また長いエントリになりそう。
いやー、さすがにこうコロナでどんよりしてると、だらっと散歩か、ネットか、どうぶつの森(とうとう手を出してしまった)、そして仕事をちょっとこなすくらいしかなく、入ってくる情報も限られてきてる。
で、きゃりーぱみゅぱみゅさんが「検察庁法改正案に反対」というようなツィートをして、ヤフーニュースにのっかる事態というのを見て、ちょっと書きます。
このブログでは、あまり政治的な内容はやらないつもりでしたが、まあこれくらいならいいでしょう。
この「検察庁法改正案に反対」というのがハッシュタグになってるらしく、特に芸能人を中心に流行ってるらしい。
まずきゃりーさんのニュースの流れで、アップされた相関図を見たけど、いやひどいw 印象操作というか、ちょっと間違ってますよね。
で、きゃりーさんはそれを指摘されて、ツィートを削除、謝罪をアップしたらしいですが・・・あの相関図はちょっとまずいですよね。でもああいうのを信じちゃう人がいるんでしょうね。
さておき、この「検察庁法改正案」についてはここではあまり詳しく扱わないですが(めちゃ詳しいわけでもないですから)、これってのは、国家公務員法改正の延長っていうか一部なわけで、これはもう、今年のはじめには新聞に載ってたわけだから、なんで今になってこんなに反対旋風なのか? しかも芸能人が。すごく気になります(氷菓風に)。
必ず理由があるんですが、ここでは指摘しないでおきます・・・
少なくとも、黒川さんの定年はそんなに関係ないわけで、それだけでもあの相関図はちょっとあれですよね。
で、僕が思ったのは、芸能人が政治的な発言や行動を起こすことについて。これは難しい問題であります。
それと、安倍総理への印象操作です。この二点について。
まず安部総理。
僕は安部総理とトランプ大統領のtwitterをフォローしてますが、安部さんのはあんまり面白くない。トランプさんのはおもしろいですw
で、この二人はかつてないほど印象操作の攻撃にあっている政治家です。トランプ大統領はかなりまともな発言がほとんどを占めているのに、過激な発言のみが日本のマスコミに届くという感じ。
さておき、安部総理ですが、戦後、これほど攻撃にさらされる総理はなかったんじゃないでしょうか。元小泉純一郎総理も相当でしたが、その比ではないと感じます。
政治家というのは、見る人によって功罪分かれるので、一概に「いい」「悪い」は言えないんですね。ただ、モリカケといいい、その他もろもろ、どうにか安部総理を追い落とそうという動きがすごい。
かつて、日本ではこんなのはなかったですよ。よくて、60年安保闘争の岸信介内閣(安部総理のおじいちゃんw)に対するあれくらいじゃないですか。あれはもう内戦ギリギリですから。
安部総理を蛇蝎のごとく嫌う人たちがいて、沢尻エリカさんが逮捕されても、「安部総理の陰謀」だとか出てくる・・・
これは絶対に理由があります。
安部総理をタカ派に見てる人がいると思いますが、政策は意外にもリベラルで、実はとんがった保守派たちからは物足りないくらいに思われてる人。
それでも、極右のように言う人たちがいるんですが、なぜでしょう。
安部総理がこれまでの総理大臣と決定的に違う点があるんです。
それは、「憲法改正をほんとにしそうな総理」ということ。これが間違いなく原点です。
これがなかったら、これほどの追い落としの動きはなかったのではと、ほんと思います。
安部総理を攻撃している人たちは、憲法改正反対がセットになっているのはほぼ、100%だと思います。
憲法改正ってのは、そもそも自民党の党是ようなもんであり、「それのために」結党したような性格の党ですが、実に50年以上もその党是を実現できてないというw
安部総理は憲法改正も掲げて、少なくとも国政選挙を5回勝ち抜いてる。だから、憲法改正しないってのは公約違反なので、やるべきなんですがね。
そう考えると、公約を全うしようとする総理を邪魔するのは、民主主義への挑戦と見ていい。
ともかくここで、僕自身は憲法改正についてどうなんだ、ということなんですが、憲法改正賛成派です。
よく9条がやり玉にあげられますが、それにかかわらず、憲法は見直すべきです。
理由は以下です。
日本には、おかしなことに「憲法解釈」という言葉があります。戦後、綿々とこの「憲法解釈」について論議されてきました。
たとえば、9条の二段目、「戦力の不保持」に照らせば、自衛隊は違憲ではないか?というのに対し、政府見解は「合憲」という解釈です。それでも、憲法学者やいろいろな人たちが「いや違憲でしょ」とも言う。言いたくもなりますでしょう。
9条ひとつとってもこうなんですから。これほど意見や解釈が分かれる憲法は、変えるべきでしょう。分かれないように。
子どもたちにどう教えるんですか。「合憲という人もいれば、違憲という人もいる」って言うの? だめでしょうそれは。
たとえば少なくとも、自衛隊はもう必要インフラとして確立されてしまっているので、戦力の不保持の部分はなにかしら改訂すべきでしょう。
いずれにせよ、岸内閣にせよ安倍内閣にせよ、執拗な攻撃が起きた歴史としてどちらとも、日本の安全保障に関わっているという点がきな臭い。
60年安保は、日本でいう「右翼」と「左翼」のDNAをはっきり分けて決定づけた、というような分け目でもありますが、左翼側にはソ連の工作がかなり入っていた、というのは、ソ連崩壊後のグラスノスチ(情報公開)で分かっています。社会党や共産党に多くの援助をしていたという、ロシアの元対日担当の高官が暴露本にも書いています。
ソ連は崩壊し、新しい冷戦期に入りました。そう、単にロシアが立った椅子に中国が座っただけなんですね。そして今になってそれが現実になってきた。
中国に対しては、安部総理が掲げた「セキュリティダイヤモンド構想」が問題になります。(知りたい人は検索してみてください) つまり、中国共産党にとって一番やっかいな政治家が、安倍晋三なんですね。
まあ、これについては今日はこれくらいで・・・
で、芸能人の政治的発言について。
芸能人やセレブだって有権者ですし、発言の権利も持っています。だからちっとも悪いことじゃないんですが、僕は恐れながら、すごい「野暮だ傾向だな」と思ってしまうんです。
それには重要な理由があるからなんですが、前に、ローラさんが辺野古基地移設反対という立場でインスタかツィートだかをして、ちょっと論議になったことがあったですよね。
で、テレビでは古市憲寿さんあたりが、「アメリカではセレブが政治的発信をするのはあたりまえ、日本は50年遅れている」みたいなこと言ってましたが、その考えがそもそも100年以上遅れている。
「欧米がこうだから日本が遅れている」なんて安直な考えは、江戸時代や明治で終わらせとくべきですよ。
なにより僕から言わせれば、アメリカの例はダメな例なんですよ。直近でもっとも分かりやすい例が、トランプ大統領が当選した大統領選ですよね。今はSNSがこれでもかと発達し、それを使った大統領選に向けての様々な動きがありました。サミュエル・L・ジャクソンや、ジョージ・クルーニーなど、セレブがわんさと、ああでもないこうでもないと発言しました。ほとんどが反トランプでしたが。
で、アメリカはどうなりましたか。
真っ二つですよ。精神的内戦と言ってもいい。国民の両派が憎しみ合うとこまできちゃった。学生がトランプ大統領支持の帽子をかぶってただけで棒で殴られたとか、もうそんな感じ。
人気ラッパーが「オレはトランプ支持だぜ YO!」って言うと、ファンは「ああそうか、じゃあ」ってなっちゃう。
辺野古基地移設なんてのはもう、あれは10年くらいかけてこぎつけたものを、翁長知事がちゃぶ台ひっくりかえしたわけで、単純な話じゃないんです。でも、ローラさんが反対すると、「そうなんだ! じゃ私も!」って人も出てきちゃう。
政治的発言そのものが悪いとは思ってません。ただ、意見が分かれている政治的問題に対して、どちらかに与するようなセレブやインフルエンサーの発言や行動は、慎重さが必要だと思うんです。
こういうのが容認されすぎると、テレビ局や企業が、自分に有利な国政に誘導しやすくなってしまう。いや、すでにそういう兆しが昔からあるんですがね。
ある一定の政治的発言をしてくれる芸能人などを広告塔に起用したり、テレビ出演などで露出を増やすことによって、政治的誘導にテコ入れができてしまう。
だから、インフルエンサーの政治に関する発言は、警戒しなければ、とも僕は思います。
「野暮」というのは、たとえば銀座のホステスさんの間で、「お客さんと「野球・政治」の話は野暮だからするな」というのがあると聞いたことがあるんですが、野球は人それぞれファンのチームが違う。そもそも興味すらない人かも知れない。政治もそう。だから「野暮」なわけです。
こういう暗黙のルールというか、不文律的なものを守るってのは、日本人は昔からは得意なんですが、僕はこの「芸能人の政治的発言」も「野暮」だと思えないとまずいと思いますよ。逆に「今風」「先進的」みたいに思っちゃうでしょう?
国政は、民主主義的に、選挙で決着つけるべきです。
そしてそのためのSNSでの政治的議論はいいと思いますが、政治的扇動やそれにつながる動きは警戒すべきです。
ただ、こういう僕のような発言をすると、「権利の侵害だ」とか思う人がいる。「発言する権利」が誰にでもあるわけですから、わかります。
最近、「自由」、「人権」、とかね。結構騒がれるでしょ。愛知の「表現の不自由展」だっけ?とかの問題とかね。
でもね、「自由」とか「権利」とかをですね、安易に主張する人たちには僕、警戒します。
「自由」、「権利」というのはですね、その裏に必ず「義務と責任」というものがあるんです。それに裏打ちされていない「自由」だの「権利」だのってのは認められないと僕は思うんです。
最近はその「義務や責任」は後回しで、自由や権利を声高に求める人達が多すぎます。愛知の自由展の表現者たちの、出展者としての義務や責任の所在はどこにあるか。それが彼らにはわかっていない。
「Liberty」と「Freedom」は違うわけです。
2020年05月11日
検察庁法改正案に反対の動きについて思うこと
posted by ORICHALCON at 21:47
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