このブログで、お芝居のレビューは初かな??
スーパーグラップラーというユニットで、ヘアメイクアーティストの谷口小央里嬢が、よくお仕事している先の公演です。
もう、前々から「一度観に来てね〜」とお誘いはいただいていたんですが、やっと拝見できました!!
場所は銀座の時事通信ホール。
よく名前は聞きますが、初乗り込みです。

いい意味でライト感のある、エンターティメントなユニットと聞いていましたが、ほんとにその通りだった。
今回のは、時代設定が平安時代なのだが、みんなスニーカー履いてたりとか、のっけからヘッドホンが出て来たりとか....とにかくそういうノリでございますw
こういうのは嫌いじゃないね!!
ただ、こういうやり口は中途半端にやっちゃあだめで、クレイジーなくらい突き抜けてみせないと、最近の客は目が肥えているから、「へーえ」で終わってしまう。
こういう手法は、みっちりとその時代性を構築するよりも楽なので、その「楽」を超えてみせないと多くの観客はなかなか驚かない。
イージーなテイストを構築したいからといって、こういった手法をお気軽にやってしまうと、「ただそれだけ」になってしまう。
初見だからわからないけど、スーパーグラップラーはいつもこういうスタイルなのかな。
随所に(というかほとんど)、ナンセンスギャグというか、言葉遊びなどによる笑いどころがちりばめられている。
残念ながら面白くないのもあれば、つい、プッとなっちゃうのもあって、そしてそれらがテンポよく、前触れもなく矢継ぎ早に生産されるが、それらの多くはまったくストーリーと関係ない。少なくとも、ストーリーを押し進めていくことはほとんどない。
そしてこういうのは、日本の演劇には少なくない。
こういったナンセンスなギミックを入れるというのは、新感線とかがとことんまで突き詰めてやっていたスタイルで、あそこまでやられると、もう「それ」を観に行くというか、降参というか、快感にまでなっていく。
新感線がうまかったのは、ナンセンスに見えてナンセンスではなく、ストーリーやプロット、キャラクターや世界観、またはテーマや設定などに裏打ちされたギャグをできるだけ提供していたことだ。
ナイロン100℃とかはまったくナンセンスすぎて、ついていける客とついていけない客が両極端に分かれていった。
日本は「お笑い」という独特の文化があって、そして多くの人、特に若い人はだいぶこのノリやお約束に浸食されている。
もうだいぶ前から、日本の若い人たちがやる演劇は、半分は「お笑い」の手法にのっかってるように見えるのは僕だけだろうか。
「お笑い」と「演劇」を無理矢理わける必要はないけど、しかし観客たちは明らかにそこは分けている。
「お笑い」にストーリー性や、プロットを求める客はあんまりいないが、演劇ともなれば、ストーリーを求めてくる。ひきつけられるキャラクターをもとめてくる。そして、ラストで「なにがどうなったか」を求めてくる。
「お笑い」はどれだけ笑いを大量生産できるか、というのが目的で、そのためならルールがないというのが、やる側にも観る側にとっても魅力だ。
でもこれが、たとえば「コメディ」とかになると話は別で、上質なコメディには魅力的なストーリーと魅力的なキャラクター、そしてキャラクターたちにそれぞれ強力なプロットが必要になる。
そのキャラクター性とプロットが笑いのタネを生む。
これが、作家にとっても演出にとっても、役者にとっても、「コメディは難しい」
と言わせる所以なのだけど、ここまでやってる演劇集団というのは少ない。
結果的に、ルールにとらわれない「お笑い」的ムードでやってるだけで、そのくせ、ラストになっていきなりなんとか泣かせよう、感動させようとしたがる。
今回の「キセキの人」は、ストーリーはあってないようなもので、一本の軸となっているのは、ある人物、"童子"の魂の所存とその行方である。
この題材はとても面白く、その扱い方や描き方のセンスはとても好きだ。このプロットはとても繊細で、また、"童子"演じる俳優さんもとても良かった。この童子は、その背景上、無垢でまっさらで、素直な「存在」なのだが、それを自然に演じていた。ああいうのは才能なんだろう。
ただ、この童子が見つめ、漂う世界を支えるキャラクターたちのプロットが希薄で、彼らがなにを求め、なにをしようとしているかはあまり伝わらない、というか、それらはあまり重要ではないように見えてしまう。
この作品では、童子には強い目的意識はあまり与えられていないので、ストーリーをひっぱる上では、まわりのキャラクターたちのプロットが重要になる。
童子を囲い込む鬼たちのプロット....「都を攻撃する」「姫をさらう」などなどの行為も、それは「脚本にそう書いてあるから」という程度のエネルギーしか感じられない。
そういったもろもろで、とても惜しい作品に感じてしまう。
俳優がなにかを演じるという手法で、なにかしらのエンターティメントを構築したいのなら、このプロットを丁寧に練り上げ、俳優もそれを生かしきるというのが必須だと僕は思っている。
ギャグは1シーンに2つくらいでいい。それ以外の時間は、キャラクター同士のプロットが噛み合う時間で、噛み合ったまま、ラストへみんなで向かっていく。
プロットが噛み合っていれば、それに見合ったギャグであれば、プロットに納得している観客は間違いなく笑う。それこそ大いに笑う。
惜しかったのは、渡辺綱と鬼との心の交錯のプロットだ。これは面白そうなアイデアで、極端な話、これをサブ・プロットとして作品全体を覆ってしまってもよかったかも知れない。
そのサブ・プロットが結果的に源頼光とその妻、それと童子、そして童子を見つめる天狗というメイン・プロットを浮き上がらせる形にできたら、美しかったろう。
しかし綱は、斬り取った鬼の腕を「ロケットパ〜ンチ」といって投げ、ギャグの小道具にしてしまう。
そして悲しいかな、そこは今回、最も観客たちが笑ったシークエンスでもあるw
アンケートも書いてきたのだけど、ロビーで谷口嬢と一年以上ぶりの再会でつい話し込んでしまい、退館ぎりぎりに書きなぐったので、あまり書けなかった;
つい辛口になってしまったけど、谷口さんの関わるところでもあるし、またのびのびとした好感の持てるユニットだったので、応援したいと思います。
アンケートにも書いたのだけど、あとはもっと俳優を強化していくのが課題だと思うのです。
アンサンブルは寄せ集めのように一体感はなかったし、看板俳優と呼べるようなひきつけられる俳優も確認できなかった。
舞台は結局、"俳優でなんぼ"のところもありますからね!!!
次の公演も、必ず観に行こうと思っています。