2012年08月28日

Apple vs SAMSUNG

iphone_samsung.jpg

【記事】米アップルvs.サムスン裁判はアップル大勝利、サムスンに826億円の賠償命令


826億ですって・・・

まあ、詳しくは上の記事を参照いただきたいのですが、とにかくアップルとサムスンはずいぶん裁判で争ってきました。
単純に言えば、「iPhoneパクってるでしょ」vs「パクってない」対決だったのですが、「パクった」という判決のようです。

特許侵害7件のうち、5件が「故意侵害」と認められるという、Appleにとって大勝利な結果と言えます。


いずれにせよ、裁判の判決がどうなろうと、普通に両製品を並べてみれば「パクってる」というのは明らかだったわけです。

サムスンはiPhoneの部品サプライでもあったため、その中身までもよくわかる。ということで、外見だけでなく中までパクってしまってたわけですが、それでもなぜ「こうもあからさまに外見を似せて」しまったのか?

アイコンのデザインなども「もっとひねれなかったのか?」と言いたくなるほどスライド式に模倣しています。

市場に出れば比較されてしまうのはわかっているはずなのに、なんのためらいもなく「似てる」ものを出してしまう。なぜか。



サムスンといえば韓国の一大企業なんだけど、ほぼ国営のような存在であり、日本で「電通マン」などという言葉があるように、向こうでは「サムスン・マン」と呼ばれる、まるで東大卒のようなステータスがあります。


これほどの企業がなんでパクっちゃうかというと、そもそもこの企業はパクることで大きくなってしまったという経緯があるんですね。ですから、それがもう体質になっちゃってるわけです。


Appleの件なんか、ほんとは氷山の一角で、それこそ30年も前からこういうことは脈々と行われてきたわけです。
その被害者はほぼ100%、日本の企業でした。
任天堂のファミコンを筆頭とするコンシューマゲーム機やそのソフト、オーディオ機器など、腐るほどあります。サムスンだけじゃありません。オートバイ、車、また最近知られるようになってきたお菓子や飲料など、様々なものが韓国企業によってコピーされてきました。

僕はバイカーでもあったんですが、韓国に行くとびっくりします。最新の韓国産バイクが、30年も前のスズキのホイールを履いてるんですよ。つまり、30年間、スズキのホイールの金型を使いまわしてるわけです。
しかもデザインはみんな日本産バイクのデザインそのまんま。笑えないくらいそのまんまなんです。笑えないのは、そのまんまのくせにかっこわるいんですよ。なぜなら、どこかバランスが悪い。

バランスが悪くなる理由は、エンジンやフレームの金型までもが古い日本製を両用しているためで、要は古いバイクに無理やり最新デザインの外装をくっつけてるからなんですね。その上、古い時代の細身のホイールですから、タイヤが自転車みたいなの・・・・

「これ、ちょっとやりすぎじゃないの。これ、日本車のコピーでしょう」と言うと、向こうの人は「日本が真似してるんだ」と言ってきかないのです。

ディスカウントショップなどに行くと、サムスン製のファミコン(デザインまったく一緒。色が違う)、PCエンジンやネオジオなどが積まれていたりします。しっかり臆面もなく「SAMSUNG」と入ってるのがすごいんですが。


これらに対して、なぜ日本企業が手を出せなかったかというと、それは韓国内での販売なために国に守られていたからなんですね。
まず起訴しても勝てないでしょう。

こんなのが何十年と続いてしまいましたから、iPhoneに対してGalaxyがああなってしまったのはもう、性なわけです。

だって、新しいデザインや設計などの開発部門なんてないんですから。いやまあ、さすがに現在において、ないというのは言い過ぎですが、少なくとも歴史があって発達していたのは「コピー部門」だったわけです。新しい日本車から設計図を起こすといった職人の方が育っていたわけなんですから。
なにをどうやろうと、韓国内での販売ですからこわいもんなしです。


しかし、Galaxyは韓国内だけの製品ではありませんでした。世界中で販売してしまったところに、こういう結果になった。



そもそも、サムスンには、「特許泥棒隊」みたいなのがいて、たとえば日本に社員派遣して、特許庁へ行かせるんですね。
で、韓国に登録されていない特許を調べさせて、それをまるまる韓国で申請登録するわけです。すごいでしょ。こんなのはその筋の人はみんな知ってる話です。

サムスンはその安く供給できるICチップなどの需要で大きくなった企業ですが、こんなのもそもそもは上の手法のような寄せ集めの技術で作られていたわけで、開発に金をかけているオリジナル企業たちは価格競争から見てもたまったもんじゃありません。


本来、コピー商品というのは、アングラな存在でした。偽ヴィトンのように、どこの誰が作ってんだかわからんような世界だったのですが、韓国の場合は模倣が長くから体質になってしまったために、世界的企業がつい普通にやってしまうとこまできてしまったわけです。


しかし、「模倣」というのはそもそも、日本人が得意としている分野です。上に似たようなこともいっぱいしてきました。
黒船が来航して10年もしないで蒸気船を作ってるんですが、これは実用レベルの竣工という意味で、模倣プロジェクト自体は翌年から始まってたりするわけです。

世界的に展開されている日本車だって模倣から始まってますし、ホンダのバイクだってそう、トランジスタをはじめとする電気機器だってそう。
だけど日本は明治という早くから西洋にかぶれちゃいましたので、特許という制度とかそういったものへも敏感だった。だからそのへんはなんとか律儀にやっていたわけです。そのおかげでまあ、日本製品が海外へ進出して裁判で叩かれて潰されるなんてこともなく、現在でも信頼されているブランドも多いでしょう。


模倣は得意だが、少なくとも他人のイノベーションを「自分たちのもの」とは言わないわけです。その法度は踏まなかった。

しかし、韓国は(中国もそうだったりするんですが)「自分たちのもの」と言っちゃう。それで今回のような裁判に発展してしまう。


もう10年以上も前ですが、ソウルへ言った時、「今、若者に人気の最新スイーツ」というのが露店で売られてるんですね。
まるでクレープ販売のようなおしゃれな露店で、その「スイーツ」もおしゃれなコーン型の紙パックに入ってる。
んで、なんだろうと覗くと、「大学イモ」。食べると、やはり大学イモ。ご丁寧に黒ゴマまでまぶされておる。
日本では「おばあちゃんの味」的お惣菜なんですが、これを「ヤングな(死語)スイーツ」にしちゃうとこがすごい。


で、その夜に韓国人の友人が「今、若者に一番人気の創作料理があるから是非」と連れて行ってもらうと、大皿に肉じゃがが出てくる。
食べるとやっぱり肉じゃがなんです。ただ、じゃがいもが丸のまま使われており、大皿に盛ってみんなでつつくというスタイル。そして唐辛子で風味付けしてあるのがオリジナル点。
友人が「おいしいでしょう」と嬉々としてすすめるので、さすがに「これ肉じゃが」とは言えなくて、「これは韓国の料理なの?」と聞くと、「最近開発されたものです」と言う。
向こうでは日本食を「日式」と言うんですが、「日式」とは書いてないわけで、どうりで店に入った時、店側が「面倒なのが来た」という顔をしたのが納得いきました。(韓国人は、なぜか見た目で一発で日本人を見破る)

とにかく、大皿いっぱいの肉じゃがだけを腹に詰め込むという夕食は初めてだったわけで。


だけどこれらのことは別段、騒ぐほどのことじゃありません。ただ気になったのは、どこか「うちが発明した」というような雰囲気が漂っていたことなんですね。

でもま、いいんじゃないの?w と特にどう思うでもなくいたのですが、ここ10年で大変なことになっているようです。こんなのは序章だったんですね。


日本の老舗の料理店やアパレルの店名、ロゴ、料理や商品がそのまま使われる、などといった事態になっているようです。

そういや、あからさまな「偽スターバックス」があちこちにあったんだよ。あそこで危機感持たないといけなかったんだなあ、うん。




で、アップルとサムスンなんですが、今回の判決について、サムスン側は「今回の評決はアップルの勝利ではなく、アメリカの消費者の敗北を意味する。これで選択肢は減り、イノベーションも減り、価格がつり上がる恐れもある」という声明を出しました。


対して、今回の判決に関して、アップルCEOのティム・クックが社内宛に出したメール。一部抜粋です。
「我々にとってこの訴訟は、特許やお金の事よりもずっと重要な意味がありました。それは本質的な『価値』です。私たちは独創性とイノベーションを重んじ、地球で最も優れている製品を創りだすために心血注いできました。そしてこれは競合にあからさまな模倣製品を作らせるためでは決してなく、顧客に喜んでもらうために行なってきたことです」(全文はこちら)


どちらも、「消費者(顧客)」というものを引き合いに出している。
アップルは「消費者のためにイノベーション提供する」というのに対し、サムスンは「この判決は消費者のためにならない」というかたち。

おもしろいですね。

アップルもサムスンも、ほんとに消費者のためのことを考えてるかは知らない。ただ言えるのは、両社とも「自分たちの企業の利益ため」のことを考えてるのは間違いないわけで、しかしそれによる行動が「イノベーション」か「模倣」かではるかに違ってくる。


さらにティム・クックはこんなことも言っています。
「裁判中に提示された証拠の数々は、サムスンの模倣は私たちが知っていたものよりずっと根が深いものでした」


そう、とても根が深いものです。昨日今日のものではなく、積み重ねられた歴史のようなものがあります。


ファミコンの時代からやっていたんですからね。


良くも悪くも、この判決で溜飲を下げている日本企業の人々も多いのではないでしょうかね。



posted by ORICHALCON at 15:36| Comment(70) | TrackBack(0) | Mac & iPhone

2012年08月27日

PRIZMATIC STONE 公演 「眠っちゃいけない子守歌」 観劇

千秋楽を新宿 サニーサイドシアターにて。

作・別役実
演出・石井一十三
出演・石井ひとみ 紫竹芳之

「新宿サニーサイドシアター 二人芝居演劇祭参加作品」となっていて、参加している4作品のひとつのようです。
観劇チケットの半券で、他の作品も一回ずつ観ることができてしまうという・・・・お得ですな!


去年の青果鹿の芝居において、舞台監督としてお世話になった小田史一さんが、やはり舞台監督として参加しておられます。


とは言いましても、実はこの公演は道を歩いていて偶然発見いたしましてね!!w
外に貼られていたリーフレットに小田さんのお名前を見つけて、「おお!?」となりまして、飛び込んだのでございますw

演出は「石井一十三」となっていますが、これはきっと出演の石井ひとみさんのことだと思います。


作者である別役実といえば、「不条理劇」というのが浮かんでくるのですが、やはりこの作品もどこか論理的には処理できないようにみえる男女のやりとりでつづられています。
この作品が、別役作品群の中で「不条理劇」と目されているのかどうかは知らないのですが、ただ、本当の不条理などというものはこの世に存在せず、あったとしてもそれは作品としては成り立たないわけで、不条理に見えていても、そこには必ず整合性に裏打ちされたものが支えている。

別役作品が他の「不条理遊び」的作品と違うのは、この整合性が結果的に美しい。
時に「不条理っぽい」作品は、「言葉遊び」にふけることが多いのだけど、別役作品に無駄なセリフはひとつもない。

などととやかく言ってますが、とにかく非常に面白かったです。観てよかった!!


冒頭、出演の紫竹芳之さんの尺八ではじまるのですが、一朝一夕の演奏力ではなかったのでちょっと驚いていたところ、やはりプロだということを小田さんから伺いました。


楽器の演奏から始まる・・・というのもいいもんですね! ひきこまれました。



そして帰りは・・・近くの末廣亭に寄って落語鑑賞w

なかなか有意義な夏の休日でした。
posted by ORICHALCON at 00:04| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記

2012年08月25日

スパイ・ゲーム

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スパイ・ゲーム

監督 : トニー・スコット
出演 : ロバート・レッドフォード ブラッド・ピット


Huluで鑑賞。

19日に亡くなったトニー・スコット監督を偲んで。

トニー・スコット作品の中では未見のひとつだったので、Huluのマイリストに入れていた。なにを観ようかほとほと迷った時のための切り札の一枚のつもりで、ずいぶん我慢して取っておいた一枚だった。

トニー・スコットおなじみの(というよりかはスコット兄弟の、とも言える)ダニエル・ミンデルの撮影で、始終「いい絵」に彩られた作品。いきなり"銀のこし"から始まります。

ブラッド・ピットといえば、特に若いころは若き日のロバート・レッドフォードにクリソツなため、この二人の「リバー・ランズ・スルー・イット」での共演時には奇妙な感覚を覚えたもんですが、今回の共演ではさすがに大人なブラッド・ピット。対等の男になってきてます。


CIA局員のミュアー(ロバート・レッドフォード)は、退職を迎えたその日、かつて自分が育てた工作員、ビショップ(ブラッド・ピット)が、スパイ容疑で中国に逮捕されたことを知らされる。
アメリカは中国との通商交渉を目前としていたため、このビショップを見放そうするが、ミュアーはビショップを助けるために行動を起こす。

「行動を起こす」と言っても、ミュアーは明日の朝で完全に退職。そしてビショップが処刑されるのも明日の朝、というタイムリミットが迫る。
また、ミュアーはビショップを最も知る局員として作戦会議室に呼ばれ、証言を記録され続ける。
リアルタイムなストーリー軸はほとんどこの会議室で進行し、ミュアーの回想的証言でビショップとのストーリーが展開されるというスタイル。
そんな中、ミュアーはどうやってビショップを助けるのか??


お見事な作品でした。

最後まで引き込まれました。なかなかのサスペンス作品に仕上がっています。

まあ、これくらいのシナリオじゃないと、ロバート・レッドフォードも呼べんでしょう。


ミュアー役にロバート・レッドフォードを持ってきたのも結果的によかったですね。
このミュアー役は、トニー・スコットならジーン・ハックマンとか持ってきても良さそうな感じなんですが、これ絶対に初期キャスティング候補にはなっていたと思いますねw ジーン・ハックマンをあてがうのはかなり「あり」な役なので、もしそうなったとしても成功していたでしょう。
でもそうすると「またジーン・ハックマンか」になっちゃうので、どうしようかというところにロバート・レッドフォードを持ってきた。これによって、この作品のテイストが決まったと思うなあ。

ジーン・ハックマンは明らかに「なんかやりそうなタヌキ」ぶりが垣間見れてしまうのですが、ロバート・レッドフォードは清潔感ある「無害そう」な男。汗をかかずになにかを成し遂げる、的な。
その魅力がラスト、涼やかにポルシェで疾走するミュアーの絵で頂点を迎えます。

ミュアーが戦うのは、「ビショップを見捨てようとしている」CIAそのもので、協力していると見せかけながらも裏をかくといった心理戦的な「スパイ・ゲーム」が見どころ。
作品の60%以上は、回想シーンであり、ミュアーとビショップの出会い、師弟関係、そしてCIAの工作活動を通した絆と、すれ違いによる別れが描かれています。

かつてベイルートでの作戦中、ビショップはミュアーの誕生日にスキットルを贈ります。スキットルとは、携帯用の酒を入れる容器ですね。中東はまず酒が禁忌なので、「どうやってこんなものを手に入れた?」とミュアーはひどく驚きます。
それを手に入れるための作戦名を「ディナーアウト作戦」と呼んでいたビショップ。

そしてその作戦名が、また最後の最後に二人をつなぎます。

なかなかどうして爽快な作品です。

ここにきて、ちょっとした「スティング」・・・というのは言い過ぎですが、ロバート・レッドフォードだけになにかそんな彷彿感がよぎります。


そしてなにより、トニー・スコットならではの作品です。これほどの情報量を持つ内容を、テンポよく音楽的にまとめていく手腕。

本当に惜しい人を亡くしました。


この作品のラストに、亡き母「エリザベス・ジェーン・スコットに捧ぐ」と銘打たれます。

しかし、68歳にして自ら命を絶ってしまったトニー・スコット監督。どんな事情があったのかわかりませんが、いまごろお母さんのところで叱られているかも知れませんね。




posted by ORICHALCON at 05:43| Comment(333) | TrackBack(0) | Cinema

2012年08月24日

ダークナイトライジング 3回目

3回目の鑑賞です。

さすがに3D上映ではなくなってました。

も〜、アラがありませんね〜

2回目までは、感動・興奮・圧倒、という感じだったのですが、3回目の今日は最後に泣いてしまいました。


マイケル・ケインの最後の最後のアップがものすごく神がかってる。


もう一回くらい観たいねw

posted by ORICHALCON at 22:26| Comment(0) | TrackBack(0) | Cinema

新宿梁山泊 「百年 風の仲間たち」観劇

お芝居の観劇が今年になって続いてるなあ。こうなるとこのブログでカテゴリ分けしてもよさそうだ。「日記」ってのもねえ...

さて、やはり去年の青果鹿の芝居でご一緒した「島さん」こと島本和人さんが出演ということで出撃。島さんは僕のお兄さん役でした!!

てかねえ....島さんは同世代ということもあり、話してると楽しくてしょうがないんだよな!! だからお会いできるのを楽しみに行って参りました!


老舗の新宿梁山泊ですが、公演は初見です。
シンプルに説明してしまうと、大阪のコリアンタウンの「在日朝鮮人」の人々が描かれる作品。

僕は在日はもちろん、韓国人の知り合いも多いし、僕自身も韓国語勉強したりした時期もあったりして、一般の人よりかはこの手の内容には歴史的にも情報的にも造詣があるつもりです。

そういう視点からは、あまり新鮮だとか目新しいというものは特にはなく、手法などもとても古典的だったのですが、それでかえってすんなり鑑賞できるというところに落ちつけました。

ただ、「音楽劇」とも言えるくらいキャストが生演奏して歌ったり動いたりするという、このどえらい趣向には圧倒されましたよ!
特に劇中に出てくる「百年節」(だったかな)は、耳からまだ離れませんw


2時間10分というこってりの尺に、これでもかと熱い「恨(ハン)」が彩られていきます。


この朝鮮人の「恨(ハン)」という情緒は、劇中でもちょっと説明されているけども、日本人に理解させるのはちょっと難しい。
これは西洋人に日本人の「忍」や「誠」、「和」などを理解させるのがすんなりいかないのにも似ている。
「恨み」の「恨」という字が宛がられているが、単純に「恨み」という感情と関係があるわけではない。

また、ここで安易に僕のような者がこういうものだと説明するものでもない。これは知るべき人が自分で知るべきことでもある。


ただ、この「恨」を理解しようとしない限り、「最も近くて最も遠い隣人」を理解する道のりはやや遠くなる。


「在日」に関してだが、すでに現代は三世・四世という世代になってきているため、今や在日のアイデンティティやその視点はひと昔前よりもはるかに多様化している。
そういう意味では、この作品で主張される(もしくは描かれる)在日のアイデンティティは、あまりにもオーソドックスすぎるというか、よくも悪くも「原点的すぎる」と感じる。もちろん、「リアル」な人たちが作と演出をしているのだから、「リアル」なのは間違いない。
しかし、一世代前の感覚に見えるのは拭えない。


こういう「おさらい的」なものは、こういった情報にうとい日本人には価値があるのかも知れないが、今この時代にきて出会うものがここ止まりなら、それはそれでちょっと不幸だ。

たしかに「あの頃は・・・・」というのも大事だが、その積み重ねでまた新しい世代の在日のアイデンティティというのが生まれてきており、そしてまたその世代特有の現代的葛藤というものがある。しかし、なぜか長老たちはその若い世代に自分たちの古い葛藤をそのまま継承したがるもので、これはどういうわけか朝鮮人特有のものだ。(いや、民族にかぎらず、先人というのはそういうものかも知れないが)
これはとても先祖を敬ったり、儒教や家長制度、その他もろもろの朝鮮民族ならではの性のようなものなのかも知れないが、若い世代はさすがにそろそろそういうものに耳を貸さなくなってきている。

年寄りが言っていることは結局は愚痴なようなものにすぎないとまで感じる世代もいるわけで、彼らは場合によっては「帰化」もいとわない。

そしてそれも、現代の在日の一面のひとつでもある。要は「これからどう生きるか」が問題なわけで、それに対してどういう生き様をチョイスしていくか、というのがこれから見てみたいファクターだ。


そういう意味で、今回の作品が「原点」だとしたら、「その次」というものがいつどう扱われるか。そしてそういったものを新宿梁山泊が実際に料理するか、それは僕にはわからない。


劇中、「自分は大阪人」と言う在日の人が出てくるが、このセリフが単なるセリフではなく、物語によって描かれたなら、これ以上のものはないだろうし、そういうものなら見てみたい。



島さんがかっちょよくギターリフをかましていたのには驚いた!! 鳥肌たった〜(>_<)

これも大きな収穫のひとつです!!


帰りに島さんとちょっと一杯。久しぶり(一年ぶり)でしたが、楽しかったわ〜w
島さんがご自身による次への作品づくりに意欲を燃やしていたので、楽しみです!!!




posted by ORICHALCON at 04:35| Comment(2) | TrackBack(0) | 日記