2012年07月07日

ゲゲゲの女房

最低一日一本の映画エントリを目指しています。二本目。

Huluで視聴。


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ゲゲゲの女房

監督 : 鈴木卓爾
出演 : 吹石一恵 宮藤官九郎


まず、NHKでの朝ドラとして大ヒットしたのは知っていますが、一話も観たことがありません。
また、原作である、武良布枝さんの自伝書も読んでいません。

映画化の方が、ドラマ化より先に企画されていたらしく、ドラマの成功に便乗するという類ではないため、ドラマとは切り離して作られたと考えていいと思う。
そういう意味で、ドラマ版の方に馴染みのある人はこの映画版にアレルギーを示す、といったケースもよく聞く。

ただ僕は上に書いたように余計な情報がないため、ひとつの作品として純粋に眺めることが出来た。


まずこの作品を観る気になったのは、やっぱり「水木しげる」というのがキーだ。
僕の幼少時の情緒形成のひとつに寄与している一人といっても過言ではない。

実は、僕はこの作品のヒロインである人物、武良布枝さん本人と電話で言葉を交わしたことがある。
今考えると冷や汗ものなのだが、時効だと思うから白状しよう。当時はまだ7〜8歳くらいだったと思う。
僕は子役の仕事もしていたので、家にタレント名鑑というものがあり、そこになんと、水木しげるさんの電話番号が乗っていたのである。

僕は大ファンだったので、電話してみるというご法度を踏んだ。

おっとりとした女の人が出た。

「水木先生はいますか?」
「主人は今は留守ですが・・・」
「わかりました。すいません」

これで終わりである。

たったそれだけなのに、その日の夕食が喉を通らないくらい、緊張したのを覚えている。
またかけるということはさすがにしなかった。というのも、その時は友達も一緒だったので、"勢い"がついただけだったのだ。


さておき、たとえHuluというサービスにおいてさえも、邦画を観るのは勇気がいる。月額料金は微々たるものなので、ほぼ無料視聴に近いのだが、それでも時間を無駄にしたくないというのがある。
観なきゃいいのだが、「キャシャーン」とか冒頭10分で挫折してしまった。僕がこうなるのはよっぽどで、相当ひどくても意地でも最後まで観るタイプだからだ。

まず結論から言うと、この作品を劇場で1800円出して観る、というのは申し訳ないがちょっとつらいものがある。
しかし調べてみると、この作品が公開された2010年11月公開の映画は、さしたるものがなく、良くてハリー・ポッターぐらい。それだったら「ゲゲゲの女房」を観ていたかも知れない。(実はこの時、あの幻の名作「ホーリー・マウンテン」がデジタル・リマスターでリバイバルされていた。それを知っていたら迷わずそれだった)

日本映画業界は、世界で一番高い映画料金を取る市場で飯食ってるってことを、もうちょっと自覚して欲しい。


主役の二人のキャスティングは良かったと思う。特にクドカンは見た目でまず合格。本人に似ているのもあるが、なにより水木漫画に出てきそうなところが良い。

映画全体としては、やっぱりかなり低予算で(一番かかっているとしたらアニメ部分だろう)、演出や撮影も、「映画的」というよりかは、「自主映画的」な趣き。それが意図的にせよ意図的でないにせよ、作品にマッチしてるかというと、実はこれが失敗している。


まず、「この時代になぜこの作品なのか」を考えた時、その時点で本来はボツ企画の要素を持っている。
なぜドラマがヒットしたのかは、観ていないからわからない。しかしあの頃、今から数年前は「三丁目の夕日」など、「あの頃はよかった」ブームもあった。古き良き時代の古き良き人々の古き良き感性と古き良き喜怒哀楽。

原作のキャッチコピーは、「終わり良ければ全て良し」だそうで、まあ、いろいろ大変だったが、最後はよかったね的な。
そう、主人公の布枝は貧乏漫画家に嫁いだせいで苦労するが、やがて夫は成功するので、良かったということになる。

このテーマは普遍的であるし、また、今のちょっと元気の無い世の中に対してもマッチすると思う。
しかし、それを昭和30年代で描くということに関しては、意義にかなりハードルがある。
それを相殺するのが、「これは事実のストーリー」であり、「国民的漫画家のハナシ」ということでなんとかなるわけだ。

ならば、この「事実」と、「漫画家」の世界を楽しめなければならないのだが、そこを面白くしようという工夫が見つからない。

たまに妖怪が出てきたりするのだが、それらは取ってつけたようだし、シュールにもファンタスティックにもなってなく、また、ストーリーを推し進めることもない。

せっかく水木しげるが題材のひとつなわけだから、この水木しげるからもっとヒントをもらっても良かったんじゃないかと思う。

水木しげるの作品を読むとわかるのだが、本当の妖怪は人間だということ。
あの頃の生きるのに必死な人々は、間違いなく妖怪モドキだったろう。
まず人間を面白おかしく、厚みを持たせて描かないことには、これはどんな作品でもダメにきまっている。


また、昭和30年代が背景なのにもかかわらず、現代の東京の町そのままで撮影するという手法を用いている。
これがまったく効果を発揮しておらず、準備のない観客は混乱する。最初は現代へと時間経過したのかとさえ思う。
そしてその手法が徹底されてるのかといえばそうではなく、忘れたころにやはり取ってつけたように使われる。
これはハッキリ言ってスバリ、「予算の問題」を回避するアイデアに過ぎなかったと思って間違いない。

水木画がそのままアニメとなって見せてくれる手法も、一般客からしたら難解すぎて、これでは水木作品が難解だとも取られかねない。

そもそも水木しげるという人は快活で明快な人であり、作品の内容もとてもスピーディだ。

なにをどうしたら、キャラクターからストーリー展開まで、こんなに冗長な映画になるのかが疑問だ。

「ゲゲゲ」という言葉が飾りにしかなっていない。なにが「ゲゲゲ」なんだ。「ゲゲゲ」とはなんなのか?
そういうところから貪欲になにかを炙りだすというのはないのだろうか。

でもなにかを考えて作っているとは思う。だけど、こっちにうまく伝わらない。
なんか、昔のATGあたりの失敗作を観ている気分。

これは日本人の悪いクセなのだが、なんでも「お茶漬けサラサラ」的な作品にしてしまうところがある。
たとえ古い話で、貧相な背景と地味なストーリー、静的なキャラクターを扱うにしても、劇場で観せるからには結局それをステーキに仕上げて出さなければならないと思うのです。その工夫がもっと欲しい。


小津安二郎の作品は非常に地味ですが、あの人のクレイジーさがあったからこそ、地味なくせに"うな重"のような重厚感があるわけです。


posted by ORICHALCON at 10:00| Comment(0) | TrackBack(0) | Cinema
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