おはようございます。
最近起きるの早いです。
昨夜、Yahooにアクセスしてみたら、なにかある事件の上告審判決で、死刑確定という記事に目が止まった。
その記事を見てみると、さらにその下に関連記事としてやはり死刑確定判決の記事のトピックが並ぶ。結構あるもんなんだなあと。
で、ビートたけしさんがちょうどこんなことを発言したらしい。
記事 : ビートたけし無差別殺傷事件を語る 死刑=最高刑はもう古い
死刑制度は今も昔も、議論の対象だ。難しいねえこれ。
なんで難しいかっていうと、賛成派も反対派も、どっちの言い分もそれぞれいちいち正しいからなんですけどねw
たけしさんが言うように、「死にたいから(死刑にしてもらいたいから)無差別殺人を犯す」なんてのも出てきちゃった。
こういうのも、死刑制度反対派にとって重要なファクターになるでしょう。
僕は死刑制度についてどういう立場でいるかというと、非常にずるくて、「司法にただ従う」というものです。制度に従うわけです。
それはつまり、国家がそう定めているのであれば、「支持する」という立場です。ましてや、昨日今日定められたものじゃありませんし。
もし司法が死刑制度を廃止したならば、その意志に従います。
ですから、現在のところ、死刑制度に対して反対でもなんでもありません。
しかし、廃止すべきである、反対すべきであるという立場の人たちからはこれでも、ずいぶん叩かれます。
まあ、結果的に支持しているのと変わらないからですが。
で、そこで僕がそういう人達になにか言われたら、こういうスタンスをとっています。理解されるとはかぎらないのですがね。
僕にとって、刑法(司法)というのは、適用・執行される以前に、定められた瞬間からその国家の意志・姿勢の宣言でもあるということで、死刑については、「人権に対するその国家の姿勢」の在り方の象徴でもあると認識している。
宗教が政治に影響を与えている国などでは、戒律を破ることじたいが犯罪であったりし、麻薬持ってたり不倫しただけで翌日死刑、なんてのもある。
そしてそういう倫理観は、国によっていろいろと異なる。
日本では、死刑が適用される犯罪は、外患誘致など特殊なものをのぞけば、それは「確定的殺意の伴った殺人(特に複数殺人)」とされている。
ということで、司法は「確定的殺意による殺人」は「最もたる人権の剥奪行為」と見なしている、と僕は認識する。
「確定的殺意による殺人」というのは、「カッとなって刺し殺しちゃった(未必の殺意)」とかではなく、事前に包丁用意してアリバイ作りまでして殺しに行くとか、さらには死体を埋めるためにビニールシートにスコップまで用意してるとか、強盗に入って顔見られたから殺すとか、もしくは殺す前提で強盗に入るとか、果てはゴルゴ13みたいな職業的殺人もそうだ。そして被害者が複数という・・・。
こういうのは「マジありえない」としているのが日本の刑法なわけでしょう。
そこで、その「最もたる人権の剥奪行為」に対しては、「その行為者のいかなる人権も一切認めない」という姿勢になっているわけで、その現れが単に、「死刑」(一切の人権を剥奪することによって処断する)になっているというだけのこと。
つまり、単に日本国家は「確定的殺意を伴った殺人」、これを一切認めないという、強い否定を表している国家であるということであり、国民の生命と人権を守ることに対する考え方が事前にここに提示されている。
それはどの国もそうだと思うが、それを司法上でどのように定めるかによって体現されているか、というだけの問題。
しかし死刑そのものが殺人であり、最悪の人権侵害ではないか、という話にもなるのだけど、「いかなる人権も一切認めず、一切の剥奪をもって処断とする」ことがつまり「死」(生存権という根源的人権を剥奪すること)であるという認識であるかぎり、やはり「確定的殺意の殺人は最もたる人権剥奪行為と見なす」ということにもつながるわけで、矛盾がない。輪になっている。
ある意味、フェアすぎるとも言える。まさに弁護士のバッジに描かれている天秤状態です。
このドライとも呼べる、静かなほどに均整のとれたバランスの姿に、人権剥奪行為に対する日本国家の強固な姿勢を見るのは僕だけなんでしょうか。
僕だけ? あ、そうか。
まあ、さておき、たとえば、すでにヨーロッパをはじめ、世界各国は死刑制度廃止が進んでおり、死刑制度が残っている国の方が少ないという話も出てきたり、また、人権が軽んじられる傾向のある国ほど死刑執行が盛ん(中国など)という認識などから、日本は遅れている、みたいな展開にまでなる。
しかし「遅れている」「進んでる」などという、そういうくくりで死刑制度を考えるのは甘いのではと。人間の次に頭のいい動物であるイルカを食べるべきではないということに行き着いている倫理観は、より進んでいる、というようなレベルに感じます。
それにいくらなんでも日本で、役所の金を使い込んだだけで死刑になるということも絶対にない。
何度も言うように、単に、犯罪者以前に、国民の生命と人権を守ることに強い宣言がなされているにすぎないわけでして。だから、死刑が執行されること(犯罪者を殺すこと)を前提としているわけでもなく、むしろ、それが起こるそもそもの行いをこれ以上ないかたちで強く否定している。(ま、これは言いすぎかもね?)
しかし反対派というのは、この犯罪者が殺されることが先にきちゃっているわけで、そういう意味では、この僕の考えとは咬み合わないだろう。
「だって実際に人間(受刑者)が殺されるという殺人が国家の名の下に行われてるわけです。これは許されません」ということなのですが、これがどんなに許されない行為かということがもう、すでに宣言されている上でのことだから、僕としては仕方のない事です。
まあ、とにかく、そういうわけで、司法(国家)が現在、そのような姿勢であるのなら、それはそれで支持するというのが僕のスタンスなのであります。
たとえば、もし外国人から「なぜ日本はまだ死刑制度など残っているのか」と聞かれたら、単純に言えば「日本国家は意図的による生存権剥奪行為、これを事前に一切認めないと強く定めているだけです」と答えることになります。
「しかし、死刑を廃止したところで、その生存権剥奪行為への拒否が緩まるというわけではない」という言い分もあるでしょう。そのとおりです。
もしこれが、「生存権剥奪は許されない行為であり、これに対ししかるべき処断はあっても、国家がいかなる理由にせよ、一個人の生存権までを奪うことは一切これを許させない」という認識へと国家が変われば、これこそ死刑廃止ということになります。
こうなったら、それはそれで素晴らしいんじゃないんでしょうか!
ただ、刑法は、本来は犯罪の抑制や防止を主な意図として定められているわけではないので、よく聞く「死刑制度が凶悪殺人の抑止にはつながらない」という批判には同意できないのです。それはよくても江戸時代にやるレベルの議論であり、刑罰の度合いによって犯罪を抑制できるできないといった議論自体が、それこそ「遅れてる」んじゃないんでしょうか。
たけしさんのコラムは(まあ、これは一部抜粋のようですが)、死刑じゃもう手ぬるいという話にも取れるわけですが、「ならどういう罰を与えるべきか」という次元になってしまってるわけで、いわば「犯罪者に対する取り扱い」の話です。
僕が話しているのは、「人権侵害に対する国家の倫理観」の話です。
そして、日本の姿勢は大変厳しいということ。厳しいどころか、完全否定です。
それによって定められている刑法にのっとって、判決が下ったのであれば、それは執行されなければならないとも思います。
さて、ではたけしさんのコラムにある、「死刑になることを求めて人を殺す」という問題。
これを見誤ってはいけないのは、死刑制度が犯罪を起こさせたわけではなく、死刑制度が単に利用されたにすぎません。
「でも、その利用される死刑制度にも問題があるでしょう」という意見も出てくるわけですが、本当の問題は年間3万人にものぼる自殺志願者が発生していることです。「死刑制度が利用されるという異常事態」にもっと目を向けなければ、いつまでたってもらちがあきません。
この自殺者急増について、「これじゃあ、また宅間守みたいの出てくるよ」とたけしさんは警鐘を鳴らしてて、実際に心斎橋事件が起きて「それみたことか」になっちゃった。
「だったら死刑制度を廃止しよう」と廃止論再燃とか、たけしさんのように「殺さずに生き地獄にしたらいいのかも」というのでは、問題解決になっていません。
自殺志願者については、死刑制度に負けないくらい難しい問題ですし、特に欝のように「意味もなく死にたくなる」などというレベルになると、我々もお手上げです。
しかし、手を上げていてもしょうがないので、いろいろと目を向けてみて思うのは、多くの自殺志願者に横たわる共通の特徴に、「価値観の崩壊・低下」が見られます。
日本人は、「共通の価値観」についてはとても強固な民族で、ひっくりかえして言えば「価値観の共有」が得意なわけです。東北大震災に襲われた中でも、配給や公衆電話に規律よく並ぶ姿などは、世界中がびっくりしました。この時みんなが好き勝手やってしまったとしたら、それは「個」の価値観の主張の衝突ということになります。
そういうことにならず、「空気を読む」とか、「協調性」を保つとか、これらはどんなところにどんな価値観を共有しあえるかが鍵となります。
しかし、保たれている全体性の価値観とは違う、「個」の価値観は、どうでしょうか。それらが崩壊、もしくは、低下、または行きどころを失っている時代なのかも知れません。
女子高生が自ら援助交際に走る、なんてのはこれ、なかなか今もなくならないそうですが、これは典型的な価値観の崩壊、低下です。
昔は売春なんてのは食うに困ってだったのが、現代はお小遣い欲しさで、果ては「エッチできてお金ももらえてラッキー」とまで言わせます。
これはどこに価値が置かれているかという、価値観の視点の変移の問題であって、しかもこれの怖いところは「個人的存在」による価値観ではなく、先に述べた「共有的価値観」というレベルで拡大していることです。要は「あのコもこのコもやっているし」的な共有性で、つまり、「個人的価値観」が鍛えられておらず、育成されていないがゆえ、共有的価値観に頼って支えられ、確立され、侵食されているということ。
いじめ行為の問題点は、崩壊、もしくは低下したと言える価値観が、共有によって支えられているというのもひとつです。
「自分に対する価値観」、「人間に対する価値観」、「生きることに対する価値観」、「命に対する価値観」、「人生に対する価値観」、「愛に対する価値観」、「家族に対する価値観」、「人間関係に対する価値観」、「仕事に対する価値観」、「世界に対する価値観」・・・・ありとあらゆるものがあるわけですが、これらが崩壊、低下することが、人間に起きる問題の根源的原因です。
「何に価値を見出すか」ということが、人間の心の豊かさにつながるというのは、ここで僕が力説しなくても誰でもわかることです。
僕は、教育の真髄とは、この価値観を問いただし、見つけ出させていくということだと考えています。
自分で見つけた価値観はその人間のものであり、それが個人的存在の価値観となって、その人間を支えていきます。教育とは、人間にどういう価値観を掴み取らせるかという勝負の世界であり、教師と生徒の関係というのは、一個人の価値観と、価値観を模索している人間とのぶつかりあいであり、どんな化学変化を起こせるか?という領域です。
人間の営みというのは、価値観の宣言とさえ言っていいでしょう。
個々の人間の価値観が育成されない、または確立されない、もしくは崩壊や低下を招くならば、それは自殺者も増えていくでしょう。自殺は価値観消失による最悪たる結果です。何にも価値が見いだせてないようなものですから。
まあ、僕もこんなところでこんなことを書いていたって、なにも解決はしないのですがね。
死刑制度の論議についても、結局は価値観の相違による議論です。ですから、こんなに難しい問題もありませんよね。
2012年07月25日
2012年07月24日
復活の日

復活の日
監督 : 深作欣二
出演 : 草刈正雄 オリヴィア・ハッセー 夏八木勲 ジョージ・ケネディ グレン・フォード
1980年公開。実は、初見です。
やはり劇場で観たかったですねこれ。木村大作さんの絵。
上に、出演者をまかりなりに羅列してありますが、これほどの大作となると「この顔ぶれだけでいいのかな」と悩んでしまいます。
昭和基地隊員に千葉真一、渡瀬恒彦、長瀬敏行、森田健作。滅亡する日本側では多岐川裕美、緒形拳、小林稔侍、丘みつ子など。
他にも悪役と言ったらこの人ヘンリー・シルヴァや、横顔ですぐバレる「ブレードランナー」のエドワード・ジェームズ・オルモスなどなど。
そしてなによりもロバート・ヴォーン。さすが、顔出すだけで絵が締まります。
一体、現場はどんな感じだったんでしょうか・・・・
原作は言うまでもなく、小松左京。長編SF大作です。
しかしよくこれだけのものをやり遂げましたね・・・・角川春樹はすごいね。というか、すごかったね・・・
制作費は30億前後。なにせ南極ロケをしています。これだけでもすごいよなあ。Wikiによると、35mmムービーカメラによる南極撮影はこれが世界初だそうな。
生物兵器として開発された猛毒ウィルス、MM-88がスパイによって盗まれてしまう。しかしスパイたちの飛行機が墜落したため、ウィルスが世界に蔓延、人類は滅亡してしまう。しかし、氷点下ではウィルスは毒性を発揮しないため、かろうじて南極の各国の基地の人間のみが生き残った。各国の基地は手を取り合って小さな連邦政府を作り生きながらえるが、アメリカとソ連のARS(自動迎撃システム)が作動していることを知る。さらに地質学者の吉住による、油田採掘を原因とする大地震の予測を受け、その地震でARSが発動、核が世界に発射されるかも知れないという懸念に立たされる。ARSを無効化するべく、志願した吉住はワシントンDCへと向かう。
なにかこう、ノリや展開などが、手塚治虫の漫画作品を読んでいるような感じがしました。手塚さんがこれを漫画化したら、めちゃくちゃドンピシャなものに仕上げてくれそうです。
さておき、小説の映画化というのは難しいんだな・・・やっぱり。
小説と、映画脚本の違いは一体なんでしょうか。どっちも文章の羅列である、ある意味「文学作品」とも言えます。
なんだと思いますか。
脚本が小説と違う点はなにかというと、脚本は、「時間軸が固定している」文学、ということです。
ここでいう時間軸とは、「上映時間」のことを指します。
つまり、決まった時間内で消化されることが前提の文学ということになります。
ですから、小説よりも「時間と構成」の関係密度が高いわけであります。
小説は、一気に読む人もいれば、休み休みの人もいるでしょう。そしていつでも少し前に戻って読みなおすなんてことも可能です。
しかし、脚本が目指すところの映像化(もしくは舞台化)されたコンテンツは、一度始まったら原則として一定の時間を消費しながら進み、終わります。
ですから、構成というものが非常に重要になってきます。
これは音楽も一緒で、その構成は時間と関わってきます。そういうのもあって、大体の現代商業音楽は、イントロ・Aメロ・Bメロ・サビ・・・などという構成に落ち着いたりしてますね。少なくとも楽譜は、今も昔も「演奏時間内」という制限を前提として構成されているわけです。
このところをわかっていないと、小説の映画化は難航します。失敗している場合、このあたりを見据えていないことが多いのです。
で、まず、この「復活の日」は、残念ながら映画作品としては成功の部類ではありません。少なくとも僕にとっては。
そして、小説を映画化するにあたっての、代表的な失敗例ともなってしまっています。
この映画は、人類が滅亡してしまい、南極に生き残ってしまった人類にスポットが当たったあたりから面白くなります。しかしそこへいくまでに1時間も消費されています。この1時間がなにに使用されているかというと、
・ウィルスが一体どういうものなのかという情報提示と、その裏事情
・ウィルスが蔓延する過程と、それによって崩壊していく世界と人類の滅亡
・ウィルスに侵されていく日本における何人かのエピソード(吉住が置いてきた女など)
・ARSが作動されるエピソード
などに費やされています。
この1時間は少々退屈です。なぜなら、これらは「エピソード」であって、物語(ドラマ)ではないからです。その証拠に、このパートが後半に受け渡した要素というのは、ドラマツルギーから見れば「ARSの作動」のみです。
しかし小説が有利なのは、こういった「エピソード」も、その文章力で見せていくことができることです(SF小説なら特にです)。それは時間に縛られないのが大きいというのもあるからなんですが、映画にはそんな余裕はありません。
本来、この映画は、「ウィルスで人類が滅亡した中、南極に生き残った人間が生き残りと復活を賭けて戦う物語」ということになります。
そうすると、極端な話、「ウィルスで人類が滅亡した」ところから始めるというくらいの構成変換が必要なんです。これが「小説の映画化」という仕事です。
小説の映画化ではありませんが、細菌兵器を扱った映画で「ザ・ロック」という娯楽アクションがあります。この作品がいいか悪いかは別として、劇中にとんでもなく危険なウィルス・ガスが出てきます。これが一体どういうもので、どれくらいやばいかということを、この映画は一々説明しません。始まって10分もしないうちに、一発の絵だけで説明してみせます。そのあとはもう、物語が進行するだけです。
しかし「復活の日」はSF長編小説という原作にとらわれてしまい、「過程と説明」が1時間を占めるというかたちになってしまいました。
小説とその映画化の関係をもっと見てみましょう。
ここではわかりやすい例として、夏目漱石の「坊っちゃん」を例にします。
あなたがこの作品を映画化するなら、どうしますか。
パッと考えれば、坊っちゃんが松山に赴任する第二章から始めるのが映画にとっては最適だとわかるでしょう。大体の映像化もそうしているんじゃないかなと思います。
しかし原作ではその前に、「親譲りの無鉄砲で小供の時から損ばかりしている」と始まる第一章があります。ここで坊っちゃんがどんな気質かという情報を読者は得るのですが、ここは子供の頃のエピソードの羅列でしかありません。
この第一章は短いのですが、しかし、「このエピソードも面白そうだから、ここも映像化しよう」などと考えたとしたら、「ああ、それはたしかに余計な部分かも」と思いませんか。
ところが、ほんとにそれをやってしまう映画というのが多いのです。
小説、文学というのは実に柔軟な芸術で、それこそ作品全体が坊っちゃんの第一章のような形態・手法でも成り立ったりします。その文学だからこそ成り立っている部分と、映像で成り立たせるべき部分を混同してしまうのです。
そう考えると、映画というのはいかに制限が多い芸術かということになります。そもそも映画(映像芸術)は、人類史上最も若い芸術です。記録装置としてのカメラが発明されなかったら、生まれなかった芸術であり、そのカメラによる記録と、再生による発信という枠からは逃れようがありません。
そしてそうである以上、上映時間というものに縛られます。
私たちは小説を買う時、よほど分厚かったりしないかぎり、何ページかということはあまり気にしません。上下巻に分かれてたってかまいません。
しかし、これから1800円出して観るロードショーが上映時間30分だと知ったら、「ええ?」と不安に思うでしょう。「ちょっとビデオでも借りて観るか」といった気分でレンタル屋に行ったのなら、5時間もあるような映画には手を出さないでしょう。
映像作品にとって「尺」とはいろんな要素と絡んでいるのです。
また、特に長編小説になると、多くの登場人物のエピソードを行き交うという、群像もののスタイルが多い。こういった小説はまず映画化の企画に乗せてはいけません。乗せるには相当覚悟がいります。
理由は、映画は時間に縛られるので、多くの時間を必要とする群像劇は向いていないのです。もし各パートを説得力を持って作るとなると、映画そのものが長時間になってしまうリスクがあります。実際、群像スタイルの映画は2時間強から3時間越えになりがちです。場合によっては3時間でも足りない、もっと欲しいとさえなるでしょう。たとえば、「LOST」の映画化なんて、想像つきますか?
どうしても映画で群像劇をやる場合、成功させる条件として、必ずすべてのエピソードがひとつにつながること、というのがあります。これは上映時間というリアルタイムな時間軸の流れがあり、到達点を必要とする映画という手法に合っています。そして、成功している群像劇スタイルの映画は、ほとんどこのひとつになるスタイルです。(ソダーバーグあたりの作品がいい例でしょう)
たとえば「愛と哀しみのボレロ」はやはり長い映画になってしまってますが、最後にボレロで各エピソードがひとつになります。
小説は一人称とかでないかぎり、登場人物の数だけ空間軸(キャラクター、もしくはシーン)を飛びまくってもOKに作ることが可能ですが(実際、そういうものが多いですが)、映画はこの空間軸が飛びすぎると、勢いを失いやすい。映画上の空間も、時間の制限を受けているからなんですが、主要の空間軸は良くて2つ(「眼下の敵」「椿三十郎」「ゴッドファーザーPart II」「ファインディング・ニモ」など)、最低でも3つが限度だと僕は思っています。これ以上空間やキャラクターが飛ぶと、難解な印象を与えます。
とにかくこのように時間や空間の制限を受けずに開発される小説を、制限を受ける映画に落としこむのには、相当なテクニックがいるわけです。
「どんなに素晴らしい小説でも、その原作をそのまま映画化しても面白くなるとは限らない」というメカニズムのひとつがこれであります。
「復活の日」もとても登場人物が多く、各エピソードの空間が飛びます。これによって観客はタイムラインがつかめないので、冗長な印象を受けてしまいがちです。草刈正雄演ずる吉住がタイムラインであるというささやかな印象は持てるのですが、焦点を当てるのが遅すぎたため、ラストへの到達感にいまひとつ物足りなさを感じてしまいます。これが、当時の多くの酷評につながっている原因のひとつでしょう。
さて、あとは深作欣二監督なんですが、この人は決して器用でテクニカルな監督とは言えなかったですが、なぜかバイオレンスが得意な監督、みたいな見られ方もありました。「仁義なき戦い」などのせいだと思いますが、実は僕はいつも、この人の「人の良さ」のようなものがあまりにも見えてきてしまって、そしてその「人の良さ」が邪魔で仕方ありませんでした。
この人は映画監督をするには、少々無欲すぎます。
「ああ、いい絵だな」と思うところは、木村大作さんの仕事だというのがばればれですし、「もっとなんとかなりそうな絵だな」と思うところは、深作監督のセンスだというのもばればれです。「よくこれでがまんできますね」と言いたくなってしまうのです。
要は、絵や演出に貪欲さが垣間見れれば、たとえどんなに予算その他の制限などで質をそがれててもいいわけです。
ARS無効化の危険な任務に志願した米軍少佐と、やはり志願した吉住が衝突するシーンがあります。少佐は自分一人で充分と言い、吉住はそれでも同行すると言い張ります。それで殴り合いになるのですが、殴り合いによってこの男二人がつながります。しかしバイオレント監督とも言われた人が、このシーンですら、バイオレンスを通してつながる男二人を面白く描けていません。そこはかとなく流れているのは、やっぱり遠慮がちな「人の良さ」です。
とまあ・・・また言いたいこと書いてしまいましたが、日本映画と考えても、とんでもない規模の大作映画なのは間違いありません。
少なくとも、当時の角川春樹の気概が感じられる作品とも言えます。
そもそも、角川春樹は「天と地と」という邦画による制作費最高記録(50億)を持っている人です。(当時これと競り合った「クライシス2050」(資本は日本、スタッフ・キャストはアメリカ 70億)は一応邦画とみなさないことにします)
またぞや、これくらいのことをしてくれる人は日本映画界に現れませんかね?
復活の日を期待しています。
2012年07月23日
その男ヴァン・ダム

その男ヴァン・ダム
監督 脚本 : マブルク・エル・メクリ
出演 : ジャン=クロード・ヴァン・ダム
明け方に目が覚めてしまって、寝つけなかったので観てみました。で、こんな時間に。
原題は「JCVD」。まさに「ジャン=クロード・ヴァン・ダム」。
俳優、ジャン=クロード・ヴァン・ダムがそのまま本人を演じています。
実際のジャン=クロード・ヴァン・ダムは、ベルギー出身のハリウッド・アクションスターです。若き日は空手ボーイでしたが、映画俳優を志して22歳の時に単身アメリカに渡ります。結果的に成功するのですが、それまでは、セレブのパーティーに忍び込んでは停めてある高級車のワイパーに自分の名刺を挟んで回るなど、それはそれはいろいろ大変だったようです。
「ブルージーン・コップ」(懐かしいw)あたりで弾みがついて、「ユニバーサル・ソルジャー」で確立、「ダブルチーム」あたりまでが最盛期だったんじゃないかなと思います。
なにげにどれも劇場で観てたりするんですが、実は個人的にはそんなに想い入れのある俳優ではありませんでした。
しかし、この今回の作品を観てちょっと見る目が変わりました。いい俳優になりましたねえ・・・・・
さすがに50歳近くにもなると人間もこなれてきますから、俳優であればそれ相応のものをみせるようになる・・・・とも言えますが、必ずしもそうであるとは言い切れません。
アクション俳優として似たような位置にスティーヴン・セガールとかいますが、実はHuluで「イン・トゥ・ザ・サン」観ちゃったんですね(日本が舞台になってるというので興味本位でw)。作品もひどいのですが、セガール自身があの年になっても全然進歩しているように見えなくて、むしろ後退してるんじゃないかというくらい辛いものがりました。まあ俳優として、ですけどね。
さて今回の作品。実はアメリカ映画ではないのです。始まってすぐ、フランスの超老舗映画会社、ゴーモンのタイトルが出て、まず「あ、そっち??」とびっくりします。
また、このゴーモン社のタイトルバックがなかなかいいブラックさを醸し出しています・・・・この映画専用なのかな?
どうやら、フランスとベルギーの合作のようです。劇中もほとんど、公用語のフランス語です。
プロットは、落ち目となってしまったアクションスター、ジャン=クロード・ヴァン・ダムのそのままのお話なんですが、ストーリーは完全にフィクションです。
今や低予算の作品の話しか来ないヴァン・ダム。その上、かつての妻と娘の親権争いで裁判の日々。そんな中、彼は故郷であるベルギーのブリュッセルへ帰郷し、郵便局強盗をするはめに・・・・?
冒頭からいきなり、3分越えの長回し(カメラを切らず、ワンカットで撮ること)のアクションシーンから始まるのですが、よくこれ撮ったなとw これ絶対に撮影終了後、スタッフたちは歓声をあげたでしょうな!w これギネスもんじゃねえの?w
またすぐ、ブリュッセルに場面が移ってから、ジャン=クロードが郵便局に入るまでとんでもない長回しがあって、「ああ、こういう監督なんだ」と思ったのですが、それ以降はそういう手法は使われません。
長回しというと、相米慎二監督(「セーラー服と機関銃」など)とか思い出しちゃうんですが、相米監督の場合は「これでもか」と言わんばかりの長回しで、観てる方が疲れちゃうこともしばしばでして・・・・でもこの作品の監督はとても上手いなあ。長回しを意識させません。それでいて、長回しの利点を生かし切ってます。こりゃあ勉強になりました。
作品の雰囲気はやっぱりヨーロッパらしく、「普通にはやらない」感じなんですが、気持ちいいモンタージュです。まあ、こういうのは好みもあると思うんですが、この監督はとても才能あるなあと思いました。
とはいえ、とりたてて挙げるべき点は特にない映画で、まずジャン=クロード・ヴァン・ダムを見守る映画です。演出もなにもかもそういう手法になってますし、そういう意味では前に紹介した「レスラー」も彷彿させます。(おなじ2008年公開なんですね・・・)
とにかく、ジャン=クロード・ヴァン・ダムが良いです。
彼の、最後の最後のカット、あの彼を見るだけでも価値があります。
肉体派アクションスターというのは、やはり賞味期限が限られてしまうものです。ブルース・リーなど、あの絶頂期に迎えた死。(「燃えよドラゴン」が日本に上陸した時点ですでに亡くなってたりするわけで)あれがなかったとしたら、その後のブルース・リーはどうやってスターとして生き残ったんでしょうかね。
チャック・ノリス、シルベスター・スタローン、アーノルド・シュワルツェネッガーなどなど・・・いろいろなアクションスターが活躍したのですが、チャック・ノリスはやはりパイオニア的存在で、アメリカンドリームの一例として伝説化した感があります。今やどんなに商業価値がなくても、彼を悪く言うアメリカ人はあまりいません。
シルベスター・スタローンは、この人は映画への愛がかろうじて救ってる感じですね。脚本や製作、監督もできますから。
しかし、もっとも「落ち目」らしいものを経験せずに成功を保ち続けたのはシュワルツェネッガーでしょう。この人はアクションスターの賞味期限をわかっていたので、うまく生き残りました。落ち目になっていたら、知事にもなれなかったでしょうね。
肉体派アクションスターがもし落ち目になりたくなかったら、早めに別の領域を獲得することです。肉体派アクションスターのファンというのは、やはりコアですから、そこからどうやって「一般大衆」に認知させるかということになります。
そのために、シュワルツェネッガーは肉体派アクションスターの中でも早期に「コメディ」に進出しました。それが「ツインズ」であり、そしてそれで、そこそこ大衆を説得することに成功しました。
この「コメディで成功して枠を広げることを成し遂げた」というのは、この手の俳優ではシュワルツェネッガーが唯一です。
スタローンの「刑事ジョーママにお手上げ」は、逆に惨めになってしまいました。
この「ツインズ」、シュワルツェネッガーのキャリアとしては実に巧妙な戦略でした。これはたぶん、相当頭のいいエージェントと契約していたのではと思います。
この「ツインズ」の上手いところは、シュワルツェネッガーを主役にしなかったという点です。いやまあ、主役は主役なんですが、ピンにしなかった。そう、双子の片割れに、国民的大スター、ダニー・デビートを持ってきたことが妙手なんです。
ダニー・デビートはコメディの王様ですから、すべりようがないのです。で、互いが引き立て合うかたちであれば、どっちもお得。
もし映画がコケても、シュワルツェネッガーの責任になりにくい点も大きい。キャリアに傷がつきにくいわけです。
実はこのスタイルのもっとも成功している例は、トム・クルーズです。
トム・クルーズは「トップガン」で一躍スターになりますが、そうなると次も主役でってなるもんなんです。しかしその後は「カクテル」など以外は、極力ピンによる主役をわざとやらなくなります。実際、そういうオファーは蹴っています。
スターというのは、その主演作品が一度でもコケると、すぐ危機的状況になります。コケなければ、ギャラはうなぎのぼりです。
「ハスラー2」(ポール・ニューマン)、「レインマン」(ダスティ・ホフマン)と、必ず大スターが看板になる映画をチョイスしています。
これならコケてもトム・クルーズに責任の目が向きません。
「トップガン」移行、トム・クルーズが「いかにも主役」という「ミッション・インポッシブル」に至るまで、主役らしいことをやっている映画は「カクテル」「7月4日に生まれて」「デイズ・オブ・サンダー」「遙かなる大地へ」だけです。
もっともナイスガイな印象を持たれていた80〜90年代は実はそんな感じで、「もろ主役」をたてつづけにやりはじめたのは2000年に入ってから、なんですね。つまり、スターとしてのキャリアを堅実にしてから、ということです。
しかし、肉体派アクションスターというのは、いきなり主役デビューし、その後も主役しかやりようがありません。いやでも作品の顔です。ショービジネスにおいて、こんなにリスクの高い状況というのはないわけで、大ゴケするか、マンネリで飽きられるかで、いつかは右肩下がりになってしまいます。
シュワルツェネッガーは早くからそういうところをうまくやって、大衆にもっと親近感を持ってもらうことに成功しました。日本のカップヌードルのCM(ヤカンを持って出てくるやつ)なども、当時は衝撃的で、なぜならハリウッドスターが他国のCMに、ましてやあのような扱いで出るというのはまだ前代未聞だったからです。シュワルツェネッガーは、ハリウッド映画の海外における最大の顧客は日本だということも知っていました。
「シュワちゃん」などと海外で呼ばれるまでになった肉体派アクションスターはいないでしょう。
「コメディ」というのは、人間をさらけだしていくものですから、観ている観客は俳優に親近感をおぼえます。むっつりと機関銃を放つヒーローに興奮はしても、親近感をおぼえる人は少ないでしょう。
同じような肉体派アクションスターでも、ジャッキー・チェンの人気が衰えなかったのは、彼そのものが「コメディ」路線だったのも大きいわけです。
さて、ジャン=クロード・ヴァン・ダムはどうだったかというと、キャリアに「コメディ作品」は皆無といっていい状態です。
まあ、「コメディなんてやらないからこそ魅力的」というファンもいるかも知れませんが、そのファンが飯を食わせてくれるわけでもありません。あのハンフリー・ボガートですら、「アフリカの女王」「麗しのサブリナ」「俺たちは天使じゃない」などやってんですからね。
「コメディやれ」と言いたいわけではありません。でもどこかで、「人間味」を見せるべきだったでしょう。それもできるだけ早く。そういう意味では、この「その男ヴァン・ダム」は、遅すぎたのかも知れませんね。
2012年07月22日
戦国自衛隊1549

戦国自衛隊1549
監督 : 手塚昌明
出演 : 江口洋介 鈴木京香 生瀬勝久 嶋 大輔 綾瀬はるか 北村一輝 伊武雅刀 鹿賀丈史
ここのところ、邦画がつづいています。
先日の「日本映画も大変なんです」を書いたせいか、もっと観てみようという気にもなっているんですが、「だったらもっと他にあるだろう」と言いたくなる人もいるかも知れません。
たしかにこの作品、観た人たちからことごとく「ひどい」と脅されていたため、手が出せずにいたんですね。
それでも「角川グループ60週年記念作品」ですよ? 遅まきながらですが、やっぱり押さえておかないと。
「日本映画も大変なんです」でもちょっと書いた、アスミック・エース主催のワークショップに参加した際、この作品のプロデューサーである角川の黒井和男さんと名刺交換させていただいたことがあるんです。その時、「戦国自衛隊のリメイクをやっててねえ」とおっしゃってまして、内心「なんですと!!!」と興奮したのを覚えています。
1979年版の「戦国自衛隊」は、半村 良のSF小説を原作としており、演習中に戦国時代にタイムスリップしてしまった一個中隊が、生き残りを賭けて武田信玄と戦争、破滅に至るまでを描いています。
主演が千葉真一さんで、まあとにかく、むせかえるようなエネルギーに満ちた作品です。当時の製作であった角川春樹氏の意向かどうかわかりませんが、(まあ、あの頃の角川映画はみんなその風潮がありましたが)青春群像劇というスタイルで作られ、当時としてはがんばったアクション映画。今見るとちょっと泥臭く、冗長な面もあるんですが、当時はものすごい衝撃を感じました。
で、この平成版「戦国自衛隊1549」ですが、リメイクというよりかはスピンオフのような感じです。前作とはなんのつながりもなく、オリジナルストーリーとなっています。
この作品は興行的には大成功で、海外配給もされたと聞いています(ほんとかどうかは未確認です)。
自衛隊における磁場実験の事故で、「第3実験中隊」が戦国時代へとタイムスリップしてしまう。二年後、元自衛官だった鹿島(江口洋介)をオブザーバーに迎えた「ロメオ隊」が、事故を再現して実験中隊の救出に向かう。しかし、実験中隊の指揮官であった的場(鹿賀丈史)は、織田信長を討ち、自らを信長と称して尾張を平定し、斎藤道三をも従えていた。さらに日本の歴史を変えるべく、プラズマ装置の電池を起爆剤とした富士山噴火による、関東一帯のジェノサイドを起こそうとしている。
それを阻止せんとするロメオ隊と、実験中隊率いる信長軍が衝突する。
まず、この製作側の上手いところは、そのマーケティング。保守的といえば保守的になってしまうのですが、主要ターゲットが明らかに「中高生・もしくはファミリー層」です。実際、映画館に詰めかけたはその層でした。これによって動員の滑り出しも好調でした。
前作はレイプシーンがあったりし、女性の股間にぼかしが入るといった場面すらあったのとは対照的です。
戦国時代にタイムスリップした自衛隊が死闘を繰り広げる、といったような内容を、その手の層向けに製作する、という考えはなにげにコロンブスの卵です。これをもっと大人向けの作品として配給するとなると、ハードルが高くなります。間違いなく、予算ももっとかかりますし、動員的にもリスクが跳ね上がります。穿った見方をすれば、それを回避したとも見えます。
実際、この作品は大人の目の鑑賞に耐えられるものにはなっていません。
もちろん、それを目指してなかったわけですから、仕方ないんですが。
つまり、この作品が位置するところは、「ゴジラvs◯◯」みたいな、あのあたりだということです。(ちなみに監督の手塚さんは平成ゴジラ監督の雄です)
ところが、「角川グループ60週年記念作品」を冠するというのもあり、「おっ、やっと日本映画も本気になったか」とか思っちゃった人たちも多かったわけです。特に前作で興奮した世代はまさか「ここまでお子様向け」とは思ってないので、そんなつもりでいくと、ずっこけてしまうわけです。
しかし、製作側のこの選択と戦略は、商業的には正解だったのは間違いありません。だけど僕から言わせれば、「大勝負を避けた」という感が拭えません。
興業で勝って、作品で負けたという感じです。「角川グループ60週年記念作品」でありながら、後年に残るものにはなっていないのは明らかです。
この作品に出演した俳優(もしくはスタッフ)のうち一人でも、誰かの代表作になるなどということもなく、なにかの手本にもならず、誰かの尊敬や愛を受けることも、今後おそらくないでしょう。
まあさておき、ですからそこそこ目の肥えた映画ファンたちがこの作品をつかまえて「ひどかった」というのは、少々的はずれなのかも知れません。
「ウルトラマン◯◯大決戦」みたいな劇場作品をオッサンが観に行って、「子供だましだ」なんて息巻いてても、「はいはいw」なわけで。
そんなわけで、やはりもういいオッサンの僕がこれについてあれこれレビューするのもなんなんですが、せっかくですのでいくらか進めましょう。
俳優の芝居は全体的にやはりマンガじみていて、誰もがアニメの吹き替えのようなしゃべりで進んでいきます。そんな中、嶋 大輔さんが良かった。余計な力の入ってない演技で、その時に必要なものを大事にして演じてる感じでした。
テーマは「未来は人々の希望」というもの。なんでこんなにはっきり僕が言えるかというと、劇中にキャラクターがはっきりセリフで言っちゃうからなんですが・・・・ただ、この手合いのことを戦国時代の人間に説得力持たせて言わせるのは、ちょっとやはり大変なんだなと思いました。
これは中世が舞台なわけですが、それを信じられる絵にはなかなかなっておらず、戦国時代の人間も、平成の人間がカツラかぶってるようにしか見えません。最近、白土三平の「カムイ外伝」とかたまに読み進めてるんですが、第二部からのあの説得力はすごいですね。あの時代へ連れて行かれます。
そんなたった一人の作家がペンとケント紙だけで構築している世界に、何百人というスタッフと10億円をかけた作品が絵作りですでに負けているのです。
ああ、いかん、そうだ、こういうことを言ってはいけない映画でした。あれでよかったのかも知れませんね。
黒澤や小林正樹みたいな絵になっちゃいかんわけです。そういう映画じゃないわけです。うん。
いいことも書きましょう。
前作との大きな違いに、自衛隊が全面協力しているという点があります。おそらく、これまでにもっとも自衛隊が協力しまくった映画ではないかなと思います。本物の兵器車両がこれでもかと贅沢に使われており、ヒューイコブラや90式戦車があれほど肉薄して駆けまわるシーンは、ちょっとレアです。
レアといえば、OH-1偵察ヘリの飛行シーンも貴重です。これは日本製の高性能第三世代偵察ヘリで、噂でしか聞いてなかったので興味深く見ました。
うーん、マニアックですいません。
他には・・・まあ、こんなところかな。
「戦国時代」、というと、こう、浪漫あふれるというか、戦国武将たちの熱い群雄割拠に胸踊らせる人もいると思いますし、だからこそ映画や大河ドラマの背景になったりもするんでしょうけど・・・・実は僕はあまりそういうふうには見れてないんですね。
天邪鬼なのかも知れませんが、なんかこう、冷めて見てしまいます。というのも、戦国時代ってのは調べれば調べるほど、知れば知るほど、「どうしようもない時代」だったなという印象になるわけです。
大河とか、どの戦国武将も「この世の平安のため云々・・・」って言いますがね、でも本質的には暴力団の抗争となんら変わらないわけでしょう。もう構造からして。僕からしたら、戦国時代の大名なんてヤクザの親分と変わりませんもの。
たとえばヤクザの世界では、彫り物を体に入れたりしますね。あれってのはまあ、いろいろ意味もあるのですが、シンプルに言うと「この世界で生きていく覚悟」の表れでもあって、「この世界を離れませんよ。裏切りませんよ」という証でもあるわけです。なんでこういうのが重要視されるかというと、あの世界というのは古くから社会的には弱者の領域、危うい世界だったわけで、それだからこそ結束しなければ成り立たないわけです。
だから簡単に抜けられたり、裏切られたりしちゃ身がもたないので、互いの「覚悟」、己を「覚悟」を体現化し、盃を固めてその約束としたり、互いを親兄弟とまで呼ぶようなシステムにもなっていく。
戦国武将の世界も遠からずで、一人でも裏切り者出ちゃうと大変な世界。
月代といって、武士が額から頭のてっぺんまで剃り上げますでしょう。あれは、ああすると兜がすべりにくくなるというのと、蒸れなくてすむという単なる知恵だったのが、それを戦のない日常でも剃ることによって「日頃から、いつでも戦に出る覚悟がある」という表れとなり、そこから「主君への忠義の証」という認識へと昇華して、武士のたしなみとなったんですね。
ですから、乱暴な話、彫り物も月代も似たような精神構造で成り立っているとも言えます。「義」や「仁義」を重んじるのもおなじです。なにかあれば腹切るだの、指詰めるだのってのも、おんなじです。
それは危うい世界であり、ちょっとしたことが命に直結するからでして、明日の飯がかかっているからなんです。
飯、といえば、いつだったか面白い研究内容をネットで見たことがありました。
それは、「なぜ戦国時代が到来したのか」という疑問に、新しい見解を投げかけるものでした。この疑問に関しては、専門家に問えば「えー、まず応仁の乱がありましてェー・・・云々」とかになるのかも知れませんが、しかし「なぜこんな限られた国内の中で、あそこまで長いこと揉めなきゃならんかったのか」というのは、なかなか専門家も説明がつきません。
実は調べてみると、あの頃の地球は世界規模で寒冷化の時期に入ったらしいのです。これは、屋久杉の年輪などから証拠が出てくるそうなんですが、これによって、世界が慢性的な食料不足に陥っていた、というのです。
日本各地に豪族がいたわけですが、みんな食べるのにも苦労していたと。たとえば上杉謙信は関東管領という身でありながら、秋入りになるとしばしば近隣の領地へ食料強奪に行っています。
ということは・・・え? 要は、戦国時代ってのは生き残りをかけた食料強奪戦だったの??
いやまあ、そこまで単純ではないとは思いますが、根深い原因としては横たわっていたのかも知れませんね。でなきゃ、さすがにあそこまで死人出してやらんでしょう? まかりなりにも朝廷がいて、どうしてあれだけみんなが上洛だの天下だの目指さなきゃならないの。
武士の給料が「◯人扶持」って米で支払われ、大名の勢力を「◯万石」などと、その領地で取れる米の石高で表しちゃったりするようになるというのも、なんか説得力が出てきます。
まあ、真偽のほどはわかりませんが、なんにしろ今や時代小説や大河ドラマがやたらとあの頃をドラマチックにしてしまったため、こういう見方はちょっとドライすぎるかも知れませんねw
やはり現代人にとって、歴史とは浪漫のあるものであって欲しいわけですが・・・この「戦国自衛隊1549」、この際だからその浪漫ともっと本気で戯れてほしかったですね。
2012年07月20日
ギターを持った渡り鳥

ギターを持った渡り鳥
監督 : 齋藤武市
出演 : 小林 旭 浅丘ルリ子 宍戸 錠 金子信雄
Huluにおいて、何を観ようかだいぶ迷うようになってきた。というのも、「面白そうでハズレなさそう」というものは大体とっくの昔に観てるからで、ずいぶん食指の動かないものばかりになってきた。ここしばらくこのブログで紹介している映画も、もしレンタル屋へ行ってたら借りてないだろうなというものも多い。やはりさすがにこの手のインターネットサービスではラインナップに限界があるのかも知れない。
まあ愚痴はさておいて、やってまいりました「ギターを持った渡り鳥」。
主演の小林 旭は、僕の母が青春時代に熱狂したというアイドルである。そらもう、雑誌だろうがなんだろうが、彼の顔写真はなんでも切り抜いて大事にしていたという。顔を見る度に卒倒しそうになったというからおだやかでない。
うら若き日の母を、そこまで骨抜きにした小林 旭。どんなだったんだろうと、後学のためも含めて(なんと邪な理由だろうか)、鑑賞に踏み切ってみることに。
いわゆる当時のアイドル映画なわけでして、今でいう「ガンツ」とか? あんな感じ? ちがう? 最近のよくわかんないごめん。
さておき、この作品はご存知の方もある通り大ヒットして、「渡り鳥シリーズ」として人気を博します。「無国籍アクション」なる言葉を生み出したのもこれ。あの、快傑ズバッドの早川 健のモデルにもなっているというからには・・・期待できます。
そう、良い意味でツッコミどころ満載の、ツーンと鼻にくるような、バタくさい娯楽作を期待しておりました。
ところが・・・・なんて物静かな、おとなしい映画なんでしょう。これは第一作だからでしょうか?
ギターを抱えた流しの男、滝 伸次が函館の街へたどりつく。夜の街で買った喧嘩の腕と気概を見込まれ、街を牛耳る秋津の世話になることに。しかしそこへ殺し屋ジョージが合流してきたため、元刑事という素性があらわになり、キナ臭い方向に。
秋津の娘の由紀との微妙な男女関係も交えながら、滝は秋津の悪事に対抗していく。
たぶん、「無国籍アクション」という恥知らずなキャッチフレーズは、もっと先のシリーズで構築されたのだろうと思う。
ライバルとなる、宍戸 錠演じるジョージも妙にこざっぱりとしておとなしく、「エースのジョー」に進化するにはまだ時間が必要な感じだった。
ストーリーはあってないような類のものであまり抑揚もなく、とりたてて書くこともありません。
まあとにかく、肝心の小林 旭さん。
「おお、やっぱり若いころはイケメンだったのね〜」とか絶対思わせてくれると思っていたのだけど、最初のアップであれ?

小学校んときにうんこもらした守谷くんじゃん!というのが第一印象。まあそんなのはだれも知らないのでいいんですが、個人的には微妙です。
うーん。

やっぱり微妙だなあ。
こんなはずじゃなかったんだがなあ。
横顔とかはね、なんかこう、シャープでいいんですよ。だけど、前向くとなあ。好みの問題なのかなあこれ。
当時はこういう感じがウケたんでしょうか。
この作品は、今で言うメディアミックスものであり、タイトルと同名の主題歌のリリースも抱きあわせであった。
そしてもちろん、小林 旭は劇中でなにかとあると歌っているのだが・・・・実は歌唱力も微妙なんです。
その上、演技力も微妙・・・・ちょっと待ってくれ!!
別にここにきて、先人たちを笑いものにしようという気は毛頭ないんですよ。せっかくだから楽しもうと、前向きに映画を鑑賞していました。
でも、グッとくるところがひとつもないんですよ!
往年の小林 旭センセにですね、「平成のヒツジ野郎ども、よく見な。男ってのはこういうもんよ」ってな具合に横っツラはたいてくれるもんだと、膝を折って鑑賞せんばかりの気持ちでいましたのに。
当時これが大ヒットして、若き乙女たちの心を掴んだのはなんだったんでしょうかね。
というわけで分析してみましたところ、
・ワルぶってる
・女にストイック
このふたつのキーワードが炙りだされました\(⌒▽⌒)/ヤッタネ
基本的に、石原裕次郎なんかもそうですけど、不良役なんだよね。ポケットに手つっこんで斜に構えて、なにかとあると喧嘩、みたいな。
主人公の滝も、冒頭から30分もしないうちに、3回もドタバタをやっております。
つまりは、まわりの男性に見られない特徴 = 特別感。非日常性。あーんど、こだわり持って生きてる風。
しかし、もし日本中の男性がみんなこんなだったら大変なわけで、たぶん日本は滅亡していたでしょう。
だけどここからが大事。炙りだされたキーワードは「ワル」ではなく、「ワルぶってる」となっています。
そう、女性はほんとの「ワル」はいやなんです。ずるいですね。そもそもほんとの「ワル」ってのは、そのワルぶってる小林 旭に叩きのめされる連中なわけで。
滝の、「元刑事」という素性がわかった時、僕は「なんだ、ワルぶってるだけかこいつ!」と思ったのですが、女性はそういうところがツボなのかも知れません。
つまり、安心できるワル。ずるいですね〜〜〜いやらしいですね〜〜〜〜
「ワルっぽい」のがいいわけだ。酒を渋くあおったり、煙草をくわえたり、時には喧嘩、なんてのはいいけども、パチンコに通ったりフーゾクいったりとかだめなわけです。ずるいな! ずるいな!
また、こういうワルってのは、私生活に関しては不器用に描かれます。はい、母性本能ねらいキタ〜。
ふたつめのキーワード、「女にストイック」。
浅丘ルリ子演ずる、お嬢様との微妙な関係があるんですが、最後にこの二人は結ばれません。
浅丘ルリ子を置いて、滝は函館を去ります。
まあー、ここで落ち着いちゃってねんごろになっちまうと、シリーズになりませんからね。
さておき、「よかった〜ルリ子のものにならなくて〜(女子たちの心の声)」ということであります。
石原裕次郎なんかの場合は、むしろ一人の女を追っかけるパターンです。「いやでもおれのものにするぜ」的な。
こういう場合、観ている女子は、その追っかけられ、アゴをつかまれ、無理やりキスを奪われるヒロインに自分を重ねます。
「イヤよイヤよも好きのうち」という女の深い部分をツンツンさせられます。
しかしこの渡り鳥は、手が届かない(渡り鳥ですから)ゆえに、素直にキャーキャー言いやすい対象として構築されています。
手が届かないといえば、滝は二年前に亡くなった女が忘れられずにいます。ちゃんと「ホレた女に一途」という、「浮気はしないよ」的な要素も埋め込まれています。
つーかまあ、そういうこと? 母よ。
え、ちがう? まあなんだっていーやもう。
秋津、というワルの親玉を金子信雄さんが演じているのですが、この頃はまだ髪の毛もちゃんとあり、芸風もさっぱりとしています。
親玉といってもよくあるようなギャングのボス系ではなく、街の実力者的な、清潔感のあるワル。さっぱりとはしていても、「とんでもないタヌキ」ぶりのルーツは垣間見え、のちのちの「仁義なき戦い」の金子さんへ通ずる遺伝子が感じられます。
殺し屋ジョージの宍戸さんは、悪役をやるために頬にシリコンを入れるという・・・・のちの「ゴッドファーザー」のマーロン・ブランドなんかまだまだ甘いと言わしめる所業をしています。この頬なかったら相当イケメンだろうなと思いますね。小林 旭に勝てるですね。
また、野呂圭介さんが出ています。僕らの世代からしたら、「どっきりカメラ」の赤ヘルの人なんですが、そういや「どっきりカメラ」の司会は宍戸さんだったよなw
浅丘ルリ子さんは、初々しかったですが、「まだまだこれから」の頃。というか、浅丘さん演ずる由紀はキャラクターとしてあまり掘り下げられておらず、浅丘さんほどの才能の人が演ずるにはちと、物足りない役だったかも知れません。
また余談なんですが、作品の性質上、拳銃でバーンバーンみたいなのもあります。で、びっくりしたのが劇中で使われてる拳銃が、本物だということ。
劇用のピストルを「プロップ・ガン」といいますが、日本の場合はモデルガンをベースに作られます。しかし当時はそんなモデルガンなんて市場はまだ成熟してませんから、こうやって本物が「特別な計らい」で使われることもありました。しかしこの黒光りな質感はすごいですね。
でもさすがにいつまでも本物ってわけにもまいりません。これは日活の作品なんですが、日活の拳銃といえば「日活コルト」。劇用の電気着火式ピストルで、これが日活で開発されてからは、こういう作品ではみんなこのコルトを握っていました。
そういう意味ではレアな作品ですねえ。
まあ、いろいろ言いたいこと書いてきましたが、これは先のシリーズ作品の方が楽しめるのかも知れませんね。
この作品は栄えある第一弾なのでしょうけれど、覇気のあまり感じられない、「ご清潔な、活劇らしく振舞っている映画」という感じです。
いくら殴りあっても痛みも汗臭さもなく、血はインクみたいだし、衣装が汚れないように気遣ってるようなアクション。
もしこれで当時の人達が胸躍ったのなら、それは「どんだけ純粋なのw」ということで、そう、今の僕らはずいぶんとナニかに侵食されてしまっているのかも知れません。