2012年07月25日

死刑制度の難しさ

おはようございます。
最近起きるの早いです。


昨夜、Yahooにアクセスしてみたら、なにかある事件の上告審判決で、死刑確定という記事に目が止まった。
その記事を見てみると、さらにその下に関連記事としてやはり死刑確定判決の記事のトピックが並ぶ。結構あるもんなんだなあと。

で、ビートたけしさんがちょうどこんなことを発言したらしい。


記事 : ビートたけし無差別殺傷事件を語る 死刑=最高刑はもう古い


死刑制度は今も昔も、議論の対象だ。難しいねえこれ。
なんで難しいかっていうと、賛成派も反対派も、どっちの言い分もそれぞれいちいち正しいからなんですけどねw

たけしさんが言うように、「死にたいから(死刑にしてもらいたいから)無差別殺人を犯す」なんてのも出てきちゃった。

こういうのも、死刑制度反対派にとって重要なファクターになるでしょう。



僕は死刑制度についてどういう立場でいるかというと、非常にずるくて、「司法にただ従う」というものです。制度に従うわけです。

それはつまり、国家がそう定めているのであれば、「支持する」という立場です。ましてや、昨日今日定められたものじゃありませんし。

もし司法が死刑制度を廃止したならば、その意志に従います。

ですから、現在のところ、死刑制度に対して反対でもなんでもありません。



しかし、廃止すべきである、反対すべきであるという立場の人たちからはこれでも、ずいぶん叩かれます。
まあ、結果的に支持しているのと変わらないからですが。



で、そこで僕がそういう人達になにか言われたら、こういうスタンスをとっています。理解されるとはかぎらないのですがね。



僕にとって、刑法(司法)というのは、適用・執行される以前に、定められた瞬間からその国家の意志・姿勢の宣言でもあるということで、死刑については、「人権に対するその国家の姿勢」の在り方の象徴でもあると認識している。

宗教が政治に影響を与えている国などでは、戒律を破ることじたいが犯罪であったりし、麻薬持ってたり不倫しただけで翌日死刑、なんてのもある。
そしてそういう倫理観は、国によっていろいろと異なる。

日本では、死刑が適用される犯罪は、外患誘致など特殊なものをのぞけば、それは「確定的殺意の伴った殺人(特に複数殺人)」とされている。

ということで、司法は「確定的殺意による殺人」は「最もたる人権の剥奪行為」と見なしている、と僕は認識する。


「確定的殺意による殺人」というのは、「カッとなって刺し殺しちゃった(未必の殺意)」とかではなく、事前に包丁用意してアリバイ作りまでして殺しに行くとか、さらには死体を埋めるためにビニールシートにスコップまで用意してるとか、強盗に入って顔見られたから殺すとか、もしくは殺す前提で強盗に入るとか、果てはゴルゴ13みたいな職業的殺人もそうだ。そして被害者が複数という・・・。

こういうのは「マジありえない」としているのが日本の刑法なわけでしょう。

そこで、その「最もたる人権の剥奪行為」に対しては、「その行為者のいかなる人権も一切認めない」という姿勢になっているわけで、その現れが単に、「死刑」(一切の人権を剥奪することによって処断する)になっているというだけのこと。

つまり、単に日本国家は「確定的殺意を伴った殺人」、これを一切認めないという、強い否定を表している国家であるということであり、国民の生命と人権を守ることに対する考え方が事前にここに提示されている。
それはどの国もそうだと思うが、それを司法上でどのように定めるかによって体現されているか、というだけの問題。


しかし死刑そのものが殺人であり、最悪の人権侵害ではないか、という話にもなるのだけど、「いかなる人権も一切認めず、一切の剥奪をもって処断とする」ことがつまり「死」(生存権という根源的人権を剥奪すること)であるという認識であるかぎり、やはり「確定的殺意の殺人は最もたる人権剥奪行為と見なす」ということにもつながるわけで、矛盾がない。輪になっている。

ある意味、フェアすぎるとも言える。まさに弁護士のバッジに描かれている天秤状態です。

このドライとも呼べる、静かなほどに均整のとれたバランスの姿に、人権剥奪行為に対する日本国家の強固な姿勢を見るのは僕だけなんでしょうか。
僕だけ? あ、そうか。


まあ、さておき、たとえば、すでにヨーロッパをはじめ、世界各国は死刑制度廃止が進んでおり、死刑制度が残っている国の方が少ないという話も出てきたり、また、人権が軽んじられる傾向のある国ほど死刑執行が盛ん(中国など)という認識などから、日本は遅れている、みたいな展開にまでなる。

しかし「遅れている」「進んでる」などという、そういうくくりで死刑制度を考えるのは甘いのではと。人間の次に頭のいい動物であるイルカを食べるべきではないということに行き着いている倫理観は、より進んでいる、というようなレベルに感じます。
それにいくらなんでも日本で、役所の金を使い込んだだけで死刑になるということも絶対にない。

何度も言うように、単に、犯罪者以前に、国民の生命と人権を守ることに強い宣言がなされているにすぎないわけでして。だから、死刑が執行されること(犯罪者を殺すこと)を前提としているわけでもなく、むしろ、それが起こるそもそもの行いをこれ以上ないかたちで強く否定している。(ま、これは言いすぎかもね?)
しかし反対派というのは、この犯罪者が殺されることが先にきちゃっているわけで、そういう意味では、この僕の考えとは咬み合わないだろう。

「だって実際に人間(受刑者)が殺されるという殺人が国家の名の下に行われてるわけです。これは許されません」ということなのですが、これがどんなに許されない行為かということがもう、すでに宣言されている上でのことだから、僕としては仕方のない事です。


まあ、とにかく、そういうわけで、司法(国家)が現在、そのような姿勢であるのなら、それはそれで支持するというのが僕のスタンスなのであります。

たとえば、もし外国人から「なぜ日本はまだ死刑制度など残っているのか」と聞かれたら、単純に言えば「日本国家は意図的による生存権剥奪行為、これを事前に一切認めないと強く定めているだけです」と答えることになります。

「しかし、死刑を廃止したところで、その生存権剥奪行為への拒否が緩まるというわけではない」という言い分もあるでしょう。そのとおりです。

もしこれが、「生存権剥奪は許されない行為であり、これに対ししかるべき処断はあっても、国家がいかなる理由にせよ、一個人の生存権までを奪うことは一切これを許させない」という認識へと国家が変われば、これこそ死刑廃止ということになります。

こうなったら、それはそれで素晴らしいんじゃないんでしょうか!



ただ、刑法は、本来は犯罪の抑制や防止を主な意図として定められているわけではないので、よく聞く「死刑制度が凶悪殺人の抑止にはつながらない」という批判には同意できないのです。それはよくても江戸時代にやるレベルの議論であり、刑罰の度合いによって犯罪を抑制できるできないといった議論自体が、それこそ「遅れてる」んじゃないんでしょうか。

たけしさんのコラムは(まあ、これは一部抜粋のようですが)、死刑じゃもう手ぬるいという話にも取れるわけですが、「ならどういう罰を与えるべきか」という次元になってしまってるわけで、いわば「犯罪者に対する取り扱い」の話です。
僕が話しているのは、「人権侵害に対する国家の倫理観」の話です。
そして、日本の姿勢は大変厳しいということ。厳しいどころか、完全否定です。

それによって定められている刑法にのっとって、判決が下ったのであれば、それは執行されなければならないとも思います。


さて、ではたけしさんのコラムにある、「死刑になることを求めて人を殺す」という問題。

これを見誤ってはいけないのは、死刑制度が犯罪を起こさせたわけではなく、死刑制度が単に利用されたにすぎません。
「でも、その利用される死刑制度にも問題があるでしょう」という意見も出てくるわけですが、本当の問題は年間3万人にものぼる自殺志願者が発生していることです。「死刑制度が利用されるという異常事態」にもっと目を向けなければ、いつまでたってもらちがあきません。
この自殺者急増について、「これじゃあ、また宅間守みたいの出てくるよ」とたけしさんは警鐘を鳴らしてて、実際に心斎橋事件が起きて「それみたことか」になっちゃった。

「だったら死刑制度を廃止しよう」と廃止論再燃とか、たけしさんのように「殺さずに生き地獄にしたらいいのかも」というのでは、問題解決になっていません。


自殺志願者については、死刑制度に負けないくらい難しい問題ですし、特に欝のように「意味もなく死にたくなる」などというレベルになると、我々もお手上げです。

しかし、手を上げていてもしょうがないので、いろいろと目を向けてみて思うのは、多くの自殺志願者に横たわる共通の特徴に、「価値観の崩壊・低下」が見られます。


日本人は、「共通の価値観」についてはとても強固な民族で、ひっくりかえして言えば「価値観の共有」が得意なわけです。東北大震災に襲われた中でも、配給や公衆電話に規律よく並ぶ姿などは、世界中がびっくりしました。この時みんなが好き勝手やってしまったとしたら、それは「個」の価値観の主張の衝突ということになります。
そういうことにならず、「空気を読む」とか、「協調性」を保つとか、これらはどんなところにどんな価値観を共有しあえるかが鍵となります。

しかし、保たれている全体性の価値観とは違う、「個」の価値観は、どうでしょうか。それらが崩壊、もしくは、低下、または行きどころを失っている時代なのかも知れません。


女子高生が自ら援助交際に走る、なんてのはこれ、なかなか今もなくならないそうですが、これは典型的な価値観の崩壊、低下です。
昔は売春なんてのは食うに困ってだったのが、現代はお小遣い欲しさで、果ては「エッチできてお金ももらえてラッキー」とまで言わせます。

これはどこに価値が置かれているかという、価値観の視点の変移の問題であって、しかもこれの怖いところは「個人的存在」による価値観ではなく、先に述べた「共有的価値観」というレベルで拡大していることです。要は「あのコもこのコもやっているし」的な共有性で、つまり、「個人的価値観」が鍛えられておらず、育成されていないがゆえ、共有的価値観に頼って支えられ、確立され、侵食されているということ。
いじめ行為の問題点は、崩壊、もしくは低下したと言える価値観が、共有によって支えられているというのもひとつです。

「自分に対する価値観」、「人間に対する価値観」、「生きることに対する価値観」、「命に対する価値観」、「人生に対する価値観」、「愛に対する価値観」、「家族に対する価値観」、「人間関係に対する価値観」、「仕事に対する価値観」、「世界に対する価値観」・・・・ありとあらゆるものがあるわけですが、これらが崩壊、低下することが、人間に起きる問題の根源的原因です。
「何に価値を見出すか」ということが、人間の心の豊かさにつながるというのは、ここで僕が力説しなくても誰でもわかることです。

僕は、教育の真髄とは、この価値観を問いただし、見つけ出させていくということだと考えています。
自分で見つけた価値観はその人間のものであり、それが個人的存在の価値観となって、その人間を支えていきます。教育とは、人間にどういう価値観を掴み取らせるかという勝負の世界であり、教師と生徒の関係というのは、一個人の価値観と、価値観を模索している人間とのぶつかりあいであり、どんな化学変化を起こせるか?という領域です。

人間の営みというのは、価値観の宣言とさえ言っていいでしょう。

個々の人間の価値観が育成されない、または確立されない、もしくは崩壊や低下を招くならば、それは自殺者も増えていくでしょう。自殺は価値観消失による最悪たる結果です。何にも価値が見いだせてないようなものですから。



まあ、僕もこんなところでこんなことを書いていたって、なにも解決はしないのですがね。


死刑制度の論議についても、結局は価値観の相違による議論です。ですから、こんなに難しい問題もありませんよね。






posted by ORICHALCON at 06:00| Comment(3) | TrackBack(0) | なんとなく