2012年07月09日

ローズウッド

なんとか続いてます。


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ローズウッド

1997年
監督 : ジョン・シングルトン
出演 : ヴィング・レイムス  ドン・チードル  ジョン・ヴォイト
配給 : ワーナー・ブラザーズ


これは意図して観たのではなく、映画の説明を見ようとマウスを合わせたつもりが間違ってクリックしちゃって、再生が始まってしまったので「まあいいか」とそのまま観た結果でございます。

「まあいいか」と思ったのは、ジョン・ヴォイトが出演しているからだったのだけど、そのジョン・ヴォイトもあまり印象的ではなかったのが残念。


映画の冒頭でも誇らしげに注意されるが、これは実話に基いており、1923年にフロリダのローズウッド村で起こった、白人たちによる黒人たちへの虐殺事件が題材。
ある白人の主婦が、浮気相手との痴話喧嘩で怪我を負わされるが、浮気の発覚を恐れたために「黒人にやられた」と嘘をついたのがきっかけで、白人側全体が「黒人が白人女性をレイプした」という被害妄想にまで拡大。この犯人をかくまっているとして、白人たちはローズウッドの黒人たちへの攻撃をはじめる。


題材がなんであるかにせよ、観終わってみてひとつの映画作品として考えてみると、「これを誰かにすすめるか」と聞かれたら、「ううん、特には」という感じになってしまう。
とても卒なく、そこそこ丁寧に作られており、TVドラマのような見やすさがあるが、映画らしい重厚感がなく、なかなか突き抜けることのできないもどかしさを持っている。理由はいくつか考えられるが、都合のいいようにとってつけられた「創作部分」がこの作品をへっぴり腰にしてしまっている。

厳密には、その「創作部分」ではなく、その「創作部分」を付け足す制作側の肝っ玉が弱すぎたのだろうと思う。それが画面に現れている。

実話と言っても、この事件は90年も前のことだし、しかもこの事件についての公式的な文書記録がほぼ皆無に近いため、「プロットは事実。物語はほとんど創作」というかたちを取らざるを得なく、実際、事実では死んだ人間が生きていたりする表現もある。
この事件は公式的にはうやむやと言っていい状態になっていたが、1980年代にクローズアップされ、再調査される。当時の生存者の証言で認定され、90年代に入ってやっと、州から被害者への賠償が決まった。

この作品は1997年公開だから、まさに「旬」な題材だったのだろうだけども、監督のジョン・シングルトン(彼も黒人)をはじめ、製作サイドはこのデリケートな題材をどう扱うべきか、手探りだったのではと思う。
実はそのままストレートにやるのが一番正解なのだが、こういったものは一旦迷うと力を失う。


ドン・チーゲル演じるシルベスター・キャリアーという男は、事実では最初の衝突で死亡しているが、最後は生きていたという展開で、この物語と登場人物たちを救済する。また、このシルベスターという人間をふたつに割って、新しいキャラクター(ヒーロー)を創り出している。ヴィング・レイムス演じる、流れ者のマンなのだが、このマンという名前も、本来はシルベスターの別名である。

といったように、製作サイドにいいようにいじくられているわけで、要はこれは、ノン・フィクション作品ではない。「実話を元に創ったストーリー」であって、ノン・フィクションとは「事実をできる限り伝える」というもの。
なにが違うかというと、それは姿勢であって、その姿勢が画面に現れる。ラストはまるでピーターパンのようになってしまうのも、こういう姿勢がなせる業だろう。

似たような南部の黒人差別を扱ったものといえば、「ミシシッピー・バーニング」などがあるが、これはノン・フィクションという姿勢をとっている。もちろん、全部を事実通りというわけにはいかないので、やはり創作で行間を埋めていくわけだが、それでも事実に敬意を払い、無視せず、浮き彫りにさせる、というのがそれだ。

どっちが上とか下とか、偉い偉くないではなく、どっちの姿勢もとても大変な作業であることに違いはない。
しかし、制作サイドが「都合をつけていく」という手法を取るには、あまりにも内容とテーマが手強すぎたし、また、それと対峙する制作側はあまりにも綺麗好きで、ナイーブすぎな上、体力不足だった。


シルベスターの母は、劇中では胸を撃たれるが、実際は頭を吹っ飛ばされている。
たしかに、胸の方がおだやかで、まだ美的だ。

事実通りにやらないのが問題なのではなく(映画なのだから別にやらなくてもいいのだ)、ただ、選択の動機がなにから来ているかというのが問題なんだと僕は思う。


この事件は胸クソ悪い事件なので、そのままやったら胸クソ悪い映画になってしまう。だったらこうしよう、などと考えはじめたのなら、そもそもその題材に着手した意義はなんだったのか。

つまり、事件はたんなるビジネスプロジェクトの素材でしかなく、それ以上でも以下でもない。おかげで絵も俳優も、なにもみなぎっていないものなってしまった。まるでビバリーヒルズあたりに住んでる現代人が、ただあの頃の衣装を来て、台本通りに動いてるようにしか見えない。

余談だが、この作品には名脇役俳優のマイケル・ルーカーが出ている。レイシスト役が多い気がするのは気のせいだろうか。先述の「ミシシッピー・バーニング」にも出ているw TVシリーズの「ウォーキング・デッド」でも、やはりレイシズムな性格を持っていた。ただし、今回は保安官で、黒人攻撃に内心抵抗があるのだが、保守的なためにみんなを止められないといった役回り。結局この人が一番おもしろかった。



さて、ずいぶんこきおろしてしまったが、なんの価値もないとはさすがに言わない。
観客は観ていると、まず発端となった浮気主婦が許せないと思うだろう。そしてそこから今度は、黒人と見れば殺すという展開にまで至る人々に敵対心を感じると思う。
これは単なる人種差別でくくれるようなものでなく、「ボーリング・フォー・コロンバイン」でマイケル・ムーアが指摘した「アメリカがこうも銃社会になった原因」の1ページをそのまま見ることが出来る。


発端となった主婦はさておき、集団的ヒステリーと化した白人たちは、物語上では「加害者」だ。観客の目にもそう映る。そして黒人側は「被害者」だ。やはり観客にもそう映って見える。

しかしここからが面白いのだが、「加害者」というのは、加害者に変わる寸前までは「被害者」だということだ。
劇中の白人たちの行動は、「被害意識」から起こっている。(たとえそれが誤解であっても)

世界を震撼させるテロリストも、世界から「加害者」と見られているが、本人たちに「加害者意識」はなく(そもそも加害者意識という言葉が一般ではないが)、先にあるのは「被害者意識」である。
つまり心理学的には、この宇宙には、先に生まれるのは「被害者」で、加害者は二次的な副産物ということになる。

え? 加害者がいるから被害者がいるんじゃないの? 加害があってはじめて、被害が認められるんじゃないの? と言いたくもなると思うが、「加害」という事象は、「被害者」がいなければ認知できないので、やはり加害は副次的だというのが僕の持論。

被害者が被害を認めない限り、加害は認定されず、知覚すらされず、存在も維持できない。

僕の古い友人から聞いた話だが、野球観戦をしている時、後ろの人から誤ってビールをかけられてしまった。本人はひどく怒って抗議したし、相手もずいぶんと謝った。そしたらしばらくして、今度はその友人本人が前の人に誤ってビールをかけてしまった。友人は恐々として「すいませんすいません」と声を上げたが、かけられた相手は意に介さず「いいっすよw」とだけ言って、ゲーム観戦に戻った。

聞いた当時は「うははははwww」と笑っていたけども、とても深い話だと思う。

ビールをかけるという行為は、その時点では宇宙的には加害行為ではない。これは、過失的・意図的も関係ない。

ただ、その事象を観察する側の中に、被害者が発生すると、それはただちに加害として知覚される。

たとえ被害者本人でなくとも、誰かが被害者を知覚した場合でも、その事象は加害としてのラベルが貼られる。この被害者の認識度が濃いほど、その加害的事象と加害者の存在は濃くなる。いい例が犯罪などである。


わかりやすい事例としては、たとえば自販機。
最近の自販機は、その筐体がずいぶん薄っぺらいものが増えてきた。昔は結構厚みがあったことをみなさん覚えているでしょうか。
これはなにかっていうと、道端にある自販機が1cmでも道路(公道)にはみ出ているのは「違法」だということに気づいた人たち(一部の主婦を中心としたプロ市民)が、ヤイノヤイノと攻撃をはじめたことに起因する。これによってメーカー側は、おかげで「薄くする技術」にたどりつくことができたとも言えるのだけども、しかしそれまで一体どれだけの人が、この自販機に「加害性」を感じることなどできただろうか。大概の人はそれに対して(たとえ違法であると知らされてもなお)加害的行為として、時には起訴するとまで話がいけば、それは大げさすぎる、と感じるだろう。

つまりその加害性を濃くするものは、どれだけ濃い被害者意識(被害をこうむっていると認知する意識)を持っているかによる。


B子「係長ったらひどいわね! 最低よ! 朝からいきなりあなたにむかって"おっぱいでかいね〜"だなんて。A子、あなた訴えるべきよ!」
A子「別にいいんじゃない?」

上は、B子はA子という被害者と、係長という加害者を知覚しているが、A子本人が被害者になる選択をしていないため、係長は加害者として成立しにくくなっている。


でも、でも、意図的に人を傷つけようという加害者はいるでしょ? それがいなかったら、被害者も生まれないじゃない! 秋葉原殺人とかどうなるの?

そうだけど、問題は被害者を生むのはなにかではなく、加害者を生むのはなにか?の話で、それは被害意識だということ。
物を盗んだりというのは経済的加害と言えるのかもだけど、盗む側はなにかしら広義な意味での被害を自分に認識している。「お金がない」「ムシャクシャしてた」そういったものでも被害意識と言える。

最大限の攻撃は、かならず最大限の被害者意識が伴っている。
被害者意識がもたらす最大限の攻撃のひとつが、戦争でもある。

戦争はなぜなくならないのか? という途方もない人類の疑問のヒントが、そこにあるような気がする。

北朝鮮があれだけ攻撃的な発言と態度を繰り返すその裏にあるものは何なのか? 彼らの常套手段は、まわりをすべて「加害者」とするというのがパターンだ。

アメリカがあれだけ銃社会であり、起訴社会なのは、それだけ色濃い被害者意識による社会だともいえる。


僕らはどれだけ、この「被害者ゲーム」から抜け出せるのだろうか。






posted by ORICHALCON at 15:33| Comment(1) | TrackBack(0) | Cinema
この記事へのコメント
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