻ることでヒントが出てくる。つまりもともとの目的は何だったのかということで、この作品でいえばそれは「少年メリケンサックの復活と成功」である。ここはぶれてはいけないと思う。
しかし後半は「組んでしまったブッキングを消化する中途半端なロードムービーまがい」の展開で、前進・改善というエネルギーが希薄だ。
キャラクターに最初に持たせた使命は絶対に忘れてはならないし、観客にも忘れさせてはいけない。忘れるどころか、骨の髄まで使い倒さなければならない。そこへ向かうことによってキャラクターが変容したり、問題が解決するならこれは素晴らしい物語となる。というか、それが物語というものだ。
しかしかんなはことあるごとにその目的を忘れ、立ち止まったりどっかへ行ったりすることによって変容したり気づきを得たりする。これが勢いの低下を感じさせる原因となっている。
少年メリケンサックの復活というゴールはあいまいになっていて、そして誰がどのようにそれに貢献したかもはっきりとしない。というか、実は誰も貢献していないに等しいディティールになっている。かんながしたことと言えば、巡業のために実家の車を提供したことと、その運転ぐらいである。もちろん、本当はそれだけじゃないはずだが、映画としてちゃんと絵になっているのはそれくらいしかないということ。映画は絵だからだ。で、あとはいざとなると逃げたり、酔いつぶれたりしているだけだ。
メンバーも、ブッキングの消化しかしておらず、目的がわかりづらい。アキオでさえ、なぜやりたいのかがわかりにくい。唯一、ドラムのヤングが「楽しい」という体現をしており、そして彼がまた唯一、「生きているうちにもっとバンドをやりたい」というバンドへの想いを吐露する。その意味では、ラストに本当の目的を達したのはヤングということになる。(もちろん、そういう表現はされていないが)
パンクバンドなどを題材にしている以上、観客の多くは「いつかどこかでイカせてくれる」と思っているはずで、なにかしらのカタチで昇華的体験や、カタルシスのシーンがくると頭のどこかで感じてるだろう。
しかし、そういうのはこない。
劇中、かんなのセリフで「パンクとはなんなんですか?」みたいなのがあるが、「これがパンクだ!」と嘘でもやってみるという試みもない。
最後の最後に、「そういう映画じゃないんです」と言われてしまう。
叩き過ぎたかも知れないが、お遊び要素が面白いのでつい最後まで観てしまう。この笑いの部分に関してはほんとに面白い。だけに、惜しい。
笑いに関しては、特に前半が「装い」をプロットに持ってくる気配があったので、大いに期待してしまった。
この「装い」というのは、「ほんとは中年バンド」という事実を隠してなんとかしようとするプロットである。
この「装い」や「悟られまいする」というプロットはコメディの最大なる王道で、良質なコメディのほとんどは、必ずと言ってよいほどこの「装い」と「悟られまいとする」という要素を軸としている。
古くは狂言の附子にはじまって、チャップリンもそうだし、Mr.ビーンもこの「装い」と「悟られまいとする」に心血を注いでいる。TVシリーズコメディ「フレンズ」なども、各話ごとに必ずのようにこのプロットが利用されるし、たとえばやはり佐藤浩市出演の三谷幸喜作品「マジックアワー」などは作品まるごとがそのプロットだ。
我々は「カツラが取れてハゲがあらわになる」という古典的な場面に今も昔も必ず笑ってしまうというシンプルな例から、このプロットが人間にとって根源的かつ強力なプロットだということがわかるだろう。
なぜこのプロットがコメディ向きかというと、キャラクターにとってその「目的」は「果たすもの」ではなく、「維持」するという傾向になりやすく、したがって笑いを呼ぶ原理、「バランスと、そのバランスの崩れ」を生みやすいからだ。
言いたいことを書いてしまったけど(そして長くもなってしまったが)、扱っているテーマも良いし、中規模の邦画というバジェットで考えたらがんばった作品だ。役者も良かったし、クドカンの才能も間違いないものだと再確認したので、これからも応援したいと思っています。
さて、この作品はパンクバンドを扱っているのだけども、映画のポスターにもあるキャッチコピー、「好きです! パンク! 嘘です!」というのはかなり深いと思う。
劇中の、かんなの「パンクってなんなんですか?」というセリフだが、これにはっきりとした答えを出せる人はなかなかいないと思う。
僕なりに言ってしまうと、そもそも日本でやっちゃったらもう、それはすでにパンクじゃない気がするわけで、つまらない言い方をすれば、英国の政治情勢の賜物みたいなものでしょう?
これを観てて思い知らされたのは、音楽の本当の在り方にについて。
違法ダウンロードの罰則が設けられたってんでちょっとネットでも騒がれてますが、それもCDの売れない音楽業界が後押ししたなんとかって・・・・
でもね、IT・デジタル化の進行とともにこうなるのは必然だったんでしょ。CDなんか売れないに決まってるし、てか、もっと売れなきゃいいんだ。
大体、ミュージシャンがスタジオにこもって、数週間だかで録音しただけのシロモノを大量コピーして売るだけで、大金稼ぐってのがおかしいんだよ。
ミュージシャンは本来は演奏して稼ぐべきなわけで、だから本来の姿は、ライブで稼ぐというのが原型なんだよね。
音楽がいつのまにかソフトウェアとして一人歩きしすぎちゃったからこんなことになってんだよ。これからソフトはどんどん売れなくなる。なぜなら、ソフトは「無料であたりまえ」の時代がそこまで来ちゃってるわけだから。
じゃあどうするかって言ったらあなた、「ハードウェア」の時代に戻ればいいんだよ。戻るというより、取り戻す。ハードウェアとは、ミュージシャンそのもののこと。
映画の中ではではせまいライブハウスに若者が詰めかけ、バンドに酔いしれる姿がある。これはCDというソフトウェアではできないわけでしょ。ハードウェアに会いに来てやっと味わえるわけだから。
ラジオヘッドだってすでに、ニューアルバム無料でリリースして、逆にコンサートで稼ぐって方式に移行してたりするわけで、こういう原点回帰は早くした者が勝つと思いますよ。CDは廃れるかもしれないが、こういうやり方は根付いたら廃れようがありませんよ。
ソフト化でいい思いしちゃってた人たちが、時代の移り変わりでわぁわぁ言うようになっちゃった。ハードをないがしろにしてきたせいだと思いますよ。
映画だってもろソフトウェアなわけで、ビデオテープとレンタル屋出現のおかげで危機感迫った時もあったですよね。あの頃は公開時に「この作品は公開後半年間はビデオ発売されません」なんて注意書きあったでしょう。だから「今劇場で見ろ」みたいな。でも今度は逆に、公開終了後すぐにDVD化して、二次利益をあてこむ方向へシフトした。
でも今度はネットの発展で、映像流通がスムーズになっちゃって、またどうしようって感じになってきたわけだけど、そうするとやっぱりハードの力を見なおさなきゃならんってことにもなる。
たとえば最近やたら増えた3D映画ってのも、裏事情としたらこの「ハード性の強化」であって、これは劇場いかないと体験できない。つまりライブハウスに行かないとだめってこと。3Dに業界が飛びついたのは、そういうのもあると思いますよ。
まあ、映画はおいといても、音楽はまだまだ全然可能性残ってる。死にようがない。でもそれはハードウェアであるミュージシャンの在り方次第ですけども。小室さんとかがスタジオのシンセで打ち込みやって、それを誰かに歌わせただけで何億という金稼げたりなんて時代経験してたらそりゃ、ソフト化には励むだろうけど、ハードは弱まるでしょう。
でもこれからです。応援してますよ! 日本の音楽業界!
2012年07月13日
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私もこの映画、
「勿体ない、なんか勿体ない…でもなぜ?!」って思ってたんだけど、具体的に明確にわかった。
そういう事なのか…。
でもあのオチは許せない…色んな意味で…。
私クドカンのあの『照れ隠し』的なパターンがあんまり好きじゃない…。
結局、「プロットやテイストは面白い」しかし「内容はテレビドラマレベル」というとこに着地しちゃってるんかなあ・・・・