去年の青果鹿の舞台でご一緒した、青戸則幸さん主宰の公演です。
一応役者のはしくれでもあった身からして一目置かざるをえない俳優、青戸さんとこの芝居ですから、それこそ早くから体験してみたかったのですが、やっと実現です。
小屋は王子のpit北/区域という、僕はお初のとこでした。
公にインフォはしていませんが、演出は青戸さんがされていると思われます。
こういうのはあたりまえなのかも知れませんが、まずキャスティングに隙がまったくなく、最後までのめり込んで観れました。
本は、驚異的とも言える量のセリフに彩られた、精神群像劇。2時間という尺はもう少しダイエットできたかも知れないとは思いつつも、セリフがどれもいちいち良くて、個人的にはかなりツボw
日本語の文体構造の妙を物凄く心得ていて、文学的、小説的とも言えます。
「未必の故意」というタイトル。これだけでそそられます。
これは簡単に言ってしまうと、「ある島」の島民の内輪だけで、ある意味、完全犯罪を構築せんがための模様を描いているのですが、それは「故意」を「未必の故意」にするということ。しかし、完全犯罪というのはひとつの視点にとどまっているうちは成功しないわけです。多角的でないとならない。
で、この犯罪の構築に巻き込まれてしまうキャラクターがいるのですが、彼が唯一、第三者的視点にいるわけです。
この客観的視点の彼は、その視点の利点でいいところまで構築の補強を行うのですが、結果的に「ひとつの視点に固定されてしまっている」人物に排除されてしまいます。
しかし、それを言ったら、すべての人間の視点が共有されるということはなかなかないわけで、実際に劇中では不具者のキャラクターらが独自の視点から、対立を示します。特に耳が聞こえない人物は常に「離れた視点」に置かれており、完全に共有できない側へ置かれてしまいます。(この役を、やはり去年ご一緒した鯨井くんが好演しており、必見です)
そして上のような構造は、普段、我々が日常的に対峙している現象でもあります。
たとえば、毎日勤めに出ている企業、学校、その他のあらゆるコミュニティなどなど。
特に企業などは、「内輪」の世界ですから、上のようなことが起こりがちです。
「この製品は売れる」などと勝手に盛り上がったり、会社の事情だけでプロジェクトを進めてしまったり。TV局などに起こりがちですが。
しかし、一旦世間に出した瞬間に「それはダメ」ということを一瞬で悟らさせれるわけです。
この作品も、最後の最後に、たったひとつの外側の視点に晒されることによって、あっけなくすべてが崩れ去ります。
そしてなによりも最高なのが、その「外側の視点」を、我々観客を使うかのような演出になっている点。ここで観ている僕らも我に返る感じがあるんです。憎いですね〜。
さすがに気楽にさっくり楽しめるといった類ではなく、それなりに集中力と体力を必要とする作品なんですが、その価値はあるので興味持たれた方はぜひ。18日までの公演です。
激弾ショット HP
こういう空間に浸ってみるのも悪くないですぞ。