2012年07月30日

ダークナイト ライジング

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ダークナイト ライジング


監督・脚本・製作 : クリストファー・ノーラン
出演 : クリスチャン・ベール マイケル・ケイン ゲイリー・オールドマン アン・ハサウェイ トム・ハーディー マリオン・コティヤール ジョゼフ・ゴードン=レヴィット モーガン・フリーマン

※注意 ネタバレなし

新宿バルト9にて。しかも2日にかけて二回鑑賞。

つづけて二回、足を運ばせてくれました。素晴らしいです。
前作の「ダークナイト」につづき、間違いなく歴史に残る傑作です。
あれだけの前作を作っておきながら、それを越えられるのかなと余計な心配をしていたのですが......前作がかすむほどの作品です。

もし劇場へいくなら、前二作の「バットマン・ビギンズ」と「ダークナイト」を観ておくことをおすすめします。せめて「ダークナイト」だけでも観ておいた方がいいと思います。

しかしまあ、「バットマン」というコミックの題材ひとつで、ここまでやれるのか.....頭が下がります。またオスカー候補になるのではないでしょうか。「アメイジング・スパイダーマン」がお子様向けに見えてきてしまいます。

今回の敵役はベイン。すでに「バットマン&ロビン Mr.フリーズの逆襲」でベインは脇役で登場しているのですが、今回は大役です。そらもうすごいわけで。

とんでもないテロを仕掛けるのですが、これ、映画史上もっとも凶悪なテロと呼んでいいと思います。
「ダークナイト」でも、ジョーカーがフェリーを使ったあまりにも恐ろしいテロを実行しますが、ここにきてまたよくもこんなアイデアが浮かぶなと.....

一応、ヒーローものですから、いろいろとまあ、戦闘シーンはあるわけですがね、肉弾戦やら兵器マシン戦やら。

しかし「ダークナイト」でもそうでしたが、根底にあるのは息が詰まるほどの「心理戦」なのです。

この作品の奥底に流れているメッセージ・・・・いや、「答えの見つからない問いかけ」と呼ぶ方がいいのかな。これは人類の永遠のテーマでしょう。

これだけの娯楽大作なのに、いやに大人びていて、暗く、湿り気のある感じ(もちろんこれは全てこの作品の魅力)になれているのは、やはりイギリス出身の監督(脚本・製作)だからでしょう。
アメリカ人が首脳だとどうしてもやっぱり、「バットマン&ロビン Mr.フリーズの逆襲」(ゴールデンラズベリー賞受賞)みたいになっちゃったりもするんだわな!w


「バットマンは主人公だから、負けるわけない」的な、ヒーローものの鑑賞中にある潜在意識下の安心感というのは期待してはいけません。
これでもかと、「勝てる気がしない」という状況に容赦なく追いやられていきますw


そうそう、今回、キャットウーマンが出てきます。いや、劇中では「キャットウーマン」などというダサい名前は直接使われたりはしないのですが、モデルは間違いなくキャットウーマンでしょう。顔にゴーグルをつけているのですが、普段はそれを頭の方に跳ねあげています。それがちょうど、なんとなく猫耳っぽく見える、というくらいにとどめることによって、キャットウーマンらしさを出しています。
さすがにこの世界観に猫のコスプレは合いませんやね。しかしここまで硬派にやられると、歴代のキャットウーマンがみな間抜けに見えてきてしまい、ちょっとかわいそう。


「インセプション」で印象深い俳優だったジョゼフ・ゴードン=レヴィットが引き続き呼ばれています。いい俳優ですね。ずっと見ていたくなるなにかがあります。


あと、特に気になったのは「音」。音圧が高いというか、単に音がでかいというか、迫力あるんですが、とにかく音の演出がすんごい。
音はほんとに大事だなあと思いました。


「アメイジング・スパイダーマン」では、終わったらスタッフロールも見ずに席を立つ人が結構いましたが、さすがにこれはみんな最後まで座ってましたね。圧倒です。

ああ、封切りしたばかりなので、今日はこれ以上あまり多くは書きませんし、また、あれこれ言いたくもありません。

とにかく観てください。




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2012年07月29日

クール・ランニング

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クール・ランニング

監督 : ジョン・タートルトーブ
製作 : ドーン・スティール
出演 : レオン・ロビンソン  ダグ・E・ダグ  ロール・D・ルイス  マリク・ヨバ  ジョン・キャンディ


さあ、オリンピックですね!!
見てみたい気もするんですが、テレビを家に置いていないんです。
というのも、地デジに移行する際、これを機にテレビなくしてしまおうと思ったんです。
たぶん、これから先も生活に取り入れることはないと思うんですが、スポーツが観られないのはちょっとつらいね!!

ということで、「クール・ランニング」wwwww

数度目の鑑賞です。パンフレットもたぶん、実家にまだあると思うなあ。


あまりにも有名な作品ですので、さすがにストーリー紹介は省きますw


何度観ても見事な作品ですね。誰でも垣根なく楽しめる娯楽作品。しかしそれを作るのは簡単ではなく、無数の映画人が目指してはやまない到達点のひとつです。

たとえどんなに難解な作品を作るような監督でも、映画の道に入るきっかけとなる「最初に出会った一本」というものがあったりします。そしてそれは、大抵がこうしたささやかな娯楽大衆作品であることも多いのです。


コーチ役の名コメディ俳優、ジョン・キャンディ。この作品の日本公開後に亡くなりました。ショックでしたね〜。
なにげにこのポジションの俳優は多くないので、惜しいことをしました。


この作品は、ジャマイカとしては前代未聞の、オリンピック・ボブスレーチームが誕生するという実際のエピソードが元になっています。
しかしこれをただの感動モノではなく、コメディとして作ったところも勝因のひとつですね。常に笑顔で鑑賞できます。
しかし何度目かの鑑賞なので「さすがにもうないだろう」と思ったら、やっぱり最後は涙目になってしまいました。



この作品に対して、あまり構成や脚本を分析しすぎるのは野暮というもので、夢のない話でもありますが、ついいろいろと考えてしまいます。というのも、実は今、映画の脚本を書いていて、どうしてもそういう見方になってしまうんです。このブログでもあれやこれやと感じたことを書いていますが、それはなにより自分のためでもあるんです。


やっぱりあらためて勉強になるのは、そのまったく無駄のないつくり。約1時間半というお手軽な尺。だけどお腹いっぱいです。
なぜこんなに無駄なく構成できるかというと、やはりキャラクターたちがわかりやすい目的を持っていて、そのための行動のみを描くからなんですね。

物語の基本的構成要素の、

・キャラクター
・その目的
・それによる行動と、それによって引き起こされる葛藤
・それらによる結末

これ、わかっちゃいるけど、いざとなるとシンプルにやってみせる、というのが難しいのです。

前半の流れとしては、

・デリースはオリンピック出場を目指すジャマイカの陸上アスリート。才能は充分。

ここで、サンカが島の手押し車大会に出場するシークエンス。作品の重要なムードメーカーとなるサンカの情報提示と、サンカが手押し車大会のエースであること、そしてデリースの親友であることが提示される。


・デリース、予選でジュニアの転倒に巻き込まれて転倒。予選敗退。ジュニアはもちろん、おなじく巻き込まれたブレナーも敗退。

このあと、よくある「落ち込むデリース」などという描写はなく、即、デリースは次の行動に移っている。

・デリース、オリンピックを諦めきれず、委員長に直訴。はねのけられるが、そこでこの島にかつてのボブスレーの金メダリスト、アービングがいることを知る。
・親友のサンカをボブスレーチームに誘う。
・アービングを見つけ出し、コーチしてもらうように説得する。
・選手応募の説明会開催。予選でデリースと同じく敗退したジュニアとブレナーが参加。ボブスレー必須の4人チームが完成。


ここまで、デリース(とその仲間)の行動のみで構成されている。そして、ここまでいきついてしまえば、やはりその後も「行動」でストーリーが構成されていくのは言うまでもない。


しかもドミノ形式になっており、

デリース → サンカ → アービング → ジュニア → ブレナー

という風に、目的意識の発動がリレーで行われている。

特に後半は、落ちぶれた金メダリストのアービングの再起に焦点が当てられ、二本軸になる。これは実際に競技してみせる4人と、それを見守るかたちでしかないアービングという構図の弱点を補強する。


各キャラクターにもサブ・プロットが用意されている。

・ジュニア → 父からの独立
・ブレナー → 夢を実現する

サンカはブレナーの的はずれな夢を笑うが、唯一それを理解したのは、ブレナーが一番毛嫌いしているジュニアだ。そして、ジュニアが理解できる理由はやはり、ジュニアのプロットが関連している。

そして、今度はそのジュニアのプロット解決に、ブレアーが貢献するというかたちになっている。無駄がない。


発端となっているデリースの目的、「オリンピック出場」だが、後半の「予選通過」でそれはなされたわけで、第二段階の「メダル獲得」へと移行する。

アービングの過去の過ちを知っているのはデリースのみで、デリースは金メダリストの父を持つというのもあって、アービングという人間を見つめる立場になる。そこで「勝利とは?」「金メダルとは?」そういう漠然とした疑問が湧いてくる。それに対してアービングは、「勝利やメダルより尊いものがある」と言い、そしてそれは、「明日(決勝)でゴールすればわかる」と言う。
決勝での出走直前、アービングがデリースにかける言葉は、「ゴールで会おう(I'll see you at the finish line)」。

「ゴールする意義」と、それによってなにを得るかというこれが、後半のデリースのプロットとなっている。

この、キャラクターたちの目的が二段、三段ロケットのように展開し、押し上げあっていくスタイルは、良質な娯楽作品に見られる手法で、わかりやすい例が「バック・トゥ・ザ・フューチャー」「カリオストロの城」などだが、こうすることによって物語が膨らんでいく。つまり、人はやはりなにかの積み重ねの結果に感動するということだ。


ところで、サンカは?
実は、サンカに個人的な強いプロットを与えなかったのが、この作品の妙で、サンカは「リア王」でいう「道化」の位置にあたる。
サンカは「自由な視点」の位置にいることによって、この作品に常に遊びを加えていく役割を担っているが、ひとつ重要な役割を果たすシークエンスがある。
彼がマイペースな人間であることを充分に観客に知らせた上で、脚本はチームが競技初日に惨敗するという苦境の時に「自分らしくやろう」と提案させ、打開の道を拓かせる。

デリースがアービングを獲得し、ジュニアは遠征資金を捻出し、ブレアーはジュニアが父に従って帰国するのを防いだ。そしてサンカは、彼らに「ジャマイカン」としてのソウルを思い出させ、真の力を発揮させることに成功させた。そしてこれらを導いたのはアービング。

これらによって、結局「一人でも欠けてたら成し得ないラスト」という安心できるかたちになった。


構成が二部構成というのもシンプルでいい。

・ジャマイカにおけるボブスレーチームの結成と強化
・カルガリーにおける戦い

これのみ。しかも、この2つはちょうど上映時間をほぼまっぷたつにするほどのバランスでわけられている。

ミッドポイントは、「念願のカルガリーという戦場にのりこむ」というもので、カルガリーの吹きすさぶ雪景色に、常夏育ちの選手たちは驚愕し、文字通り凍り付く。


そして、各部がまたさらに2部構成になっていて、そしてそれぞれのど真ん中に、さらにミッドポイントがある。
つまり細かく分けると4部構成で、各部にミッドポイントがあるわけだ。


第一部(ジャマイカ編)

上映スタート

デリースがボブスレーチームを結成しようとする (前半ミッドポイント)

結成 (第一部ミッドポイント)

カルガリーへ進出する資金がない (後半ミッドポイント)

カルガリー進出 (作品のミッドポイント)
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第二部(カルガリー編)|
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カルガリー到着 (作品のミッドポイント)


初めて雪のコース。まともにスタートすらできない大失態。(前半ミッドポイント)


他国の選手との確執が確立。練習に打ち込みはじめる。 (第二部ミッドポイント)


第一戦目で大惨敗 (後半ミッドポイント)


エンディング




よくできてますね。


まあ、味気ない分析はこれくらいにしといて、僕が個人的に印象に残っているのは、ジュニアのお父さん。いい俳優ですねえ・・・・

あまり多くは出てこないのですが、それぞれのシーンで見せるちょっとした仕草や表情が、只者ではありません。特にジュニアと別れる時、エレベーターの締まり際に見せる表情。
彼は息子をコントロールしようとしているが、それは溺愛するがゆえなんですね。


そしてやっぱりジョン・キャンディ。
デブなのにかっこいい。あらためて冥福を祈ります。


さて、今日は「ダークナイト」観てきます!!!!!!



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2012年07月28日

APPLESEED

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APPLESEED

監督 : 荒牧伸志
声の出演 : 小林 愛 小杉十郎太 松岡由貴 小山茉美


Huluに登場したので鑑賞。
未見と思っていたら、公開時に観ていたことを思い出す(>_<)
しかし内容の記憶があまりなかったため、まったく新鮮に楽しめた。


普段、あまりこの手のものは観に行く頻度がないのだけど、公開時にわざわざ観に行ったのは友だちが「出演」していたからだ。


トゥーンシェイドを使用したCGアニメ作品。トゥーンシェイドとは、コンピュータグラフィックのレンダリング出力において、アニメ調に描画してみせる技術。トゥーンシェイドは人物のみに使用されているが、これによってリアルな人間というよりも、セル画のアニメッぽいタッチになる。


で、友だちが「出演」というのは、アクション女優の秋本つばさちゃんのことで、彼女が主人公のデュナンのモーションキャプチャーをしている。モーションキャプチャーといっても、アクティングパートとアクションパートにわかれていて、つばさちゃんはアクションパートを演じている。

そういう意味では、「主演の一人」といってもよい。



大規模な世界大戦の傷跡の残る未来。クローン人間バイオロイドによって支配されるユートピア都市オリンボスでは、そのバイオロイドの粛清と排除を望む組織が動き出していた。女性戦闘員デュナンは、サイボーグ化したかつての恋人ブリアレオスとともに、このバイオロイドと人間、そして地球の運命をも巡る戦いへと巻き込まれていく。



さっそく冒頭の戦闘シーンから、つばさちゃんの十八番、「側宙」が見られるw これは間違いなく彼女のものだあ。
これは実物を見るともっと圧巻なんだが、さらにこの動きは、古くはそのままコナミの格闘ゲーム「鉄拳シリーズ」の風間準の技にもキャプチャされたという経歴もある。

しかし、デュナンが飛んだり跳ねたりするたびに、「お〜、つばさちゃん・・・」といった目で観てしまうものです。元気かなあ。


基本的に楽しんで観たのだが、惜しい点もいくつかある。もちろん、いい点もある。

戦闘能力が異常に高い女性を主役にもってきてはいるが、単純な勧善懲悪的アクションなどにはなっておらず、デュナンが人を殺す直接的表現は一度きりである。劇中において「明らかな悪」として描かれる者はほぼ存在せず、それぞれの思想や理想の違いによる衝突が軸であり、哲学的に言えばデュナンは人類の葛藤そのものと戦う物語となっている。によって、流血も小規模だし、クライマックスにデュナンが挑む戦いは、人間が自ら作った兵器の暴走を止める、という具合だ。

公開当時のキャッチコピーは、「母になりたい。」
これはとてもよく覚えていた。

都市のいわば元老院にあたるような者たちが、人間への失望から、地球をクローン人間であるバイオロイドに託そうとする。バイオロイドはもともと生殖機能が省かれていたのだが、それを復活させ、逆にウィルスによって人間側の生殖機能を破壊しようとする。これによって人類側はいずれ「緩やかに絶滅」するわけで、これを元老院側は「人類の安楽死」と表現する。
元老院側は、多脚砲台という都市防衛兵器を暴走させ、ウィルスの保管されている都市中心部を破壊させることによってウィルスの拡散を目論む。デュナンのラストの戦いは、いわばこのウィルスタンクの破裂を食い止めるというわけだ。

このシチュエーションにおいて、この「母になりたい」というキャッチコピーは秀逸だと思う。
サイボーグ化してしまった恋人との葛藤も含めると、とてもいいプロットだと思うし、もしこれがもう少し前面に出されていたら、これは作品の質としてはもっと大化けしていたかも知れない。

しかし、この劇中では、直接的にそういうプロットは描かれない。もちろん、そういう発言も、意志表示もデュナンはしない。
これはとてももったいないなと思った。

たぶん、このキャッチコピーは、販促にあたって、あとから配給側がくっつけたものだろうと思う。しかし、見れば見るほど素晴らしいキャッチコピーだ。SFアクションのCG映画にこういうのを持ってくるというのは、なかなかできることじゃない。
これが、企画書の段階でプレミス的なものとして用意されていたなら、脚本もだいぶ変わったと思う。
いや、もしかすると企画の段階で用意されいたのかも知れないが、そうだとしたら「なぜそれをもっと使わないのだ」ということになる。


この作品は、デュナンにはあまり強い感情移入はできない。それは、デュナンの個人的な目的や欲求があいまいだからだ。
デュナンの目的は、あえて見つけるなら「亡き母の遺志を守る」といったものだが、それもかなり後半になってから発動するため、デュナンが戦闘員である以外の目的を持って自分から行動する、という割合がとても低く、これももったいなかったと思う。
恋人のブリアレオスは、彼女にとって重要要素であり、彼の無事を気にかけたり、命を救おうとしたりはするが、「彼との未来」というビジョンを感じ取る表現はあまりない。

もしデュナンの個人的な目的と葛藤がメインプロットとなっていたなら、この作品はあっぱれなものになっていたと思う。そしてそれが、「母になりたい」であったなら、それこそこういう作品に興味を示さないような人々にも充分鑑賞に耐えられるものなっていただろう。


これはいわゆる「SFもの」なのだけど、上に述べたようなことは「SFもの」でハマりやすい弱点で、これは先日の「復活の日」のレビューでも書いたことにも通じる。

SFというカテゴリの大先輩はもともと小説で、このジャンルの成熟は小説が行ったといえる。
「復活の日」のレビューでも書いたように、小説は時間の制限を受ける脚本とは違うため、哲学的な表現が可能な媒体だ。この、哲学がストーリー性を助けるという恩恵のおかげで、「SF小説」というジャンルは大いに発達する。

しかし、映画においてのSF哲学は、単に「設定」になってしまうため、それを落としこむのは至難の業になってくる。
実際、この「APPLESEED」でも始まってから20分あたりで、車の移動するというシチュエーションの中で延々とその「背景となる哲学的設定」を説明している。そして、そういう説明のシーンが他にもかなりあるのだ。これはSF好きなら集中できるだろうけど、普通の人からしたら退屈になっていってしまう。

しかし、「それがこの作品の魅力だから」と言われてしまったらそれまででもある。そもそもこういうのが好きな人たちがターゲットなんだ、と。
士郎正宗の原作は読んだことないが、「原作自体がそうなんだ」ということなら、あまりうるさくも言えない。だけど、作る側はどうせ作るんなら、多くの人を楽しませたいと思っているはずだ。そしてそれが商業作品でロードショーなら、さらにということになる。


SFが説明がちになった時、その説明を受け取る対象が必要なわけで、その多くは大抵が主人公となる。そのためにSF作品では主人公が自らの意志をもって物語を作るのではなく、どちらかというと巻き込まれ型として描かれるパターンが多くなってしまうという現象が見られる。「トータル・リコール」「バック・トゥ・ザ・フューチャー」「マトリックス」「ターミネーター」などなどだが、小説ではいくらでも巻き込まれた主人公の心情を表現できるが、映画脚本では行動で心理を表すので、早めにキャラクターへ強い目的を持たせることになる。

たとえば、SF小説を原作としている映画作品の中でも、僕が好きなひとつに「コンタクト」がある。「コンタクト」の主人公のエリーは、最初から「地球外生命体との交信」という目的を持っている。まさにタイトルそのままなのだが、この目的を通してエリーは自分の中の様々な葛藤や問題の解決を得る。


ここまでやれるSF作品というのはあまりない。「A.I」が意外にも成功しなかったのは、解決の要素に納得しにくい人々が多かったせいだ。それはおそらく、ロボットであるディビッドの目的と、解決的事象のバランスに問題があったからだろう。


SF小説(もしくは漫画)を原作として、大いに成功できた映画は意外と少なく、単純な興行収入だけでなく、顧客満足度まで含めるともっと少なくなる。

SF映画で最も成功したのは、皮肉にも「スターウォーズ」であることは、僕らにいろいろと教えてくれる。

この作品は、公開時にはSF小説の大御所と呼ばれる人たちからは大変な不評だった。まず科学的にはちゃめちゃだし、SF的概念にも乏しい荒唐無稽な物語だったからだ。だから未だに、あれを「SFとしては認めない」という人もいる。
しかし、これに最も熱狂したのが、SF(小説も含む)ファンだったというのが面白い。そしてもちろん、ご存知の通り一般の人達をも魅了した。

「スターウォーズ」のSFとしての最大の特徴は、「説明の要らない世界」を背景とし、それによってストーリーに集中させるという作りにしたことだ。
SFものというのは、ある意味「未知」のもの、つまり新しいアイデアや概念、斬新な科学的設定がモノを言う世界とも言えるわけで、そこにあえてこだわらず、「誰もが子供の頃から知ってる、想像できるかぎりの宇宙世界」をそのまま実写化したところに、ファンは鳥肌を立てたわけだ。

先に公開されている「2001年宇宙の旅」が公開当時、意外にもSFファンには不評の声が多かったというのは、小説と映画はやはり明らかに違うものだということを気づかせてくれる。

ただし、小説に近い(いわば哲学寄り)の映画でも、評価されることはある。「2001年宇宙の旅」も、結果的には名作扱いだし、「ブレードランナー」など、興業は失敗でも後々になってカルト的人気を博すものもある。ただ、「ブレードランナー」は構成的には明らかに失敗作なので、後にディレクターズ・カットが作られたりしている。


「APPLESEED」に話を戻せば、「母になりたい。」というプロットをもっと前面にしたならば、このストーリーからすれば、デュナンは最後にもっとなにかを得てラストを迎えることになるわけだ。しかし実際はどちらかというと、「人類とバイオロイドの共存世界の未来」を守ったこと(もしくは任されたこと)と、恋人が無事でよかったというのが「収穫」のように見える構成になっている。
「私たちのこどもたち」というフレーズが、最後の最後、デュナンのモノローグから出てくるが、人間味の薄いものになってしまっているのが、惜しい。


いい作品というのは、ラストシーンが印象に残るものだが、今この時点で、もうこの作品のラストシーンがあまり思い出せない。
せめて、一人の女性としての未来への希望を掴んだデュナンの顔がありありとしていれば、こんなに記憶があいまいにはならなかったと思う。

やっぱり、少なくとも映画というものは、ジャンルに関係なく、「人」を描いてなんぼ、なんだなと思います。






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2012年07月27日

カルメン故郷に帰る

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カルメン故郷に帰る

監督・脚本 : 木下恵介
出演 : 高峰秀子 小林トシ子 望月優子 佐田啓二 笠智衆


こんな記事が目にとまった。

木下恵介監督『カルメン故郷に帰る』がベネチア新部門の初上映作品に!カンヌに続く快挙


木下恵介作品は観たことがない。というか現代において、これだけその作品を観る機会に恵まれていない巨匠もなかなかない。
どこかで、なにかしらのかたちでひとつくらい観たことがあるのかも知れないが、まったく記憶にないので、観たことにはならないに等しい。


で、この「カルメン故郷に帰る」がHuluにあったので、さっそく観てみた。

松竹三十周年記念作品。そして、日本初のカラー作品です。1951年公開。
「総天然色」という感じで、やや赤みがかった強い発色。この当時のカラー撮影は光量を必要とするため、全編ほとんど屋外での撮影になったらしい。(屋内のシーンがないわけではない)
舞台が北軽井沢になっているのも、光量を得るためだったという。また、カラー現像がうまくいかなかった場合に備えて、モノクロ撮影もするという「二度撮り」を行なっている。大変ですねえ.....


ストリッパーの"リリィ・カルメン"こと、おきんが、ストリッパー仲間の朱美を連れて生まれ故郷の浅間山麓に帰ってくる。家出同然で飛び出していたため、迎える父もぎこちない。しかし天真爛漫なカルメンは意にも介せず、自然に囲まれた村を我が物顔で練り歩く。そんな東京からやってきた華やかな女二人に、目を丸くする人々。ある学校の運動会を台無しにしてしまった穴埋めに、カルメンたちはダンス・ショーを披露することになる。まさかストリップだとは思わない人々が観に集まるが・・・


面白いのは、カルメンは自分がストリッパーだということを隠しているわけでもなく、恥じてもおらず、むしろ「アーティスト」として誇りに思っているところだ。だから故郷の人間も「ダンサーとして成功して帰ってきた」と思い込む。


さておき、カンヌで好評だったのかも知れないけど、正直、僕は生理的に合わなかったような気がする。しかも困ったことに、その理由や原因があまりわからない。

全体的に興味が持続しなかったのだ。ちょっとそんな自分にショックでもある。なにか面白い点はないかと探しながら観たのだけど、気になるのはその画角、とかそういう、どうでもいい点だった。


人間の全身が映り込むという、いわゆる「サザエさん」の画角が基本デフォルト。

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この画角がほとんどを占め、ワンシーンがワンカット構成、この画角だけで終わることも多い。

もちろん、バストショットなどもあることにはある。

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顔のアップなどはほとんど皆無に近く、少なくともあまり記憶にない。

全体的に、「人を撮る」というよりも、「背景があり、そこに人を置く」という目線で、なにかこう俯瞰的、観察者的な視点が常に支配している。そして、その手法の目的がまだ僕には発見できていない。

有名な他の木下作品、「二十四の瞳」や「楢山節考」などもこういう感じなのだろうか。もしくは、この作品にかぎってなのだろうか。

先の記事ではこの作品、コメディと紹介されていたが、Huluでもコメディに分類されている。だからそのつもりで観たのだが、一度も笑うことはなかった。クスッともなかった。なぜだ。


木下監督はいろいろな題材を撮ってきた人、という印象があるのだけれど、この「カルメン故郷に帰る」に関しては「冒頭からいきなり引き込まれない」映画という印象になってしまった。
どういう生真面目さなのかはわからないが、すべてにおいて丁寧なお膳立てを用意してから展開するという脚本構成になっていて、1時間20分という短めの尺でありながら、「もっと短縮できるのでは」と思ってしまう。

主演の高峰秀子は大いに観る価値があるが、しかし木下監督は自らこの女性を創りだしておきながら(監督が脚本を書いている)、彼女にはあまり興味がないようにみえるし、愛情らしいものも感じない。

なにか不思議なものを見せ続けられている感じだった。

ほんとなら、初の木下作品ということで、「いやあ、なかなかどうして面白かったですよ!」みたいなエントリが書けると勝手に期待していたので、この結果にちょっと動揺している。

なにか見落としているのだろうか。


この約3年後ぐらいに、「七人の侍」が誕生する。それで長老役をやっていた高堂国典さんが、裸で踊るカルメンをポカンと見上げるカットばっかりが印象に残っているw


いい映画というのは、印象に残るセリフが必ずあったりする。しかしこの作品は、「セリフはどうでもいい」といわんばかりにサラサラと流れていく。
また、古い作品なので、何を言っているのかわかりづらかったりするのだが、これは仕方ないので全然かまわない。ただ一番まいったのが、セリフの音声が映像とずれていたのである。これはHuluの問題なのか、オリジナルがそうなのかはわからない。けどこれでずいぶんと集中力をそがれてしまった。


もう一回観てみようと思います。


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2012年07月26日

リーサル・ウェポン

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リーサル・ウェポン

監督 : リチャード・ドナー
出演 : メル・ギブソン  ダニー・グローヴァー

80年代を青春として過ごした男性で、この作品を鑑賞したことがあるならば、たぶんその多くはこの映画をあまり悪く言ったりはしないだろう。

後に「ダイ・ハード」や「マトリックス」を手がけるジョエル・シルバーが製作したこのヒット作品は、ある意味ハリウッドにおける刑事アクション映画の転換期的作品となっている。

ちなみにこの作品、僕は100回以上は観ている。
「アホですか」と言われてしまいそうだが、そう、アホだったのだ。今日の鑑賞で何回目になるのだろう。

なにがどう転換期的かというと、それは大雑把に言えばアメリカの古典的な刑事アクションから、現代的な刑事アクションへの移行、というものだ。この翌年の「ダイ・ハード」で一気にそれが加速する。

この作品はいわゆる「バディもの」で、遺伝子的にはTVシリーズ「スタスキー&ハッチ」や「マイアミ・バイス」を受け継いでいる。「スタスキー&ハッチ」のゴキゲンな要素と、「マイアミ・バイス」の硬派さが融合された感じだ。

メル・ギブソン演じる主人公のマーティン・リッグスは、僕が最も好きな刑事キャラクター。
まずこのリッグスが、今までの刑事映画にはない要素を持っていた。題名にもなっている「リーサル・ウェポン(必殺兵器)」であるということ。

「捜査する刑事」ではなく、「戦う刑事」というキャラクター性を確立したのはクリント・イーストウッドの「ダーティ・ハリー」で、その後にやはりそれを目指して製作された、スタローンの「コブラ」などがある。しかし「コブラ」はシリーズ化実現はならなかった。

その後にもポツポツと刑事アクションはあったのだが、この「リーサル・ウェポン」は主人公に「元特殊部隊隊員」というのを持ってきて、戦闘力を上乗せしたことによって今までにない火力の増す演出をやってみせた。

刑事にベレッタ(M92FS)というダブルカラム(多弾数)拳銃を持たせて、派手に撃ちまくらせてみせるというスタイルは当時、「こんなの見たことない」だったのだ。
さらにはリッグスは、H&K PSG1ライフルを持ちだして、狙撃まで行う。

間違いなく「最強の刑事」であって、「リーサル・ウェポン」。これに対抗する犯罪者側は、ただのギャングでは役不足ということで、やはり元特殊部隊の男が受けて立つ。

この作品は「第5弾」まで企画されるほどの人気シリーズとなるが(実際に製作されたのは4まで)、それはやはりこのリッグスの魅力と、ダニー・グローヴァー演ずる黒人刑事、ロジャーとの絶妙なコンビっぷりが成功しているからだろう。

リッグスの魅力はいろいろあるが、まずその「バイタリティ」。これがなにより他の刑事アクションと違っていて、このバイタリティは後の刑事アクションものに受け継がれていく。

たとえば、車を奪って逃げ去る犯人。刑事、それに向かって銃を放つ。バンパーに弾く銃弾、割れるガラス。しかし犯人の車は遠ざかっていく・・・こういうシーンはよくあるが、この場合これまでの刑事ものは、「son of a bich!」などと吐いて見送るか、まあよくて他の車を探して奪って追いかける → カーチェイス といった具合だ。

しかしリッグスはいきなりそのまま足で走って追いかけるのである。この展開は当時、「まじかよ?」だった。これほんとに。
まじでこういう発想はなかったのだ。当時つきあってた女の子も、観終わってから「あの走って追いかけるとこがすごかった」と言ったのをよく覚えている。リッグスは高速道路のバイパスを使って先回りし、犯人の車にMP5の銃弾を浴びせる。

この映画は、刑事モノにお約束のカーチェイスがない、というのも特徴で、あえてそれを避けている。リッグスという「人間兵器」が肝だからで、彼が身一つで戦っていく様を信条としている。走って、飛んで、登って降りて、伏せて転がり掴んで回し、ひねって押さえて撃ちまくる、ってな具合でござい。

最後の最後に、わざわざ格闘技戦に持っていっているのもそのコンセプトからだろう。


リッグスが強い理由は、単に技術やバイタリティがあるからだけではなく、「自殺願望のある男」だからというのもある。死ぬことを恐れないというのは時として最大の武器だ。
彼は交通事故で妻をなくしており、自暴自棄になっている。警察のカウンセリングにかかっており、「異常者」もしくは「年金ねらいの芝居」などとさえ見られている。

この映画のサブ・プロットは、「自殺願望のある自分の変革」であり、リッグスが犯罪との戦いの中、ロジャーとの交流を通してそれを成し遂げ、一人の男として再起する話なのだ。

コンビを組んだ時、リッグスとロジャーはあまり反りが合わない。ここまではまあ、よくあるノリだが、その後の相互理解への道筋は、折り重なるアクションによって作られていく。そしてなによりも、ロジャーの家族が接着剤の役目を果たす。

この作品の隠れたテーマは「家族」であり、独り身のリッグスが最後、クリスマスの夜をロジャーの家族と過ごすことを選択してラストを迎える、というかたちになっている。
このアメリカ人好みの「家族」というテーマは、その後のシリーズでもきっちり機能し、このシリーズを支えてきた。


とにかく、この作品移行、刑事アクションにおける主人公はバイタリティが増し、戦いにおいて柔軟になり、容赦のない奇抜な行動も辞さなくなってきた。そういう意味でも、記念すべき一作だ。

もし観たことないなどいう野郎がいたら、是非経験すべし。少なくもパート2までは押さえよう!


100回超えて見ても発見のある映画でございます。




posted by ORICHALCON at 05:44| Comment(2) | TrackBack(0) | Cinema