2012年07月24日

復活の日

fukkatsunohi.jpg

復活の日

監督 : 深作欣二
出演 : 草刈正雄 オリヴィア・ハッセー 夏八木勲 ジョージ・ケネディ グレン・フォード

1980年公開。実は、初見です。

やはり劇場で観たかったですねこれ。木村大作さんの絵。

上に、出演者をまかりなりに羅列してありますが、これほどの大作となると「この顔ぶれだけでいいのかな」と悩んでしまいます。
昭和基地隊員に千葉真一、渡瀬恒彦、長瀬敏行、森田健作。滅亡する日本側では多岐川裕美、緒形拳、小林稔侍、丘みつ子など。
他にも悪役と言ったらこの人ヘンリー・シルヴァや、横顔ですぐバレる「ブレードランナー」のエドワード・ジェームズ・オルモスなどなど。
そしてなによりもロバート・ヴォーン。さすが、顔出すだけで絵が締まります。

一体、現場はどんな感じだったんでしょうか・・・・

原作は言うまでもなく、小松左京。長編SF大作です。
しかしよくこれだけのものをやり遂げましたね・・・・角川春樹はすごいね。というか、すごかったね・・・

制作費は30億前後。なにせ南極ロケをしています。これだけでもすごいよなあ。Wikiによると、35mmムービーカメラによる南極撮影はこれが世界初だそうな。


生物兵器として開発された猛毒ウィルス、MM-88がスパイによって盗まれてしまう。しかしスパイたちの飛行機が墜落したため、ウィルスが世界に蔓延、人類は滅亡してしまう。しかし、氷点下ではウィルスは毒性を発揮しないため、かろうじて南極の各国の基地の人間のみが生き残った。各国の基地は手を取り合って小さな連邦政府を作り生きながらえるが、アメリカとソ連のARS(自動迎撃システム)が作動していることを知る。さらに地質学者の吉住による、油田採掘を原因とする大地震の予測を受け、その地震でARSが発動、核が世界に発射されるかも知れないという懸念に立たされる。ARSを無効化するべく、志願した吉住はワシントンDCへと向かう。


なにかこう、ノリや展開などが、手塚治虫の漫画作品を読んでいるような感じがしました。手塚さんがこれを漫画化したら、めちゃくちゃドンピシャなものに仕上げてくれそうです。

さておき、小説の映画化というのは難しいんだな・・・やっぱり。

小説と、映画脚本の違いは一体なんでしょうか。どっちも文章の羅列である、ある意味「文学作品」とも言えます。

なんだと思いますか。


脚本が小説と違う点はなにかというと、脚本は、「時間軸が固定している」文学、ということです。
ここでいう時間軸とは、「上映時間」のことを指します。
つまり、決まった時間内で消化されることが前提の文学ということになります。
ですから、小説よりも「時間と構成」の関係密度が高いわけであります。

小説は、一気に読む人もいれば、休み休みの人もいるでしょう。そしていつでも少し前に戻って読みなおすなんてことも可能です。
しかし、脚本が目指すところの映像化(もしくは舞台化)されたコンテンツは、一度始まったら原則として一定の時間を消費しながら進み、終わります。
ですから、構成というものが非常に重要になってきます。

これは音楽も一緒で、その構成は時間と関わってきます。そういうのもあって、大体の現代商業音楽は、イントロ・Aメロ・Bメロ・サビ・・・などという構成に落ち着いたりしてますね。少なくとも楽譜は、今も昔も「演奏時間内」という制限を前提として構成されているわけです。


このところをわかっていないと、小説の映画化は難航します。失敗している場合、このあたりを見据えていないことが多いのです。

で、まず、この「復活の日」は、残念ながら映画作品としては成功の部類ではありません。少なくとも僕にとっては。
そして、小説を映画化するにあたっての、代表的な失敗例ともなってしまっています。

この映画は、人類が滅亡してしまい、南極に生き残ってしまった人類にスポットが当たったあたりから面白くなります。しかしそこへいくまでに1時間も消費されています。この1時間がなにに使用されているかというと、

・ウィルスが一体どういうものなのかという情報提示と、その裏事情
・ウィルスが蔓延する過程と、それによって崩壊していく世界と人類の滅亡
・ウィルスに侵されていく日本における何人かのエピソード(吉住が置いてきた女など)
・ARSが作動されるエピソード

などに費やされています。

この1時間は少々退屈です。なぜなら、これらは「エピソード」であって、物語(ドラマ)ではないからです。その証拠に、このパートが後半に受け渡した要素というのは、ドラマツルギーから見れば「ARSの作動」のみです。
しかし小説が有利なのは、こういった「エピソード」も、その文章力で見せていくことができることです(SF小説なら特にです)。それは時間に縛られないのが大きいというのもあるからなんですが、映画にはそんな余裕はありません。

本来、この映画は、「ウィルスで人類が滅亡した中、南極に生き残った人間が生き残りと復活を賭けて戦う物語」ということになります。

そうすると、極端な話、「ウィルスで人類が滅亡した」ところから始めるというくらいの構成変換が必要なんです。これが「小説の映画化」という仕事です。


小説の映画化ではありませんが、細菌兵器を扱った映画で「ザ・ロック」という娯楽アクションがあります。この作品がいいか悪いかは別として、劇中にとんでもなく危険なウィルス・ガスが出てきます。これが一体どういうもので、どれくらいやばいかということを、この映画は一々説明しません。始まって10分もしないうちに、一発の絵だけで説明してみせます。そのあとはもう、物語が進行するだけです。

しかし「復活の日」はSF長編小説という原作にとらわれてしまい、「過程と説明」が1時間を占めるというかたちになってしまいました。



小説とその映画化の関係をもっと見てみましょう。
ここではわかりやすい例として、夏目漱石の「坊っちゃん」を例にします。

あなたがこの作品を映画化するなら、どうしますか。

パッと考えれば、坊っちゃんが松山に赴任する第二章から始めるのが映画にとっては最適だとわかるでしょう。大体の映像化もそうしているんじゃないかなと思います。

しかし原作ではその前に、「親譲りの無鉄砲で小供の時から損ばかりしている」と始まる第一章があります。ここで坊っちゃんがどんな気質かという情報を読者は得るのですが、ここは子供の頃のエピソードの羅列でしかありません。

この第一章は短いのですが、しかし、「このエピソードも面白そうだから、ここも映像化しよう」などと考えたとしたら、「ああ、それはたしかに余計な部分かも」と思いませんか。
ところが、ほんとにそれをやってしまう映画というのが多いのです。

小説、文学というのは実に柔軟な芸術で、それこそ作品全体が坊っちゃんの第一章のような形態・手法でも成り立ったりします。その文学だからこそ成り立っている部分と、映像で成り立たせるべき部分を混同してしまうのです。

そう考えると、映画というのはいかに制限が多い芸術かということになります。そもそも映画(映像芸術)は、人類史上最も若い芸術です。記録装置としてのカメラが発明されなかったら、生まれなかった芸術であり、そのカメラによる記録と、再生による発信という枠からは逃れようがありません。

そしてそうである以上、上映時間というものに縛られます。

私たちは小説を買う時、よほど分厚かったりしないかぎり、何ページかということはあまり気にしません。上下巻に分かれてたってかまいません。
しかし、これから1800円出して観るロードショーが上映時間30分だと知ったら、「ええ?」と不安に思うでしょう。「ちょっとビデオでも借りて観るか」といった気分でレンタル屋に行ったのなら、5時間もあるような映画には手を出さないでしょう。

映像作品にとって「尺」とはいろんな要素と絡んでいるのです。


また、特に長編小説になると、多くの登場人物のエピソードを行き交うという、群像もののスタイルが多い。こういった小説はまず映画化の企画に乗せてはいけません。乗せるには相当覚悟がいります。
理由は、映画は時間に縛られるので、多くの時間を必要とする群像劇は向いていないのです。もし各パートを説得力を持って作るとなると、映画そのものが長時間になってしまうリスクがあります。実際、群像スタイルの映画は2時間強から3時間越えになりがちです。場合によっては3時間でも足りない、もっと欲しいとさえなるでしょう。たとえば、「LOST」の映画化なんて、想像つきますか?
どうしても映画で群像劇をやる場合、成功させる条件として、必ずすべてのエピソードがひとつにつながること、というのがあります。これは上映時間というリアルタイムな時間軸の流れがあり、到達点を必要とする映画という手法に合っています。そして、成功している群像劇スタイルの映画は、ほとんどこのひとつになるスタイルです。(ソダーバーグあたりの作品がいい例でしょう)
たとえば「愛と哀しみのボレロ」はやはり長い映画になってしまってますが、最後にボレロで各エピソードがひとつになります。

小説は一人称とかでないかぎり、登場人物の数だけ空間軸(キャラクター、もしくはシーン)を飛びまくってもOKに作ることが可能ですが(実際、そういうものが多いですが)、映画はこの空間軸が飛びすぎると、勢いを失いやすい。映画上の空間も、時間の制限を受けているからなんですが、主要の空間軸は良くて2つ(「眼下の敵」「椿三十郎」「ゴッドファーザーPart II」「ファインディング・ニモ」など)、最低でも3つが限度だと僕は思っています。これ以上空間やキャラクターが飛ぶと、難解な印象を与えます。

とにかくこのように時間や空間の制限を受けずに開発される小説を、制限を受ける映画に落としこむのには、相当なテクニックがいるわけです。
「どんなに素晴らしい小説でも、その原作をそのまま映画化しても面白くなるとは限らない」というメカニズムのひとつがこれであります。

「復活の日」もとても登場人物が多く、各エピソードの空間が飛びます。これによって観客はタイムラインがつかめないので、冗長な印象を受けてしまいがちです。草刈正雄演ずる吉住がタイムラインであるというささやかな印象は持てるのですが、焦点を当てるのが遅すぎたため、ラストへの到達感にいまひとつ物足りなさを感じてしまいます。これが、当時の多くの酷評につながっている原因のひとつでしょう。


さて、あとは深作欣二監督なんですが、この人は決して器用でテクニカルな監督とは言えなかったですが、なぜかバイオレンスが得意な監督、みたいな見られ方もありました。「仁義なき戦い」などのせいだと思いますが、実は僕はいつも、この人の「人の良さ」のようなものがあまりにも見えてきてしまって、そしてその「人の良さ」が邪魔で仕方ありませんでした。
この人は映画監督をするには、少々無欲すぎます。

「ああ、いい絵だな」と思うところは、木村大作さんの仕事だというのがばればれですし、「もっとなんとかなりそうな絵だな」と思うところは、深作監督のセンスだというのもばればれです。「よくこれでがまんできますね」と言いたくなってしまうのです。

要は、絵や演出に貪欲さが垣間見れれば、たとえどんなに予算その他の制限などで質をそがれててもいいわけです。

ARS無効化の危険な任務に志願した米軍少佐と、やはり志願した吉住が衝突するシーンがあります。少佐は自分一人で充分と言い、吉住はそれでも同行すると言い張ります。それで殴り合いになるのですが、殴り合いによってこの男二人がつながります。しかしバイオレント監督とも言われた人が、このシーンですら、バイオレンスを通してつながる男二人を面白く描けていません。そこはかとなく流れているのは、やっぱり遠慮がちな「人の良さ」です。



とまあ・・・また言いたいこと書いてしまいましたが、日本映画と考えても、とんでもない規模の大作映画なのは間違いありません。
少なくとも、当時の角川春樹の気概が感じられる作品とも言えます。
そもそも、角川春樹は「天と地と」という邦画による制作費最高記録(50億)を持っている人です。(当時これと競り合った「クライシス2050」(資本は日本、スタッフ・キャストはアメリカ 70億)は一応邦画とみなさないことにします)

またぞや、これくらいのことをしてくれる人は日本映画界に現れませんかね?

復活の日を期待しています。

posted by ORICHALCON at 12:38| Comment(8) | TrackBack(0) | Cinema