2012年07月19日

日本映画も大変なんです

今日は長いですよ。ご注意。(あ、いつもか)

ずいぶん遠ざかっていたmixiなんですが、メッセージが届いていたために久しぶりにアクセスしました。

んで、mixiで自分の入っている「映画愛好会」というコミュがあるんですが、そこにこんなトピが。


邦画があまりにお粗末(ク〇=〇ソ)過ぎて、邦画(邦画作る人)ってやる気あるんでしょうか?


どうも、邦画って
@監督の自己陶酔系
Aセンスの押し売り
Bテレビがただ映画館に

このどれかに該当する感じがします

今の邦画ってどうなってるんですか??
やる気あるんですか?
業界通の方教えて下さい




ネット内のものと言えど、mixi、さらにその中のコミュニティという限定されたものだから、内容については以上にとどめておきます。

ともあれ面白いね。いいトピだね。タイトルが過激なとこも良いw
で、300件くらい書き込みがあって、またこれがやや荒れ気味なときもあったりすんだけど、トピ主さんもアグレッシブな人で納得いかない書き込みには遠慮なく噛み付くのねw
そんなトピ主に対してまた批判する人もいたりすんのだけど、こういうのはおとなしくなりすぎてもつまらないしね。ただ、どこに向かっているのかはみんなはっきりしてないとどんどん横道にいっちゃう。

「日本映画アカデミー賞ってどうなんだ」って話にまでなってる。たしかにあれもなにかこう、映画ファンにとってあまりグッとくるものじゃないですからね。


さておき、僕は業界通でもないし、またそのトピに書き込みまでしてmixiへのアクセスで行き来もあまりしたくないので、黙ってはいるんですが、言いたいことはいっぱいあります。それならあそこのトピよりも、せっかくのこのブログのネタにした方がいいんじゃないかとも思ったので、今日はこれをテーマに書きます。



まあ、この「邦画だめだねえ」はいつ頃からか日本の映画好きの間では永遠のテーマで、時にはとても盛り上がります。

「映画愛好会」というコミュに入るからには、映画というコンテンツに対していろいろと、多かれ少なかれ思い入れや愛着があると思うのですが、そういう人達がああやって「どうしたら日本映画は元気になれるのか」みたいなやりとりは大いにやるべきですよね。まず誰かが言ったり考えたりしなくっちゃはじまらないんだから。
あのコミュにいる人が将来日本の映画業界に身を置くことだってあり得る。もう置いてる人もいるかもとも思いますけど。



「邦画が全体的にダメ」ってのは、これ、大体の人は「なんとなく」同意できるものです。
「いいものもありますよ」と言う人もいて、そして確かにそうなんだけども、でも、そこはかとない「ダメ感」は「まあ、たしかにね」とある程度理解いただけるものでしょう。

トピ内では、洋画が対比にされていることが多いのですが、洋画に関して言いますと世界まるごとだとあれなんで、ここではわかりやすくアメリカを例に話しましょう。

アメリカでは、年間約500〜700本が商業用として製作されています。
で、「クソ」といったら、大体そのうちの半分以上は「ひどい」ものばかりなんですよ。半分どころか、もっと多いと感じる人もいるかも知れません(こういうのは主観ですからねぇ)。たとえば劇場用に慣れてると、Vシネみたいなのは見劣りしますが、まさにそのVシネみたいなのがいっぱい製作されています。
スティーヴン・セガール作品とか「物足りない」と言う人いますけど、それを言ったらあれでもまだマシで、「だまされた」レベルのすらあるわけです。

さすがに日本の配給はそんなの買いませんから、僕らは知りもしないわけです。成功した(もしくは成功が見込まれる)作品という、ほんとにピラミッドのてっぺん、氷山の一角が輸入されているにすぎません。

つまり僕らは「アメリカの作品でもかなり本気のやつ」ばかりを知ることになる。
アメリカだけでもこうなわけですから、こうなると日本人の視点から見て「ダメな印象の邦画全体」と「いいとこどりの洋画」という対比は、邦画にとって不利かも知れません。


でもこれ言っちゃうとおしまいなので、じゃあ、そのいいとこどり同士でも考えた場合、邦画はどうなのか、ということになった時に、たとえば「日本アカデミー賞ってどうなの」と考える人もいるでしょう。トピが実際そういう方向になっています。

日アカについては、トピでもいろいろ書かれてましたが、「邦画全体のダメ感」と日アカはあまり関係性を僕は感じていません。これはたとえばアメリカ映画産業とオスカーに関してもそうです。

その証拠に、こういう映画産業やその作品の質などの話をする時、「賞や、映画表彰式典」のことを持ち出すと、かえって収拾つかなくなることがあります。日アカだろうとオスカーだろうと、単なる主観の統計や、業界のお約束事の結果なので、今日の僕は言いたいこともあるけれどもちょっとこれについては触れずにおいておきます。


で、アメリカで年間500〜600本と言いましたが、対して邦画は大体300〜400前後で、世界的に見るとかなりの映画製作大国です。
「そんなに作ってるっけ?」と感じる人もいるかもですが、それは、まともな宣伝費をかけられる作品はせいぜい100いきませんので、それ以外は誰も知らないのです。


この宣伝費について、日本映画業界をさらにダメにしてしまっているシステムがあるのですが、それはあとで書きます。


まずなぜ「邦画はダメっぽい」のか、それは邦画に限らず、「ダメっぽい映画」というのは「プロデューサーがダメ」だということです。

実は僕らが考えてるほど、監督は映画という事業の重要要素ではありません。いや、もちろん大事です。これ以上ない生命線なんですが、その生命線をも握ってるのがプロデューサーです。
映画製作のプロジェクトというのは、プロデューサーにはじまってプロデューサーに終わります。企業で言えば、プロデューサーは創業者・社長であって、監督は撮影・編集における最終決定権を一時的に与えられた現場監督にあたります。
つまり年間何本映画が作られるか、というのは、年間何人のプロデューサーがどのくらい活動しているか、ということになります。

どんなにすごい監督でも、それを発掘するのはプロデューサーの仕事です。作品に恵まれない監督というのは、イコール、プロデューサーに恵まれない、ということになります。
コッポラや黒澤がたとえどんなにすごかったにしても、彼らをすごい人にしたプロデューサーが必ずいるわけです。
ひどい映画を観たとき、僕らは「この監督だめだな」と思ったりしますが、ほんとにダメなのはプロデューサーだと思ってもいいわけです。

で、製作本数の多い国(日本もそのひとつですが)というのは、メジャー製作会社やスタジオに属さない「独立系プロデューサー」が多い傾向があるとも言えます。その多くは野心家です。


ただ、海外と日本の風潮の違いは、このプロデューサーの存在が重要視されていない、という点です。


いくら映画好きでも、プロデューサーの仕事のすべてを理解している人は少ないでしょう。想像を絶するものがあり、映画の「え」の字、芸術の「げ」の字もないような仕事も山積みです。そして、それらすべてをきちんと教えてくれる環境がない、もしくは遅れているというのが日本の特徴です。

プロデューサーが育つ環境がないのです。といいますか、育てる余裕がないのです。

これじゃいかんということで、かつては、アスミック・エースや角川、東北大学でプロデューサー養成ワークショップみたいなのもありましたし(僕はこれに参加したことがあります)、日本映画エンジェル大賞などもありました。
シナリオ大賞とか短編映画大賞みたいなのはありますが、このエンジェル大賞はプロ・アマ・インデペンデントを問わず、プロデューサーを対象とし、そのプレゼンを審査することによって企画開発力・企画実現力などに対して賞を決めるというもので、大賞は企画準備金として投資を受けられます。(これが「エンジェル(投資家)」という意味になっています)

これで実現した作品もいくつかあるのですが、大賞の中でも期待されていた「ミッドナイトイーグル」は、結局大賞を受賞した人ではないところへ企画が流れてしまい、なにかこう、突き抜けない、毒にも薬にもならないものなってしまった、というハナシもあります。


しかし、エンジェル大賞も長続きしていませんし、日本のプロデューサーの卵にとってはまだ冬がつづいています。

たとえばちょっと昔の話になってしまいますが、日本で有名なプロデューサーの一人、奥山和由さん。この人は見る人によって功罪わかれると思うんですが、北野 武はこの人いなかったらまず映画撮ってなかったでしょう。

プロデューサーというのはいろいろ失敗するもんなんですが、日本映画界はこの人の育成に失敗してしまいました。松竹はこの人を親子そろって追い出しちゃったりしたでしょう。奥山氏はこれで一気に失脚します。もちろん、今もがんばってらっしゃいますけど。ともかく、バブルということもあったかもですが、海外にコネを持つまでになるプロデューサーなんて、日本じゃまずなかなか発生しませんから、どんな理由があるにせよ、こういう人は手綱にぎって育てないと。明らかにあれは松竹の、いわば日本映画産業の保身的姿勢の表れだなとも思います。


で、この「プロデューサー」と「その仕事内容」に目を向けるということは、映画を「ビジネスコンテンツ」としてきちんと捉えるということになってきます。


世界的に見て驚く事実のひとつに、「日本の銀行は映画製作に融資しない」というのがあります。
かつて、外資映画に融資した少ない例や、みずほの映画ファンドなんてのもありますが、基本的に銀行が映画製作に貸し出しするというのは皆無です。萩原健一が「竜馬を斬った男」の製作費のために銀行に借金したと聞いて(製作費の一部とは思いますが)、へえ、と思ったりしましたが、それくらいのバジェットになると、まず銀行は見向きもしません。

これはもちろん、「映画はリスクがでかすぎる」ということなんでしょうが、別の見方をすれば、「日本映画産業は、産業として認められていない」証拠ということになります。

そしてやっぱりその原因は、回収の成功率が低いからなんですが、回収するのはプロデューサーの仕事です。というか、これのためにいると言っても過言ではありません。プロデューサーのゴール、最終到達地点です。


つまり極端に言えば、プロデューサーの向上は、産業としての向上ということにもなります。


しかし、この回収の成功という意味では、映画産業に革命的なことが起こりました。

テレビ局の介入です。先述した「宣伝費の問題システム」の件がこれになります。

映画というのは、面白いくらい「宣伝費」と「回収率」が比例します。でもこれは映画に限らないことは誰にでもわかるでしょう。
宮崎アニメがいくらヒットしたと言っても、その裏では徳間書店が目の飛び出るような宣伝費を投下しているわけです。

回収が振るわなかったプロデューサーの次の作品は、質の低下を招きます。なぜかは考えてみれば一目瞭然です。回収できないプロデューサーにはもう、誰もなかなか投資しないからです。
で、そのプロデューサーが手がける作品のバジェットがどんどん下がり、保守的なビジネスとなっていきます。

で、回収に欠かせない命綱、宣伝費ですが、これで一番お高いのがTVスポットです。数億くらい平気で飛びます。そのかわり、効果は絶大です。
TVスポットが打てる製作プロジェクトというのは、ほんの一握りで、日本だったら全体の80%以上は「TVでの宣伝なんてとんでもない」という状態です。日本では制作費3億で大作、5億越えなら超大作みたいな風潮ですから、そこからまた宣伝費なんて大変です。

単館レベルの作品でもたまに「絶賛上映中!」とTVで見たりしますが、それはよほど口コミなどで人が入った幸運な例で、上映前に打てていたわけではありません。TVスポットを打てるところまで人が入ったということで、ここで弾みをつけようという勝負に出ているようなものです。

で、TV局の介入というのは、製作にTV局が加わることによって、このTVスポット代がタダ同然みたいになるということです。これがどんなにでかいことか、おわかりになるでしょう。

TV局製作の作品といえば、「踊る大捜査線(劇場版)」がパイオニアです。

たとえ「踊る大捜査線(劇場版)」を観たことない人でも、僕らのほとんどの人があの青島刑事の「事件は会議室で起こってるんじゃない!」という場面を知っていますね。これだけでも、どれだけTVスポットが打たれまくったかがわかりますし、またその認知効果が絶大かということもよくわかります。
とにかくフジは、ことあるごとにあのスポットを流しました。

あれだけの量のTVスポットを打つなんてことは、普通の日本の映画製作では不可能です。
しかしTV局はいくらでもできる。しかも、そのスポット枠を独占できる。つまり、同時期に上映される競合作品のスポットは受注しない(放送しない)、という戦法も取れるのです。で、実際、そうなったわけで、これは関係者から問題視されました。

これによって、回収リスクが激減し、また実際に回収したので、今ではTV局が製作委員会に名を連ねることは珍しくなくなってきました。


そんなの、TV局の噛んだ映画の一人勝ちじゃないか、と思う人もいると思いますが、実際にそのとおりで、実はこの「映画製作にTV局が介入する」ということは、アメリカなどでは独占禁止法で禁止されています。なぜなら、上に書いたようなことが起こるからですが。


つまり、禁じ手なわけですが、それによって特に独立プロや、そのプロデューサーたちはますます勝ち目がなく、活躍が制限されているというわけなんです。


「でもさ、その禁じ手で市場を独占しているTV局介入作品や、大手製作会社のメジャー作品ですら、どれも満足のいくものとは言えないじゃんね?」 と疑問を呈する人もいるでしょう。

回収しているということは、喜んで観ている人もいるわけで、ああいったものに不満を感じる人というのは、単に「製作側のターゲットになっていない人」だったりすることが多いのですが、まあそれはおいといても、質が向上しているかといえば、そうではないと僕も感じています。


原因はいろいろあって、挙げればキリがないんですが、大きな原因のひとつに、日本特有のブロック・ブッキング・システムというのがあります。これは映画通の人なら、知っている人もいるでしょう。
これはよく「悪習」と言われたりもするのですが、日本の配給メカニズムは、このブロック・ブッキング・システムに支配された領域があります。

特に大手(東宝系・東映系)のはじめとする全国の封切り館は、ほとんどがこのブロック・ブッキング・システムです。これはなにかというと、簡単に言えば約一年先までの上映スケジュールが組まれているということで、それは作品の内容まで決まっています。

これは劇場にとってもヘンなシステムで、どんなに人が入っても、上映期間を過ぎたらスケジュールにそって次の作品を掛けなきゃならず、ロングランができません。また逆にどんなに人が入らなくても上映期間中は掛けなきゃなりません。

普通、配給・上映というのはフリー・ブッキングなわけで、配給がその都度、劇場を押さえなきゃなりません。そして劇場側も、掛ける作品を選ぶことができます。シネコンというのは基本、フリー・ブッキング制です。

なのになぜこんなことするかというと、このやり方だとチケットの販売や宣伝がしやすく、また配給が劇場を押さえるのに苦労しなくてすむ、というのがあります。

しかし、このシステムの一番のデメリットは、「スケジュールを埋めるための作品を作り続けなくてはならない」というのがあります。作り続けないと穴が空いてしまうわけです。

つまり、プロデューサーなどが「これでいこう!」と作りたい作品を手がけるというよりか、「なんか作らないとまずい。おい、なんかないか」ということになります。

この例ひとつとっても、邦画全体の質が上がっていくわけがない、とは思いませんか。

プロデューサーなんてのは大変ですから、好きでないと務まりません。
彼らがなんでそんな地獄みたいなとこへ首突っ込むのかというと、それはやっぱり映画は「夢」があるからです。これなしでどうしてできましょうか。そしてその「夢」と「ビジネス」を成立させなければなりません。

でもいくらビジネスといっても、「やりたくもない」作品では情熱がわきません。

海外でも評価された、「おくりびと」という作品がありますが、あれは本木雅弘がプロデュース的作業もしています。本木さんが原作を読んで、「これを映画化したい」と思い、行動をはじめてから実現まで12年。相当大変だったと聞いています。

この作品、国内外含め、受賞した内容もすごいものがありますが、やっぱり良い作品というのは必ず作り手の情熱がありますよね。これは工業製品ですらそうです。


この情熱を活かすことができなくっているという悪循環が、邦画界の一番の痛手なんではないでしょうか。

しかしこう言うと、「でも情熱をかけて作れてる人だっているだろう。だけど、そういうのに限ってひとりよがり」という意見も出てきますでしょう。
でもそんなのはどこの世界だってそうなのです。音楽だろうが演劇だろうが、そういうのはたくさんあります。
でもそこで采配をとるのがプロデューサーであるわけで、いい脚本を開発し、いい監督を選択してどのようにやらせるか、ということになります。「情熱」をどう開花させるか、なわけです。

だから僕ら映画ファンがもし、邦画の明日を憂いるなら、もっとこの根源的な立場にあるプロデューサーというものにも目を向けてみて、時にはリスペクトし、時にはものも言い、応援するという土壌が育まれるというのもあっていいかなと思います。
ファンが映画を育てる、という言葉があるなら、まさにこの角度は必要だと感じています。


つか、長くなりすぎましたし、なんかラーメンが無性に食べたくなってもきましたので、今日はこのへんで。



posted by ORICHALCON at 09:09| Comment(2) | TrackBack(0) | Cinema

2012年07月18日

フォーチュン・クッキー

FreakyFriday.jpg

フォーチュン・クッキー

監督 : マーク・S・ウォーターズ
出演 : ジェイミー・リー・カーティス  リンジー・ローハン


今日は隠れた傑作をご紹介します。もしレンタル屋で迷ったらまずこれを!

原題は「Freaky Friday」。このタイトルで「ん?」となった人はなかなかの通です。
これは1976年に放送されたテレビ映画「Freaky Friday」のリメイク。当時の主演は子役で売り出し中のジョディ・フォスターでした。


「親子の中身が入れ替わってしまう」というプロットを最初にやった、元祖の中の元祖です。


本作の母親役は、僕の大好きな女優、ジェイミー・リー・カーティス。娘役がお騒がせアイドルのリンジー・ローハン。
テンポの良い展開で笑って笑ってホロリとさせる、オリジナル版をはるかに超えた、ゴキゲンなコメディとなっています。


往年のホラーファンにとってはマドンナと言っていいジェイミー・リー・カーティス。なにげに演技派です。
「大逆転」でコメディセンスを発揮し、つづけて「ワンダとダイヤと優しいやつら」。コメディ路線でいくのかなと思った矢先、「ブルースティール」でサイコ相手に戦う女巡査というハードな主人公をやってみせ、びっくりさせてくれました。
この人、男臭い(てか、ごつい)顔してるんですが、なにげにナイスバディです。「トゥルーライズ」でシュワルツネッガーの妻を演じた時、どんだけナイスバディかを見せつけてくれました。

久しぶりに見る彼女でしたが・・・さすがにおばさんになってしまいましたねw しかしレスポンスとフットワークの良さは健在です。


さておき、気楽に楽しめる映画ですので、今回は気楽にいきましょう!


母親のテスは博士号を持つ精神カウンセラーで、その著作が出版されるなどそこそこ成功している。夫を亡くしているが、新しいパートナーとの婚約を決めています。対する娘のアンナは高校生。バンドをやっていて、学校でもちょっと教師に目をつけられている問題生徒。思春期の娘のいる家庭によくあることだが、この親子は日頃なかなか咬み合っていません。
そんな二人が、フォーチュン・クッキーの魔法で、ある朝入れ替わってしまいます。


入れ替わる前
f_c_1.jpg

入れ替わり後(アンナは母親のクレジットカードで服から髪から好きにし邦題www)
f_c_2.jpg


もちろんパニクる二人だが、まわりに説明などしようがなく、アンナは仕方なく母親の仕事場であるクリニックへ、テスも学校へ通うはめに。
外見は母親でも、中身は娘なわけで、クリニックではハチャメチャな診療w
母親の方は学校における娘の実態に唖然!

アンナには想いを寄せる青年がいるのだが、アンナの性格の変容がたたって愛想をつかれてしまう。そしてついには母親であるテスに恋してしまう青年・・・中身はアンナですから、「最高にCoolなお母さん!!」となってしまうわけw

アンナはバンドでギターをやっていて(このバンドがまたツインギターでイケてたりするんですが)、大事なバンド・オーディション出場を明日に控えています。テスはギターなんか弾けないわけだから大変です。そして、その時が来てしまいます。

いきなりキスひとつでも拒むようになったテスに不審がる婚約者、突然優等生になったアンナにとまどう教師や友人たち。これらが織りなすドタバタが練られた脚本によってテンポよく展開し、最後にちょっぴりジ〜ンとさせられてしまいます。


テーマは「家族」。アメリカでは知らない人はいないくらい大ヒットしました。


ハリウッド娯楽作の「ご都合主義的」なノリはありますが、それを素直に楽しんじゃおう!というハッピーな作品です。
当時のヒット曲が並ぶ劇中のサントラ(これも売れました)もノリノリですよ!


「少年メリケンサック」のレビューでも触れた、コメディの王道プロット、「装い」と「悟られまいとする」がいかんなく発揮された作品でもあります。

久しぶりにリラックスして楽しめる映画に出会いました。ぜひご覧下さいませ!



posted by ORICHALCON at 10:15| Comment(308) | TrackBack(0) | Cinema

2012年07月16日

ガントレット

gauntlet.jpg

ガントレット

監督 : クリント・イーストウッド
出演 : クリント・イーストウッド  ソンドラ・ロック


"ガントレット"と聞いて、かつてのATARIの名作ゲームを思い浮かべる人は、年齢がある程度バレます。
腕につける甲冑を思い浮かべる人は、やはりRPGゲーム好きか、もしくはよほど物知りかということになります。(こちらはフランス語)

本作を思い浮かべる人は、クリント・イーストウッドのファンか、ゴールデン洋画劇場の世代かも知れませんw


そもそもガントレットとは、刑罰の一種です。

中世に行われたガントレット刑の絵
200px-Spiessgasse_Frundsberger_Kriegsbuch_Jost_Ammann_1525.JPG


基本としては、棍棒など武器を持った者たちが囲むように道をつくり、その間を通らせるというもの。もちろんそれなりの攻撃を受けるが、それでも耐えて通りぬけた者は許された、などとWikipediaにはあるが、腕を縛って通らせて、一方的に殺してしまうというのもあったといいます。

ATARIのゲームは、その内容からこのタイトルが使われているが、実はこの作品もそうなんです。

クライマックスに、武装した無数の警官の銃撃の間を突破するというシーンがあります。もちろん、これがこの作品の目玉でもあります。

g-0.jpg

g_1.jpg



この作品はかつて、ゴールデン洋画劇場でよく定期的に放映されていました。再放映が繰り返されるその理由は、まず単純に面白いというのもありますが、オリジナルが100分というちょうどいい尺と、「二人の男女だけを追うロードムービー」という構成のシンプルさゆえ、編集がしやすい(カットしやすい)のです。お色気要素もあり(放送する側にとっては重要)、そしてなにより最後のクライマックスシーンのインパクトがすごいので、この部分だけでTVスポットによる「つかみはOK!」というのがでかいw


僕は録画したゴールデン洋画劇場版を長く所有していましたが、オリジナルをちゃんと観るのはこれが初めてだということに気がついた。


ストーリーとしては・・・

イーストウッド演じるショックリー刑事は、市警察委員長からの密命により、ラスベガスから証人喚問のため、ガス・マリーの護送をすることになる。ガスを男だとばかり思っていたショックリーだが、ラスベガスの留置場にいたのは若い売春婦だった。「ここから出たら私もあなたも殺される」とわめくガス。ショックリーは救急車による偽装でガスを連れ出すが、ガスの言う通り行く先々で猛攻撃を受ける。しかも攻撃してくるのは警察機構だった。


「一人の刑事が一人の女を守るために移動する」というロードムービーシチュエーションは、シルベスター・スタローンの「コブラ」を思い出させますが、そもそも「コブラ」は、スタローンの憧れるクリント・イーストウッドの代表作「ダーティ・ハリー」シリーズを意識して作られました。劇中にも「ダーティ・ハリー」の出演者がオマージュとして二人も出てくるほど。いわば、「ダーティ・ハリー」と「ガントレット」を合成したような感じなんですかね。(ただし、原作としている小説は別にある)


また、この「ガントレット」と「コブラ」はもうひとつ特異な共通点があります。それは、「主演の俳優が自分のオンナ(妻)と出ている」というもの。「ガントレット」はイーストウッド自身が監督、「コブラ」はスタローンが脚本、つまり発言権があるわけで、「この役は俺のオンナにやらせる」といった展開も可能だったのかも知れないですね。

ただ、「コブラ」のブリジッド・ニールセンが演じた女性は、そのキャラクター構築に失敗が見られるのに対し、「ガントレット」の売春婦ガス・マリーは充分、作品の魅力のひとつとなっています。そう、イーストウッドはソンドラ・ロックの使い方をよく知っている。どうすれば彼女が魅力的に使えるかを心得ている。

「コブラ」の時点でスタローンとブリジッド・ニールセンは結婚したばかり(撮影後に離婚する)。イーストウッドとソンドラ・ロックも、一緒に住み始めてまだ一年そこら。でも「女優の扱い方」も含めた映画人としての力量は、この時点ですでにイーストウッドが先を行っていたのかも知れませんね。


先にも書いたように、非常にシンプルな構成で、現代のブラッカイマー作品あたりに慣れた人たちには物足りないかもしれません。
最近は、携帯電話やインターネットの普及なども手伝って、ストーリー展開が早く、複雑さも見せるようになっている。しかし「ガントレット」の背景である70年代は、公衆電話しかない時代。しかもアリゾナという荒野を行くロードムービーなため、複雑になりようがない。

最近の娯楽作品、特にアクション、サスペンスなどと呼ばれるものはいろいろとプロットやエピソードが詰め込まれるカタチになるため、それを上映時間に収めるためのスピード感溢れるカメラワークや、モンタージュ技術が発展してきました。これは「ダイ・ハード」あたりが転機となっていて、模索・構築されてきた結果、「スピード」の大成功で、ある程度成熟を迎えます。つまり、「そういう感じ」が得意な監督が台頭してきたとも言えるわけで、たとえば「ダイ・ハード」の撮影監督であるヤン・デ・ポンは「スピード」の監督です。
「ダイ・ハード」以前のブラッカイマー作品「ビバリーヒルズ・コップ」の作りが、今見るとダラっとして見えるのは、古典的な監督が娯楽作品を撮っているというのも原因のひとつです。


でも、そういう意味でいえば、クリント・イーストウッドは超がつくほど古典寄りの監督です。だけど、世界で誰よりも成功している監督です。


主人公のショックリーは、早くもやや人生に疲れ始めた刑事。冒頭、ジャック・ダニエルの瓶を落として割ってしまうところから、すでに彼の人間描写が始まっています。

長いこと相棒だった同僚は先に出世していますが、ショックリー自身は生きる目的を失いかけています。
ショックリーが、ガスに「警官になった理由」として、「法を守る警官だけが、生きる目的を持っていると思っていたから」と言うシーンがありますが、ショックリーはガスの護送を通して、その警官というものにも失望させられていきます。

しかし、ガスとの出会いが、このショックリーの人生を救い始めます。


ソンドラ・ロックにとって、最もはまり役と言ってもいいガス・マリー。ソンドラ・ロックは彼女を、脚本レベルを超えて魅力的に演じました。
ガスは、大卒女(当時は今よりもステータス)であり、頭もよく、気の強い売春婦ではありますが、完全なダメ人間ではありません。
大学を出ているのに(前の職業は秘書であったりします)売春婦に身を落としているマリーも、やはり人生を見失っていると言えます。


最初は、ガスは警官であるショックリーを、ショックリーは売春婦であるガスを、それぞれ軽蔑しあっています。
しかし、この二人がお互いにつながる瞬間がやってきます。

ショックリーがバイカーの襲撃を受け、リンチに会うところです。縛られて身動きできないショックリーを暴行する男たちを止めるため、ガスは胸をはだけて自分を犯すように誘います。ガスはこれを成功させるのですが、彼女の服をはぎとってむさぼるのに夢中な男たちの隙をついて、ショックリーも反撃を成功させます。

この危機を脱出したあと、傷だらけのショックリーと服の前を合わせたガスが腰を下ろして一息つく、という絵があるですが、ここで二人は言葉が見つからず、ただ目を合わせます。とてもいいシーンです。


ショックリーは、彼女を証人として届けるという任務を遂行するため、運転席を鉄板で補強したバスを使い、裁判の開かれる市庁へ向かいます。この道中、それを阻止するために市警が総出で「ガントレット」を繰り広げるわけですが、このシーンは今見ても圧巻です。


とても素直な映画です。こねくりまわしたりせず、イヤなものはイヤと言い、好きなものは好きと言う、そんな感じの映画です。


こういったことの地道な積み重ねが、今のクリント・イーストウッドを構築しているのだなと思いました。


さっくりと楽しめる作品ですので、もし未見の方がいましたら、ぜひ。


posted by ORICHALCON at 21:33| Comment(4) | TrackBack(0) | Cinema

2012年07月15日

スターシップ・トゥルーパーズ

rq|dZ2[s.|f[|r@.jpg


スターシップ・トゥルーパーズ

監督 : ポール・バーホーベン
出演 : キャスパー・ヴァン・ディーン  マイケル・アイアンサイド  デニス・リチャーズ


はい、今さら出ましたごめんなさい。
でも観ちゃったのだからしょうがない。

実はこの作品、公開時にちゃんと劇場で観ています。
で、なんで今さらまた観たかと言うと、これはなんか麻薬に似たような危険な誘惑があるのです。


でもまず言っておかなければなりません。
この映画は、ある意味、最低です。
ひどすぎます。はっきり言ってダウトです。

当時一緒に見に行った人間はあまりのひどさに怒り心頭、「いかにひどいか」を延々と僕に語りました。もちろん全面同意しました。

監督はポール・バーホーベン。「ロボコップ」でいきなり認められた彼は、「トータル・リコール」「氷の微笑」とたてつづけにヒットを飛ばした後、「ショーガール」という地雷を踏んでしまいラジー賞(アメリカの最低映画を賞する式典)の多部門を総なめにします。
この賞、さすがに受賞してもトロフィーを受け取りに行く人は皆無だったのですが、彼は授賞式に出席するという快挙に出て伝説となります。

そのあとに撮ったのがこの「スターシップ・トゥルーパーズ」。
ラジー賞を取って開き直りが出たのか、爽快なほどくだらない映画です。

ただし、興行的にはヒットし、成功した映画です。そこは間違えないで下さい。


これは原作があり、あまりにも有名なSF小説、ロバート・A・ハインラインの「宇宙の戦士(Starship Troopers)」です。
そしてこの小説は、あの機動戦士ガンダムのモチーフになっていることは、一般の人はあまり知らないでしょう。若い青年が戦場へ赴き、成長するというストーリーは、この小説からインスパイアされています。また、この作品にはパワード・スーツという着脱式の戦闘スーツで身を固めた機動歩兵というのが出てきますが、これがモビル・スーツのヒントになっています。ただ、玩具販売を狙うスポンサーの意向で、結局は大型ロボットになってしまい、「モビル・スーツ」という言葉だけが残った感じです。


まじめにストーリーを紹介する気が起こらないのですが、簡単に説明しますと・・・・

連邦制となった未来の地球。宇宙への植民進出が進むが、昆虫型宇宙生命体と衝突し、戦争状態になってしまう。
主人公のジョニーは自ら志願して軍に入隊。厳しい訓練を乗り越えて宇宙生物と戦うため戦場へと向かう。


この作品は、僕の中では「コメディ」に分類されている。たぶんそれは間違っているとは薄々気づいているのだけど、僕は劇場で一人、始終腹を抱えて笑ってしまっていたのであります。

まず、この作品は「戦争版 ビバリーヒルズ高校白書」みたいなノリがあることを知っておいてください。


ジョニーが高校を卒業し、軍に入って訓練するところから始まるのですが、この訓練からもうおかしくてしょうがありません。
我々現代人から見て、そうとう先の未来のはずなんですが、やってることがベトナム戦争時代とあまり変わらんのです。いや、逆に後退してるかも知れません。

実弾を使用した突撃訓練で、ジョニーが指揮するチームの一人がつまずいて転んだはずみに引き金を引いてしまい、仲間の頭をふっ飛ばしてしまいます。この救いようのない展開に思わず「うははw」なんですが、あわてて主人公が「衛生兵!」と叫ぶところでまた笑ってしまいます。だって頭半分なくなってるんですよ? いくら未来でも無理でしょうこれは。

で、ジョニーはそのチームの長として罰を受けるのですが、なんと上半身ハダカにされて、両腕をバンザイ状態に縛られます。なにかっていうと、ムチ打ちなんです。まるでローマ帝国のコロシアムみたいな絵になります。
で、ムチを打つ教官が、そっとジョニーに近寄って、「俺も経験がある。これを咥えるといい」と歯を食いしばるための噛ませ木を差し出すところでまた爆笑。

「辛かったら声を上げてもいい」とか、いちいちセリフがツボにはいりまくりで「もうやめてwww」と身をよじる僕。
で、パシーン。パシーン。主人公、耐えられなくなって悲鳴を上げる。また笑ってしまう僕。


で、いよいよ宇宙に出て戦場へ、ということになるんですが、コンテストエリアである最前線は荒地の広がる惑星で、そこへジョニーたちは向かいます。
ここからすでに間抜けな展開になってしまうんですが、バグズの待ち受ける惑星へ近づくのに、バグズ側が吐き出すプラズマ弾の応酬を喰らいます。地球連邦側の宇宙戦艦や歩兵シャトルを近づけまいとしてるんですが、これは青い火の玉で、それもゆっくりと飛翔してくるために避けようと思えばいくらでも可能なシロモノ。しかし、軍部の最新情報では「これはまったく無害」ということになっているため、人類側は「虫どもが役立たずを放ってやがる」とばかりに惑星へ向かいます。
ところがその情報は大間違い。間違いどころかすごい破壊力。巨大戦艦が次々と撃沈され、いきなり連邦軍はパニックになります。
ここでまたいくらか爆笑。

そんな中、なんとか歩兵を投下。ジョニーたちは「海兵隊」みたいなものであり、いち早く前線に送り込まれて制圧展開、後続のための基盤を確保するというやはり海兵特有の任務なんですが、原作にあるようなモビル・スーツは着用していません。
装備は現代の兵士とほとんど変わらず、下手すると現代の最新装備よりも劣っているかも知れません。70〜80年代ごろの米軍の装備で、デザインを未来っぽく変更しているような感じ。

宇宙生物、アレクニド・バグズは、巨大な昆虫型猛獣で、クモのような兵隊アリ級のバグズでも全長5〜6mくらいはあります。
これがまたとても獰猛、俊敏ときてまして、それが時には地面を覆い尽くす津波のような数で襲ってきます。

バグズの足はアイスピックのように鋭く、さらにカマのように切り裂く機能を持っています。これがまた嘘のようによく斬れる。胴体部には巨大なアゴがあり、これで人間を噛み砕きます。
対するジョニーたちは軽装のボディーアーマーとヘルメット、武器はポンプ式ショットガンを備えたブルパップ式アサルトライフル。

で、ジョニーたちは「おら〜!!!」と闘魂むきだしで突撃をかけるのですが、どうなるのかなと思ったら、一瞬で「大惨敗」。(突撃開始から3分もせずに「退却!」という声が聞かれます)
バグズは野菜サラダでもつくるかのように兵隊たちを切り刻み、スクリーンに兵士の首や手足が宙に舞います。これがまたツボにはいっちゃって、こっちは笑いをこらえるのに必死です。

うん、バーホーベンはこれがやりたくてわざわざ「モビル・スーツ」の設定をはずしたんだなとわかります。
そもそもバーホーベンは巨大昆虫と戦う映画を作りたくて「宇宙の戦士」の企画をたてましたが、当時はまだCG技術が未熟で、実用レベルと認知されるには「ジュラシック・パーク」まで待たなければなりませんでした。
バーホーベンは、巨大昆虫の撮影はフィル・ティペットのストップ・アニメーションでやるつもりでしたが、予算が見合わないために企画は中止。それでもフィル・ティペットと組んでなにかできないかというところに「ロボコップ」の話が舞い込んで、バーホーベンは監督をすることになります。

向上したCG技術のおかげで、やっとバーホーベンは念願の「巨大昆虫が面白いように人間たちを切り刻む」というシーンを作ることが叶いました。もう、バーホーベンが楽しくて楽しくて仕方がないとばかり作ってるのが、画面からにじみ出ています。
バーホーベンの中にあるバイオレンス表現というものが、相当過激であるというのはすでに「ロボコップ」でも一目瞭然です。過剰なほどの肉体破壊に出血量。まさに「スターシップ・トゥルーパーズ」はそれの大感謝祭です。

バグズの外殻は意外にも硬く、急所に撃ち込まないかぎり死なないので、一匹あたりに数名の兵士が撃ちまくるんですが、それでもあっさりみんな殺されちゃう。

「ピンチ」とかではなく、抵抗の余裕なしに蹴散らされるその様は、「戦場」というよりも「一方的な殺戮現場」です。

ジョニーも瀕死の重傷を負い、人類は撤退するんですが、その後に地球側で発表される戦果報告で「100,000 DEAD IN ONE HOUR(1時間に10万人が戦死)」と大写しになるところで笑いは最高潮を迎えます。

もちろん、コメディではないので、笑いは制作側の意図するところではないんですが、僕はツボに一旦はいっちゃって、すべてがギャグにしか見えませんw


いや、僕は間違っていない。連邦軍がいちいち流すCMが出てくるんですが、これがなによりの証拠です。

そう、この映画は大いなる「ベトナム戦争」のパロディなのでございます。


posted by ORICHALCON at 18:18| Comment(4) | TrackBack(0) | Cinema

2012年07月14日

舞台観劇 「靴の中の小石」

「野いちごと子ねずみたち」の時に出演してくれた、川口茂人さんと田中香澄さんが出演している舞台、Toshizoプロデュース作品「靴の中の小石」を観てきた!!

こちらはまず脚本を用意するという普通のやり方ではなく、ある程度設定を決めたらそれを元に俳優たちが即興シーンをやり、それをビデオで撮ったりして設定やプロットを練り込んでいくという方法で舞台を作っています。

ドラマの撮影現場が背景となっていて、面白かったです!
一緒に観に行った仲良しの直美さんも大喜びで、彼女も言っていたけど、ほんっとに俳優って大事だなと思い知らされました。
舞台でも映画でも大抵そうなんだとは思いますが、特にこちらの舞台は「俳優ダメだと成り立たんなw」というくらい、俳優を楽しむものになっています。

また、こちらの舞台はいつも、小道具や舞台装置を極力排するというスタイルで、それがかえって見るのに集中しやすいねと直美さんが言っていました。ほんとにそのとおりだと思いましたよ。不思議ですよね!

演出・脚本の藤原稔三さん(出演もされています)とは、前に別件で二人して飲んだ以来でした。
「あんときゃ飲んだねw」と笑いあったのですが、すごく魅力のある人です。また、舞台に上がると完全にいなくなってしまいます。というのは、稔三さんがいなくなっちゃう。まったく別の人になってしまうからw こうなりたいものです!(>_<)


この作品、16日までやってますので、興味を持たれた方はぜひ!

ToshizoプロデュースHP
posted by ORICHALCON at 23:15| Comment(1) | TrackBack(0) | 日記