2012年07月11日

アメイジング・スパイダーマン

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アメイジング・スパイダーマン

監督 : マーク・ウェブ
出演 : アンドリュー・ガーフィールド  エマ・ストーン  リス・エヴァンス  マーティン・シーン



「ソーシャル・ネットワーク」以来の新宿バルト9で鑑賞。
その「ソーシャル・ネットワーク」に出ていたアンドリュー・ガーフィールド主演です。

アンドリュー・ガーフィールドは、「ソーシャル・ネットワーク」の主人公、ザッカーバーグ(演じたのはジェシー・アイゼンバーグ)の親友、サベリンをやっていた人。大変な若手実力派です。
ちなみに今回相手役のヒロインを演じるエマ・ストーンは、「ゾンビランド」でジェシー・アイゼンバーグとくっつく役どころなので、ふたりともジェシー・アイゼンバーグに縁があるねw

正直、ピーター・パーカー役にアンドリュー・ガーフィールドというのはピンときてなかったのだけど、大成功でした。
間違いなく、スパイダーマンの映画化としては最高傑作に仕上がっています。


監督はマーク・ウェブ(Marc Webb)という、この映画の監督としては出来過ぎな名前の人。こういう映画向きの人ではないはずですが(依頼があった時、本人がまずそう思ったらしい)、結果的にそれがかえって功を奏したという感じです。
前シリーズ三部作のサム・ライミは素晴らしい仕事をしました。サム・ライミらしい世界観を見せてくれました。しかしそれは今思うとやはり「サム・ライミの世界」であって、今回はきっちり、「スパイダーマン本来の世界」が構築されています。


この作品は最近よく聞かれる「リブート」企画で、リブートは再起動という意味ですから、あるコンテンツを一から再起動して新たなシリーズとする企画。たとえば、クリストファー・ノーランはバットマンを「ダークナイト」でリブートしたと言ってもいいかと思います。

タイトルが「アメイジング・スパイダーマン」という、原作コミックの原題を持ってきたというのも、そこに原点回帰の意気込みが感じられます。たとえばスパイダーマンの糸は、前シリーズでは体から分泌されるというオリジナル設定でしたが、今回は原作にほぼ近いウェブ・シューターという機械が再現されている。腕につける機械ですが、スパイダーマンはこれがないと糸を出せない。また、ピーターの過去・両親の謎に迫っているのも原作を意識していると言えます。

原点回帰とは、「等身大のヒーロー」であり、たとえば前シリーズでのあまりにCoolなスパイダー・スーツ。メイキングを見てもこれの開発は大変だったらしく、たぶん一着のコストは数千万かも知れません。しかし、それだけの完成度のスーツをどうしてピーターが作り出せたのかは、いわば「考えちゃいけないお約束」なんですが、今回は納得のいく手作りスーツ。これは原作ファンにはたまらないでしょう。

スパイダーマンの他のヒーローものとの大きな違いは、テーマに「成長」があること。完璧すぎるスーパーマンや、一皮向けばイケメン・リッチマンのバットマンには求めにくい要素です。そう、普通の高校生が悩んで苦しみながらスパイダーマンとしての自分を模索していく物語。

ピーターの成長物語に欠かせない、育て親のベンにマーティン・シーン。あまりにもわかりやすい、王道すぎるキャスティングだなと思ったのですが、やっぱり期待通り、良かったですw


この作品に感心したのは、なにげに脚本の構成。映画がスタートしてからピーターがスパイダーマンになるまで、ちょうど約1時間なのですが、問題はスパイダーマンが出てくるまでをどうもたせるか、ということ。
これについては、前シリーズもがんばっていましたが、構成としては今回のが完璧です。無駄が一切ない。必ず前のシーンは次のシーンにつながるようになっていて、おかげでスパイダーマン不在の1時間でもまったく退屈しません。これは簡単にできるものじゃありません。
大概は、プロットが一旦途切れて、たとえばピーターが思いを寄せる女の子とのやりとりだけを見せたりする。サム・ライミ版ではそうでしたが、今回は「その時に必要なプロット」のみに焦点を当て、プロットがプロットへ受け継がれるという数珠つなぎにしていくことで全プロットを総なめにしていくというやり方です。

たとえば前シリーズでは、ピーターがスパイダーマンになるきっかけ、「遺伝子操作されたクモに噛まれる」というシーンは、「たまたま見学に行った研究所」という設定でした。それはピーターの意志ではない(少なくとも彼が生み出したシチュエーションではない)ので、ストーリー要素にはなっていません。
しかし本作は、研究所へ行く必然性があり、ピーターの強い目的意識によってそこへ導かれていきます。それは、「両親の謎を追う」というものです。万事、こういう流れが組まれており、大げさに言えばピーターがスパイダーマンになってしまうことに「運命性」すら感じてしまいます。すべてがちゃんと、物語の骨組みとして機能しています。


ピーターの生い立ちと、今の環境、人物を描き、そしていかにしてスパイダーマンになるかまでの行程、さらに映画の見所としてのスパイダーマンの活躍アクションまでも盛り込まなくてはならないのですから、それを2時間半に詰め込むとなると、脚本は大変な構成力を必要とします。そして、この作品は構成に関して大成功しています。

とても勉強になりました。サム・ライミ版はサム・ライミらしく、所々に「お遊び」があるのですが、しかし本来はそんなものは一切必要ないんだということを改めて学びました。なぜなら、お遊びは結局ストーリーに貢献しないわけで(だからお遊びなんですが)、そういったものを削ることによって、ストーリーは純粋になっていくからです。実際その証拠に「お遊び要素」というのは、2回目からの鑑賞では邪魔になってきます。

観客が感じる中だるみの正体は、「ストーリーと関係ない(ように見える)プロット」にキャラクターの注意が向けられている状態を指します。しかし脚本家や監督は「これもやりたい」「あれもやりたい」と思うものです。アーティストですから!
こういう娯楽作品だからこそ、人間ドラマや人間描写を軟弱にすまいとがんばる結果なのですけど、そのためについ余計なことをしてしまいます。たとえばサム・ライミ版ではメリー・ジェーンの家庭は少しすさんだ問題を抱えているというのが描かれますが、今思うとそれはストーリーとはまったく関係なく、その後のシリーズにもさしたる影響を与えていません。

極力余計なものを排除するという作業は、大事なものを蒸留していくことになり、おかげでこの「アメイジング・スパイダーマン」は純粋で立派な「スパイダーマン誕生」物語になっています。

こういった黄金比を求めるような、いわゆるハリウッド形式な脚本構成はアンチな人もいるでしょうし、僕も崇拝しているわけではないのですが、決められた時間内に必要な物を構成するという意味では、脚本に興味がある人はこの作品を分析してみると面白いと思いますよ。

また特に感心したところと言えば、ピーターとグウェンの二人が結ばれるプロットと、スパイダーマンの正体をグウェンが知るプロットが同時に一瞬で描かれるというシーン。しかも余計なセリフひとつなしに!! こういうのが映画ですよね....


今回はメリー・ジェーンではなく、元祖のグウェンがヒロインとして採用されているのも、今後に期待できます。


今回の敵はファンも待望していたという、コナーズ博士が変異したリザードマン。スパイダーマンもリザードマンも、お互い交配遺伝子のミュータントで兄弟みたいなものです。グリーンゴブリンなどと比べると派手さはないですが、強いですぞ!!
ただ、スパイダーマンがリザードマンと戦うのは、倒すためではなく、亡き父の友人でもあったコナーズ博士(リザードマン本人ですね)を救うためです。こういった設定もスパイダーマンならではで、他のヒーローものでは描けない妙です。

コナーズ博士役にリス・エヴァンス。いかにもイギリスくさい俳優で、冷酷非情な役柄をやらせるとすごいはまるのですが、そのせいでつい途中まで「なにか企んでる」と思っちゃってましたwww



3Dで観ましたが、やはり3Dで観るにはもってこいの映画でしたね。
この作品はもちろん、シリーズ化されていきます。今から楽しみです。

楽しみといえば・・・・さすが夏ですね、楽しみな映画の公開が目白押しです!!


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実は今日、「崖っぷちの男」も観てきてしまいました。
もちろんエントリも書きます!

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2012年07月09日

ローズウッド

なんとか続いてます。


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ローズウッド

1997年
監督 : ジョン・シングルトン
出演 : ヴィング・レイムス  ドン・チードル  ジョン・ヴォイト
配給 : ワーナー・ブラザーズ


これは意図して観たのではなく、映画の説明を見ようとマウスを合わせたつもりが間違ってクリックしちゃって、再生が始まってしまったので「まあいいか」とそのまま観た結果でございます。

「まあいいか」と思ったのは、ジョン・ヴォイトが出演しているからだったのだけど、そのジョン・ヴォイトもあまり印象的ではなかったのが残念。


映画の冒頭でも誇らしげに注意されるが、これは実話に基いており、1923年にフロリダのローズウッド村で起こった、白人たちによる黒人たちへの虐殺事件が題材。
ある白人の主婦が、浮気相手との痴話喧嘩で怪我を負わされるが、浮気の発覚を恐れたために「黒人にやられた」と嘘をついたのがきっかけで、白人側全体が「黒人が白人女性をレイプした」という被害妄想にまで拡大。この犯人をかくまっているとして、白人たちはローズウッドの黒人たちへの攻撃をはじめる。


題材がなんであるかにせよ、観終わってみてひとつの映画作品として考えてみると、「これを誰かにすすめるか」と聞かれたら、「ううん、特には」という感じになってしまう。
とても卒なく、そこそこ丁寧に作られており、TVドラマのような見やすさがあるが、映画らしい重厚感がなく、なかなか突き抜けることのできないもどかしさを持っている。理由はいくつか考えられるが、都合のいいようにとってつけられた「創作部分」がこの作品をへっぴり腰にしてしまっている。

厳密には、その「創作部分」ではなく、その「創作部分」を付け足す制作側の肝っ玉が弱すぎたのだろうと思う。それが画面に現れている。

実話と言っても、この事件は90年も前のことだし、しかもこの事件についての公式的な文書記録がほぼ皆無に近いため、「プロットは事実。物語はほとんど創作」というかたちを取らざるを得なく、実際、事実では死んだ人間が生きていたりする表現もある。
この事件は公式的にはうやむやと言っていい状態になっていたが、1980年代にクローズアップされ、再調査される。当時の生存者の証言で認定され、90年代に入ってやっと、州から被害者への賠償が決まった。

この作品は1997年公開だから、まさに「旬」な題材だったのだろうだけども、監督のジョン・シングルトン(彼も黒人)をはじめ、製作サイドはこのデリケートな題材をどう扱うべきか、手探りだったのではと思う。
実はそのままストレートにやるのが一番正解なのだが、こういったものは一旦迷うと力を失う。


ドン・チーゲル演じるシルベスター・キャリアーという男は、事実では最初の衝突で死亡しているが、最後は生きていたという展開で、この物語と登場人物たちを救済する。また、このシルベスターという人間をふたつに割って、新しいキャラクター(ヒーロー)を創り出している。ヴィング・レイムス演じる、流れ者のマンなのだが、このマンという名前も、本来はシルベスターの別名である。

といったように、製作サイドにいいようにいじくられているわけで、要はこれは、ノン・フィクション作品ではない。「実話を元に創ったストーリー」であって、ノン・フィクションとは「事実をできる限り伝える」というもの。
なにが違うかというと、それは姿勢であって、その姿勢が画面に現れる。ラストはまるでピーターパンのようになってしまうのも、こういう姿勢がなせる業だろう。

似たような南部の黒人差別を扱ったものといえば、「ミシシッピー・バーニング」などがあるが、これはノン・フィクションという姿勢をとっている。もちろん、全部を事実通りというわけにはいかないので、やはり創作で行間を埋めていくわけだが、それでも事実に敬意を払い、無視せず、浮き彫りにさせる、というのがそれだ。

どっちが上とか下とか、偉い偉くないではなく、どっちの姿勢もとても大変な作業であることに違いはない。
しかし、制作サイドが「都合をつけていく」という手法を取るには、あまりにも内容とテーマが手強すぎたし、また、それと対峙する制作側はあまりにも綺麗好きで、ナイーブすぎな上、体力不足だった。


シルベスターの母は、劇中では胸を撃たれるが、実際は頭を吹っ飛ばされている。
たしかに、胸の方がおだやかで、まだ美的だ。

事実通りにやらないのが問題なのではなく(映画なのだから別にやらなくてもいいのだ)、ただ、選択の動機がなにから来ているかというのが問題なんだと僕は思う。


この事件は胸クソ悪い事件なので、そのままやったら胸クソ悪い映画になってしまう。だったらこうしよう、などと考えはじめたのなら、そもそもその題材に着手した意義はなんだったのか。

つまり、事件はたんなるビジネスプロジェクトの素材でしかなく、それ以上でも以下でもない。おかげで絵も俳優も、なにもみなぎっていないものなってしまった。まるでビバリーヒルズあたりに住んでる現代人が、ただあの頃の衣装を来て、台本通りに動いてるようにしか見えない。

余談だが、この作品には名脇役俳優のマイケル・ルーカーが出ている。レイシスト役が多い気がするのは気のせいだろうか。先述の「ミシシッピー・バーニング」にも出ているw TVシリーズの「ウォーキング・デッド」でも、やはりレイシズムな性格を持っていた。ただし、今回は保安官で、黒人攻撃に内心抵抗があるのだが、保守的なためにみんなを止められないといった役回り。結局この人が一番おもしろかった。



さて、ずいぶんこきおろしてしまったが、なんの価値もないとはさすがに言わない。
観客は観ていると、まず発端となった浮気主婦が許せないと思うだろう。そしてそこから今度は、黒人と見れば殺すという展開にまで至る人々に敵対心を感じると思う。
これは単なる人種差別でくくれるようなものでなく、「ボーリング・フォー・コロンバイン」でマイケル・ムーアが指摘した「アメリカがこうも銃社会になった原因」の1ページをそのまま見ることが出来る。


発端となった主婦はさておき、集団的ヒステリーと化した白人たちは、物語上では「加害者」だ。観客の目にもそう映る。そして黒人側は「被害者」だ。やはり観客にもそう映って見える。

しかしここからが面白いのだが、「加害者」というのは、加害者に変わる寸前までは「被害者」だということだ。
劇中の白人たちの行動は、「被害意識」から起こっている。(たとえそれが誤解であっても)

世界を震撼させるテロリストも、世界から「加害者」と見られているが、本人たちに「加害者意識」はなく(そもそも加害者意識という言葉が一般ではないが)、先にあるのは「被害者意識」である。
つまり心理学的には、この宇宙には、先に生まれるのは「被害者」で、加害者は二次的な副産物ということになる。

え? 加害者がいるから被害者がいるんじゃないの? 加害があってはじめて、被害が認められるんじゃないの? と言いたくもなると思うが、「加害」という事象は、「被害者」がいなければ認知できないので、やはり加害は副次的だというのが僕の持論。

被害者が被害を認めない限り、加害は認定されず、知覚すらされず、存在も維持できない。

僕の古い友人から聞いた話だが、野球観戦をしている時、後ろの人から誤ってビールをかけられてしまった。本人はひどく怒って抗議したし、相手もずいぶんと謝った。そしたらしばらくして、今度はその友人本人が前の人に誤ってビールをかけてしまった。友人は恐々として「すいませんすいません」と声を上げたが、かけられた相手は意に介さず「いいっすよw」とだけ言って、ゲーム観戦に戻った。

聞いた当時は「うははははwww」と笑っていたけども、とても深い話だと思う。

ビールをかけるという行為は、その時点では宇宙的には加害行為ではない。これは、過失的・意図的も関係ない。

ただ、その事象を観察する側の中に、被害者が発生すると、それはただちに加害として知覚される。

たとえ被害者本人でなくとも、誰かが被害者を知覚した場合でも、その事象は加害としてのラベルが貼られる。この被害者の認識度が濃いほど、その加害的事象と加害者の存在は濃くなる。いい例が犯罪などである。


わかりやすい事例としては、たとえば自販機。
最近の自販機は、その筐体がずいぶん薄っぺらいものが増えてきた。昔は結構厚みがあったことをみなさん覚えているでしょうか。
これはなにかっていうと、道端にある自販機が1cmでも道路(公道)にはみ出ているのは「違法」だということに気づいた人たち(一部の主婦を中心としたプロ市民)が、ヤイノヤイノと攻撃をはじめたことに起因する。これによってメーカー側は、おかげで「薄くする技術」にたどりつくことができたとも言えるのだけども、しかしそれまで一体どれだけの人が、この自販機に「加害性」を感じることなどできただろうか。大概の人はそれに対して(たとえ違法であると知らされてもなお)加害的行為として、時には起訴するとまで話がいけば、それは大げさすぎる、と感じるだろう。

つまりその加害性を濃くするものは、どれだけ濃い被害者意識(被害をこうむっていると認知する意識)を持っているかによる。


B子「係長ったらひどいわね! 最低よ! 朝からいきなりあなたにむかって"おっぱいでかいね〜"だなんて。A子、あなた訴えるべきよ!」
A子「別にいいんじゃない?」

上は、B子はA子という被害者と、係長という加害者を知覚しているが、A子本人が被害者になる選択をしていないため、係長は加害者として成立しにくくなっている。


でも、でも、意図的に人を傷つけようという加害者はいるでしょ? それがいなかったら、被害者も生まれないじゃない! 秋葉原殺人とかどうなるの?

そうだけど、問題は被害者を生むのはなにかではなく、加害者を生むのはなにか?の話で、それは被害意識だということ。
物を盗んだりというのは経済的加害と言えるのかもだけど、盗む側はなにかしら広義な意味での被害を自分に認識している。「お金がない」「ムシャクシャしてた」そういったものでも被害意識と言える。

最大限の攻撃は、かならず最大限の被害者意識が伴っている。
被害者意識がもたらす最大限の攻撃のひとつが、戦争でもある。

戦争はなぜなくならないのか? という途方もない人類の疑問のヒントが、そこにあるような気がする。

北朝鮮があれだけ攻撃的な発言と態度を繰り返すその裏にあるものは何なのか? 彼らの常套手段は、まわりをすべて「加害者」とするというのがパターンだ。

アメリカがあれだけ銃社会であり、起訴社会なのは、それだけ色濃い被害者意識による社会だともいえる。


僕らはどれだけ、この「被害者ゲーム」から抜け出せるのだろうか。






posted by ORICHALCON at 15:33| Comment(1) | TrackBack(0) | Cinema

2012年07月08日

レスラー

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レスラー

監督 : ダーレン・アロノフスキー
出演 : ミッキー・ローク マリサ・トメイ

ヴェネツィア映画祭金獅子賞、ゴールデングローブ主演男優賞、オスカー主演男優賞・助演女優賞それぞれノミネート。
とまあ、そうそうたる評判だが見そびれてしまっていた作品。こういったのを忘れたころにパッと拾って観られるシアワセ。

かつて80年代に一世風靡を喫したプロレスラー、ランディ。二十年たった今も現役だが、スーパーでアルバイト、家賃も払えず家(といってもトレーラーハウス)を締め出される始末。その上、試合後に心臓発作で倒れてバイパス手術を受け、医者からプロレス禁止を宣告されてしまう。そんな折、20年ぶりにかつてのライバル、アヤトラーとの再戦マッチの話が浮上する。疎遠となっている娘とのすれ違いや、微妙な関係のストリップ・ダンサーとの関わりの中、ランディはリングへと向かっていく。


さすがにハズレないだろうと思ったら、とんでもない大当たりだった。最高の作品です。

こんなにひっぱられるとは・・・・あっと言う間でした。

ミッキー・ロークが素晴らしい。素晴らしすぎます。
これはたぶん、公開当時もあちこちから言われたのだろうと思うけど、レスラーとしてすっかり落ちぶれてしまった主人公のランディは、俳優ミッキー・ローク本人そのものだ。(ロークは元ボクサーでもある)

ミッキー・ロークは若き絶頂期において、素敵なムードを持ち合わせていた俳優だが、今思い返すと決して上手な俳優とはいえなかった。しかし、この「ムード」というのは俳優に大事で、いくら器用な俳優はいっぱいいても、このなんとも言えない「ムード」というものを醸し出せるかどうかというのは難しい。それは天性か、運か、というハナシにまでなってくる。

全編を手持ちで撮影し、ただただロークを追っていく。撮るのではなく、追っていく。
ミッキー・ロークはもうミッキー・ロークではなく、その影は微塵もない。それこそはじまってすぐ、ミッキー・ロークはどこにもいなかった。いるのはランディだ。

最初の20分間ですでに僕的にはオスカー男優賞決定なのだが、取れなかったのか〜・・・・

展開のテンポも良く、シンプル。

今や落ちぶれたかつてのスターやヒーローが、再起をかける、という話は新しくはないが、ここまで徹底して撮った作品は見当たらない。
いや、ランディの場合は再起どころではなく、現状維持さえままならないとこまで来ている。さらに、「再起は不可能」というところまできている。だから本質的には再起などという単純な話ではなく、もっと深いところにこの作品のテーマがある。魂レベルと言っていい。

この作品は、スタジオから大物俳優を起用したメジャー大作路線の方向を示されたが、監督はそれを蹴ってミッキー・ローク採用を譲らず、結局低予算で撮ったそうだ。
それは正解だったろう。メジャー路線なら、ストーリー・ラインにもっと修正を入れられるに決まっていた。
これはストーリーを追う映画ではなく、一人の人間をとことんまで描くというもので、もしこれがハリウッド的大作になってしまっていたら・・・ああいうラストにはできなかったろう。(「ロッキー」のように"よくある感じ"になっていたと思う)
なにより、この役はミッキー・ロークでなければ無理という監督のこだわりが最大の成功要因だ。


プロレスという興業自体、大ブームの頃からくらべるとずいぶんと人気と体力を失ってしまったコンテンツでもある。
K-1などのガチンコものの台頭もあり、"プロレスは所詮ショー"という視線も濃くなってしまったのではないだろうか。(そのK-1も最近では落ち目だが)
だけどこの作品を観ると、プロレスという世界の見方が変わる。というか、よく理解できる。典型的な商業主義ビジネスのひとつとして欠陥がないとは言えないのだろうが、夢のある世界なのは間違いない。


もう、涙が止まらないシーンがいっぱいあった。
"80年代"というのもキーで、ラスト、ランディがリングへ向かう場面でSweet Child o' Mine(入場曲である)のイントロは反則だろっての!(泣)


ミッキー・ロークの脂がのっていた頃の代表作のひとつ、「ホームボーイ」(というか、このあたりから下り坂になる)のパッケージと、「レスラー」のパッケージが対比的でまた・・・・


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とにかく、この映画はあまりあれこれと理屈をこねてしまってはいけない作品だと思うので、これくらいにする。

男も女も、この映画を観るべきですよ。


タグ:レスラー
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2012年07月07日

プレシャス

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プレシャス

監督 : リー・ダニエルズ
出演 : ガボレイ・シディベ モニーク ポーラ・パットン マライア・キャリー レニー・クラヴィッツ


上の画像は、Huluで使用されているタイプのもの。いわば、日本のマーケティング用だろう。

海外仕様はというと、これらがある。(以下はクリックで拡大表示できる)


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だいぶ趣きが違うのがおわかりだろうと思う。
日本仕様はなんかこう、心あたたまる感動ストーリー!!って感じで、「プレシャス」のタイトルのロゴといったらあなた.....キラキラしてます。


ところがどっこい。フタを開けてみるとR15+指定(15歳未満閲覧禁止)作品でござい。


サンダンスでグランプリを取ったということで、公開当時ちょっと気になっていた映画だった。
紹介されていたあらすじがまたちょっと強烈でもあった。


プレシャスはハーレムに住む16歳の黒人少女。自分の容姿に強い劣等感を持ち、実際、学校でも虐められ、誰からも愛されないと思っている。家庭では両親からの虐待の毎日。その上プレシャスは妊娠しており(しかも二人目)、それは父親から受けているレイプの結果である。


映画がはじまってから終わるまで、日本仕様のようなキラキラなムードは一切無く、そこはかとなく痛々しい空気が蔓延している。
かといって暗いとか、救いようのない映画というわけではなく、プレシャスも意外にもタフなので観客もついていくことができる。

サンダンスで評価されるくらいなので、確かにメジャー路線ではなく、演出や構成も個性的。(ただ、珍しいとか新しいという意味ではない)


プレシャス役のガボレイ・シディベはオーディションで選抜され、実質これがデビューらしいのだが、あまりにも存在そのものがリアルすぎですごい。彼女なしでは創れない映画・・・というのは言いすぎかもだが、ドキュメンタリかと錯覚しそうになるほど彼女はリアルだった(また、それっぽい手法も使っている)

この映画のリアリティが増しすぎて、観客が重苦しくならないクッション素材が用意されている。まわりのキャストだ。
マライア・キャリーやレニー・クラビッツが出てきたりする。マライアは重要な役なのだが、スッピンなために事前に出演していると知っていないと、気づかない観客もいるんじゃないかな。

教師役のポーラ・パットンは、最近「デジャヴ」で観たばかりだったので、あの口角のあがった口ですぐ思い出した。セクシーな女優で、目でモノを語れる感じがいい。

問題は母親役のモニークだ。やばすぎる。結局この映画をグランプリに押し上げたのは彼女の功績がでかいだろうと思う。
オスカー取ってもおかしくない仕事をしているので、彼女と、彼女が締めくくるラストは必見です。

この映画は、なにより俳優を観る映画、と言ってもいいと思う。

とにかく、プレシャスのような境遇であれば、死にたくなるかよほどまいってしまうかなのだが(「死にたいと思うことがある」とはプレシャスも語るが)、プレシャスは黙って生きていく。
なんだか大津市のいじめによる自殺の件で最近ネットが騒がしいようだけど、若いうちからひどい仕打ちを受けており、そしてまわりからなんらかの救済が望めない場合、耐えられる子と耐えられない子の差はなにかというと、その仕打ちに対する自分なりの処方箋をもってるかどうかにかかっている。

そしてその処方箋の多くは、「感覚を麻痺させる」という方向性を持つ。追い詰められると、そうなる。
その一番わかりやすい方法例が、この作品で示されている。「空想」の世界に身をおくのだ。
プレシャスはなにかとあると、スターになって歌ったり踊ったりする自分、イケメンのカレシとイチャつく自分、そういったイメージを思い描く。(またこれがサマになっていたりするw)

たとえウソな内容でも、ポジティブな想像力が枯渇した時が、人間一番やばいというか、弱くなるんだなとは思う。

人間関係の不和の原因は、つきつめていくとほぼ100%、「コミュニケーション不足」だということがわかる。
言い換えれば人間関係の不和を解決できるのは、「さらなるコミュニケーション」ということになる。コミュニケーションを取るとなにが起こるかというと、「相互理解」であって、「理解」は想像力を母体エンジンとしている。

プレシャスの"プレシャス"は、想像力なのかも知れない。


ただ、もったいないことに、この映画はキャラクターに肉薄しすぎて、観客の想像力を刺激するところまでには至っていない。
「映画的」かというとそうではなく、なにか「記録的」な印象だ。そのかわり、残酷なほど「観客に媚びる」ことをしない。


万人におすすめする映画ではないのだけど、「愛」ってなんなんだろうなとあらためて悩みたい人にはおすすめです。


話が戻るけど、日本仕様のパッケージは詐欺だと思う。こういう恥ずかしいやり方をいつまでやるつもりだろう。
このパッケージから受ける印象を望む人が観る映画じゃないため、Huluにおける視聴者評価が下がっているという状態に陥っている。

こういうやり方こそまさに、「想像力の欠如」のなせる業だと思うんです。

タグ:プレシャス
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静かなる決闘

一日一本映画エントリを続けてみる大会三本目。
うん、でもたぶんあまり続かないと思う。


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静かなる決闘

監督 : 黒澤明
出演 : 三船敏郎 三條美紀 志村喬 千石規子


ふたつ前の「13ウォーリアーズ」のエントリで、「七人の侍」の話題もあったので、なんか黒澤作品を観たいと思ったので....

現在で視聴可能な黒澤作品はすべて観ているので、今回は初物ではありませんが、もうかれこれ20年くらい前に観た作品ですから、結構新鮮に観られました。

とにかく千石規子さんが若い!!(あたりまえ)
テレビでもおなじみの千石さんですが、僕はむかーし火曜サスペンスで孫をやったことがあります。ちなみにお父さん役は山城新伍さん。その山城さんはすでに故人ですが、千石さんはご健在。90歳だって!!!
あの独特のしゃべりかたは、この頃からだったんだなと。


たぶん、よほどの映画好きでないと観てないかもと思うので、これから観ようと思った人のために簡単なあらすじを・・・
なにより古い作品なので、録音状態があまりよくない(画質もだが)。たまになに言ってるかわからないところもあると思うので。


第二次世界大戦時。主人公である藤崎恭二(三船敏郎)は、軍医として前線に赴いていたが、野戦病院での手術中、誤って患者から梅毒のスピロヘータに感染してしまう。復員して父(志村喬)の病院へ赴くが、6年間待たせていた婚約者の美佐緒(三条美紀)に事実を告げられず、婚約を破棄する。美佐緒を愛しつつも近づけないという苦悩の日々を過ごすことになる藤崎。


とまあ、こんな感じ。
パッケージの三船敏郎はなんだかハードボイルドですが、藤崎はとても実直な青年です。

久しぶりに観ましたが、面白い。脚本にも演出にも演技にも、無駄がありません。

なんか、たまにセリフの言い回しが芝居がかってて、とっつきにくい印象を持つ人もいるかもですが、当時の日本人の美と捉えましょう。


藤崎の苦悩を見ていると、「とにかく美佐緒には本当のことを言ってやれよ」と言いたくなりますが、なぜ事実を告げられないのかという理由も、藤崎らしい考えに彩られています。


ウジウジした、暗い作品とかではなく、意外にもドラマチックです。

もちろん、派手さはなく、地味な作品なんですが、こういう人間ドラマを丁寧に、素直にやる、というのが黒澤の本来の魅力ですね。
そこを出発点として豪快な娯楽作品も手掛けたりするわけだから、それらがつまらないわけがないよなあ。



さて、この作品はいわゆる性病を扱っているわけですが、ここ近年、日本は世界各国でもエイズの患者数が増えている国のトップだそうです。
しかし巷のエイズ撲滅運動のポスターなどよりも、この映画を観た方がよっぽど「性感染症をおろそかにしてはいけないな」と思い知らされるものがあります。
藤崎は性的接触での感染ではありませんが、「人にうつしてはならない」という葛藤と、それを放棄している人間との対比。


藤崎の中の静かなる決闘とはなんなのか。ぜひご覧になってみて下さい。おすすめですよ。
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